”書くこと”−"結婚"について

"書くこと"目次へ     


"結婚"について

1963.9.20 橋本健午

 秋が結婚のシーズンといわれるのは、木の葉が散るせいかもしれない。

 クラスの女の子が、この間結婚した(その後、相変わらず授業には出ているようだ)。 私はそれを知らされても、別に驚かなかった。何故なら、私に関係のないことだったから。 他の女の子は、ショックでも何でもないといった。また別の女の子は、結婚なんて意味がないという返事だった。 これは、解することができる。私のクラスには、結婚否定説を唱えるものもいる。 私は彼女のことを強がりだとも、高慢だとも思わない。それは、私にとってはどうでもいいことなのだ。

 結婚に夢を抱く人は、人生にも夢や希望を持っていることだろう。 彼は、毎日が楽しいだろうし、まずそこに意義を見出すだろう。では、そうは感じられない人はどうだろうか。 生きることに意義を見出さず、いや人生に絶望している人にとって、はたして"結婚"なんてことが、意味のあることだろうか。 別に"結婚"とまでいわなくともよい。愛とか愛するということが、現実にありうるかどうか。

 自己と他人とは、全く相容れないものである。愛はお互いに犠牲を強いることだとしたら、人格を有する人間に、 それができるだろうか。現代では、人間の本心の発露というものは信じられなくなっている。人には信ずるものがないのだ。

 人が好きなのと、愛するのは別である。人間が情動的になるのは美しいかもしれないが、愛は冷やヽかなものである。 厳かに式を挙げて、祝福されたとしても、二人の間に愛が実在するかどうかは疑わしい。 むしろ、それ以外の結びつきの方が多い。ひとは己自身になるのを怖れるし、考えることを避ける。 明確にされることや、限界状況にあること、あるいは限界状況にあることを自覚することを怖れる。

 絶対的な愛の結びつきによるのでなければ、真の結びつきではない。 "結婚"とは、世帯道具を揃えて、世間に愛想よくしたり、子供を作ることではなく、単に二個の肉体の結合を意味するのだ。 愛は、最も確かなものに見えて、その実、最ももろいものである。 何ものも信じられなくなって、人が愛のみにすがろうとするとき、彼には天賦の才能が必要である。 そうでなければ、平凡な内社会者(インサイダー)であることが要求される。

 結婚に意味がないといったのは、他の全てのことに意味がないということである。

 とはいえ、私たちが依然として存在しているのは、絶望しながらもなお、人間の未知の部分に執着しているからである。 自分は自分以外の何ものでもないのだという認識とともに、他の存在をも許容するのである。 しかし"他の存在"から何かが生れて来ると信じているわけでもない。

          *何でもよいから書いてくれと頼まれて書いたのだが、
            不真面目にも"没"のうきめにあったもの。1964/6/23


ご意見・ご感想はこのアドレスへ・・・ kenha@wj8.so-net.ne.jp