本欄(61)「"講師"という仕事」その3 で記したように、東急セミナーBE(渋谷)「文章教室」の講師を引き受けたのは03年4月である。
前任者が辞められるので、引き受けて欲しいといわれ、しかも"文章"関係は人気があり、生徒さんも多いから長く続きますよともいわれた。
半年間を1期(10回)としており、講義の回数は隔週2回で12回のところ、1回だけの月が2度あることになっていた。
生徒さんは前から引きつづきの方、新規の方、途中から参加など、半年間でもいろいろなケースがある。
引きつづきという"先輩"が多く、しかも20名を超える生徒さんは圧倒的に女性が多い。
前任者と比較される私としては、しばらく緊張もしたが、講義後の"お茶"の時間では、質問ばかりでなく世間話もするなどして皆と対等の時間を過ごしていた。
しかし、上手くいっているかどうか、役に立っているのか、どのように思われているのか、こればかりは聞くわけにもいかない。
そうこうするうちに、生徒さんたちから、教室のないときに自主講座をやってくれないかという要望が出た。
月2回のペースが崩れるのはやりにくいということらしかった。
先行き不安だった私には思いがけなく、うれしい話である。とりあえず合格点をもらったようなものだったからだ。
"番外"編は生徒さんが会場を探して、そこへ向う。参加者は多いときには10人を超えたこともある。
教室とはまた違った雰囲気で、時間もゆったりあった。しばらくすると、「先生の書いたのも見せて下さい」ということになり、
教室でもこの"番外"編でも断るわけにはいかなかった。
最初のものは「"結婚"について」(1963.9.20)という学生時代のものでお茶を濁したところ、
40代の女性からブーイングが来た。
《同じころ、「シズケン?!(「名前」)」というのも書いている(2003年7月)。》
昭和30年代のはじめ、ラジオから流れてくる芸能人の声といえばエンタツ・アチャコに広沢虎造、柳家金語楼や榎本健一らであった。
面識はなくとも、当時の私にはキンゴロウやエノケンとの浅からぬ"事件"があった。
父親が教師だったこともあるが、比較的"標準語"を話していた外地育ちの私には、帰国後の福井県、静岡県、大阪府という"移動"は、
子ども心に楽しくもあり、その地の言葉に染まるのも早かった。
小学3年の5月に静岡県に移り、中学入学寸前に大阪府下に行った。前者では標準語を冷やかされるうちに静岡弁に馴染み、
ついで強烈な大阪弁の世界では、珍しい静岡弁を笑われるだけでなく、「シズベン」とからかわれ、
また「ハシケン」とか「シズケン」、「ハシモトケンゴロウ」などといわれていた。
面白くなかったが、クラスに溶け込むことがいちばんだと思い、笑ってすませていた。
ある日、昼休みの時間だった。
運動場に出ようとしたところ、うしろに「ハシモトケンゴロウ」という声を聞き、このやろうと振り向きざま殴りかかってしまった。
ところが、見知らぬ相手は二人ともきょとんとしている。私は私で、彼らはどうして"あだ名"を知っているのだろうと思ったものだが、疑問は数日で解けた。
そのころ、参議院選挙があり、全国区に「橋本欣五郎」というA級戦犯の元陸軍大佐が立候補していたのである(31年7月)。
彼らは"キンゴロウ"という名前に面白さを感じていただけだったのだ。
欣五郎候補は落選し、自意識過剰だった私はさらに落胆したのだった。
《ついで、課題提出約600字×2本 ということで、私の場合は…》
「助走」(28歳、女性という設定で書いたもの)
先生が、「ジョソー」といわれたとき、先生はなぜ私のことを知っているのかとびっくりした。
女なのに私は、ついこの間まで、男性よりも女性に憧れていた。タカラヅカの影響というより、子どもの時から"男の子"として育てられたからかもしれない。
でも、その気持ちはだれにも打ち明けられなかった。
会社勤めをしても、理想の"女性"は見当たらず、また世話好きの伯母さんからの縁談も、当然あいまいな形で断っていた。
写真も見ないで断るなんて、私の顔をつぶすの、とまで言われたが、男性には興味がなかったので仕方がない。
ところが、ひょんなことから、"どんでん返し"が起こった。
それは、つい最近、面白いところがあると、上司に連れて行ってもらった女装クラブでの出来事だった。
初めての経験にわくわくし、お酒を飲み会話を楽しんでいたところ、その"女性"の女らしいしぐさと細やかな心遣いを見ているうちに、
ふと父の姿がダブってしまい、私は思わず店を飛び出してしまった。
見てはいけないものを見たというより、私は理想の男性を、現実のではない"父"に求めていたことに気がついたのだ。
