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「ミニ自分史」(68)「電話あれこれ」

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 学生時代、受験の時に世話になった下宿では、大家さんが取り次いでくれた。 寮に入れば、やはり管理人が連絡してくれて、急いで電話のところまで飛んでいった。 そのあと、雑司ヶ谷の素人下宿では、階下の大家さんが声をかけてくれた。
 よく移った。渋谷の駅に近い4階建て、青色のペンキが塗られたアパートは、怪しげな雰囲気があった。 「昼間のお勤めですか?」と奇妙なことを聞かれ、「そうです」と答えて借りた一階の部屋にはまったく陽が射さなかった。
 しかし、各室に受信専用の電話があり、"交換手"が取り次いでくれた。室ごとにトイレがあるところから、 ある種の専門"旅館"の名残ではないかと思う。半間の押入れの上段に、女性名の預金通帳が残されていたが、預金はゼロだった。 2年ほどいたが、泊めてくれと訪ねて来たのは、「ホモの外国人に追っかけられて」という学生時代の友人だけだった。

 結婚してアパートに住み、電話を購入した。7万円だかの債権は高かったが、必需品でもあった。 わが家も、やはり黒電話の時代が長かった。
 コードを長くしたこともあり、高校生の長女が深夜に布団の中でかけることもしばしばだった。 またコンサートのチケット(予約)をとるのにお話し中がつづき、何十回もかけたりと、 大学院時代は年長のアッシー君に送られて深夜に帰宅したり、その彼からの電話で泣いていたりと、 まだ「再」とかリダイヤルの装置がない時代でもあった。
 子機つき電話となっても、すでにファクスもついており、その子機はやはり長女の枕元に置かれていた。 今は二代目であるが、子機はわがテーブルの下に設置してある。よくかけてくるのは、どこで調べたか、不動産に墓地、 投資関係のものばかり。そういえば、長女も長男も名前が二つに読めるため、いずれも縁のない電話だと分かり、 直ぐに切ることができた。
 そして、一人一台のケータイ時代、妻や義母の入退院をきっかけに、わが家も例外ではなくなった。

 そういえば、1984年9月末、名古屋で同居の娘(私の姉)が亡くなったあと、毎朝かける一人暮らしだった母との交信も長く続いた(当時80歳)。
 同年11月10日(土)の項に「母は私が毎朝7時45分前後にTelするので、かなり忙しいとのこと。朝のお経、散歩、食事と息つくヒマもないのだそうだ」とある。 出張や旅行中でも、「おはよう」と言い交わすだけだったが、声を聞くだけで、その日の健康状態が分かるという意味で、 10円で得られる安心感は大きかった。
 ずっと後になると、母はその時間が来るころ、電話の前で待機していたそうだ。しかし、やがて、出るのに時間がかかるようになった。 寒い時期である。何かあったかと訪ねて行き、民生委員や近所の人に相談し、近くの病院に入院させたのは、87年1月のことだった。
 春ごろには健康も回復し、老人施設に世話になると、「やっと自分の"家"が持てた」と喜んだ。 その後も、年に10回以上訪ねるだけでなく、私は飽きもせず忘れもせず、電話をかけ続けた。

 思えば、小学生のとき、教員室から用務員室だったかにある電話を使って、"電話のかけ方"を学んだことがあった。
 順番が来て、壁掛け式の電話機に向かって、私ももちろん初体験、「もしもし、・・・・」と何を話したか忘れたが、 受け手である先生から「上手だった」と褒められたことを覚えている。
 昭和20年代の終わりごろ、ほとんどの家に電話などなかった時代である。褒められたのが言葉遣いだったとすれば、 (福井県から静岡県に転校した)よそ者の私が"標準語"を喋っていたからかもしれない。


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