昭和38(1963)年のこの日昼ごろ、西武新宿線の東伏見駅で降り、少し雪でぬかるんだ道を歩いて東伏見稲荷神社に向かった。
豆まきは、子どものころの重要な行事の一つだったような気がする。この日は姉妹歌手ザ・ピーナツが豆まきをするとのことで、
私はさして好きでもないが、一人で行ったのである。
そのとき撮った写真に「会場でも人気者、ザ・ピーナツのお二人」とアルバムに記している。
そして日記1「その朝、起きてみると、カーテンのすきまから射す光がまぶしく、辺りは一面の銀世界だった。
私は、心はずませて、雪の中を歩きまわった。/午後、近くの神社で豆まきがあるというので、行ってみた。
雪はもう止んでいたが、道はぬかるみ、歩きにくかった。/それでも、泥んこの狭い境内には多数の人々が、この行事を、というより、
有名人の顔を見に来ていた」とある。
もう一枚には「東伏見稲荷神社の豆まき 午後1時半」とあり、
日記2として「幼い頃は、この日家で、大豆をまくということだと思っていたが、今になって、この行事を見るのも悪くないと思った。
知らぬ顔して、わずかに投げられる豆やみかんを取ろうとして必死になっている人々の表情を見るのも、また一興であった」。
前年に大学へ入り、その5月から39年3月ごろまで北多摩郡田無町(現・西東京市)にあった大学の寮に住んでいたときの一コマである。
時代はとんで、昭和46(1971)年のこの日午後、思わぬ交通事故に遭い、相手(ある地方テレビ会社社長夫人)から弁償しろと訴えられる。 その顛末をメモにして提出したところ、梶山は「徹底してやれ!」という一方で、それを元にコラム「梶山季之のあたりちらす」(夕刊フジ連載)と 「有閑マダムと少年」(「オール讀物」46年1月号)が生まれている(拙著『梶山季之』p101-103参照)。
そして2年後48年のこの日、30歳の私は結婚した(ひと呼んで"人前結婚")。
この日を選んだ理由は、初午・節分・土曜日・父の誕生日・月刊「噂」には暇な時期などが重なったからだが、
当時の父からの手紙に、次のようにある。
今までに、名古屋、三原、東京からの連絡を基本材料として、大体左記の通り決しました、 各所夫々に意見のあることは当然ですが、これがいちばん簡単で、能率的な処置(そういい切ってしまっては失礼かも知らんが)と思うので、 納得してほしい、
一、東京の披露宴には、当方よりは誰も出席しない、
一、二月四日、九州旅行への途中、名古屋で途中下車、一列車位か、対談のこと、
一、それから茨木へ、当日は一泊してもらう積りと同時に新婚旅行との関係はどうなるかと氣にかゝっていたが、 ここでも短時間の対談に止める予定らしいので、その案に従って行動してもらう、三原の茨木参加も中止、 三原は二、三ケ月目毎に商用上京の機會あり、その際対面挨拶のこと、《以下略》