それがトラウマというものだったかもしれない。ショックと戸惑いの中にいる私だが、どうやら長かった助走から解放される日が近いかもしれない。
「タブーについて話すのはタブー」(55歳、男性という設定で書いたもの)
私には、これといってタブーというものはない、タブン。だから何を書いてよいのか、正直なところ分からない。
それにしても、いつも変わった課題を出す先生である。みんなが言うように、どうして思いつくのかと思う。
今回もそうだ。タブーは"禁忌"と訳されるが、どういう意味か、あまり考えたことはない。
宗教的な意味合いが強いという人もいるが、「あの人にこの話はタブーだ」とか、「これはタブーでして」などというし、
だれもが日常的に使っている言葉であることは確かだ。
一般に、秘密にするとか、喋らないというのであれば、どこかの総裁のように、"墓場まで持っていく"ことで、
人に不愉快な思いをさせない、恥をかかせないということになる。
しかし、「恥をかかせない」となれば、先生がいつも難題を出すのは、まさに私たちに「恥をかかせる」ことになるのではないか。
思い出したことがある。かつてマスコミには、菊と鶴に、何とかという、報道するとクレームがつくという三つの"タブー"(聖域)があった。
聖域は、立ち入り禁止の意味であったり、だれだれさんには、オツムの話はタブーだとか、身体の特徴などを話題にしないようになどと、いろいろあるだろう。
そういえば、先生はよく、宗教的、政治的、思想的な観点での発言や文章上の評価をしないといっていた。
だれにでも、思想信条があり、それが他と違っていても、お互いに尊重する、排除しない、ということだろうか。
であれば、"タブー"そのものも口にしてはいけないのでは!?
《このように何度か書いたが、照れくさいというか、私はちょっと"外して"対応する傾向がある。 ここに挙げるのは4期目のときのもので、12月の出題「チャ、チュ、チョ(今年の流行語がヒント)」である。》
「チャチュチョは素晴らしい?!」 (2005年1月)
チャキチャキの江戸っ子だとか、地方出身の茶木クンだとかいっても、茶漬けをすするのは、みな同じではないか。
茶わん酒をあおりながら、政治は茶番だよなんてオダをあげるやつなんて、チャンチャラおかしいよ、なァご同輩!
チャンと飯食えったって、わが家は母子家庭だから、いつも母チャンが相手だよ
(なに、いまじゃ父子家庭が多いんだって。「父子家庭も過去最多/03年厚労省調査/17万世帯〈離婚で〉20年で42%増/悩みは家事35%」東京05・1・21)
チャウチャウは犬の一種だが、大阪弁の「ちゃう」は「ちがう」の意。「ちゃうちゃう」とも続けるから、ややこしいっチャない。
古く、「無茶苦茶でござりまするがな」は、たしか上方漫才・花菱アチャコのせりふ。
以前、10chのことを「とうチャンネル」(父ちゃん寝る)などといっていたが、「母ちゃん起きる」では、不仲?!
チュウはねずみだが、チュはキッスだってやんの。擬似語キッチュはドイツ語、まやかし、俗悪の意。 「チューチューたこかいな」。すずめはチュンチュン、マージャン牌はチュン(中)。 渋谷のハチ公は忠犬、武士には"忠義"、戦争になれば"忠君愛国"
床屋談義はいま流行らないが、酒が入ると、いつも中長期的などという抽象的議論ばかり。 互いに中傷する中朝会談だとか、有頂天になって、あたり憚ることない長広舌、丁々発止と行かないところが悲しいが、 少し黙れよと注意するにも躊躇するよ、アッシは!
著名人の長さん、監督時代は貯金を減らすばかり?!
彼の超美技に酔った、仙台出身の巨人ファンの発音「きょじん」は、なんど聞いても「チョジン」だった。
「チョウさん来たか、待ってたホイ!」
都蝶々の相棒は「何という字(南都雄二)」、韃靼海峡を渡ったのは「てふてふ」、あなたは「蝶よ、花よ」と育てられた?! (丁か、半か)
チョンの間とか、バカチョン(カメラ)は差別語だって、ご注意を!(ちょん切る、もいけないか?)、もう死語かな、「チョンガー」は朝鮮語で独身男。
むかし勤倹貯蓄、いま金利は超薄型でタンス貯金も、「ちょっとだけよ」は加藤茶の相棒のせりふ。 ついでに言えば、「ガチョーン」は谷 啓(クレージーキャッツ)。
飲み屋の風景:「お銚子一本」の声、一本調子! まだ酔うのは早い?!
そういえば、記号""を、チョンチョン括弧などという講師もおりましたなあ?!
「ちょうど時間となぁりましたっ!(チョン!)」
《これに関し、ある女性は「いろいろ言葉が出てくるものですね、感心するわ」とのことだったが、 時には、言葉に詰まることもあって、表現はいつでも悩ましいものであります。》