いろんな書類の整理をしていると、思いがけないものが出てくる。題して「"社長業"失格の顛末」。 今から、30年ほど前、35,6歳ごろの話である。
ついに、オーナーYさんに対し、私はこんな手紙を出していた。
前略 お忙しい処、恐縮です。手紙の方がよいかと思いましたので。
会社も七月三十一日で第一期が終了しましたので、目下決算報告を作成中です。 法律の規定により、取締役ならびに監査役の任期が切れますので、新たに株主総会を開いて選任しなければなりません。
今までの経過により、監査役K――不適格、取締役F――辞任ということでしたが、私も代表取締役ならびに取締役を辞任いたしますので、 新たに取締役二名以上、監査役一名以上を選任の上、印鑑証明をそろえて下さい。手続きの方はいたします。一年間というお約束でしたし(まだ少し精算が済んでいませんが)、これ以上ご迷惑をおかけしても申訳ありませんので、 目下のところ、原稿書きを精一杯やるつもりです。
会社組織とか、私のような扱いにくい、不向きな人間のいない方が、Yさん《オーナー》も色々と動きやすいだろうということは、 以前から痛感しておりましたので、決算を迎えたこの際を一区切りとした方がよいように思います。私事ですが、まがりなりにも妻子を抱えている以上、「お話」だけでは、誰も納得させえず、家庭も破壊されかねず、 いくらご好意でも、いつまでも依存していてはいけませんので、何とかやっていくつもりです。
また折角いい材料を与えて頂いたのですから、これを何とか出版までこぎつけようと頑張っておりますので、 どうかお見守り下さい。いつもうるさく言って申訳ないのですが、マスコミの世界は狭くて、口うるさく、足の引っぱり合いです。 (Yさんの向く世界ではありません)
そのよい例が、昨年夏の一件であり、まだまだHさん《有力出版社の元編集者》などは影響力を持っております。また、身内だと思うような人に、前宣伝のように連絡するというのは、決してうまいやり方ではなく、つぶされるのがオチです。 なぜなら、表面は仲がよさそうでも裏へまわって悪口の言い合い、足の引っぱり合いだからです。
そして、"作家を育てる"のは出版社か編集者であって、門外漢が口を出すほど、きらわれるものはありません。 また、ヒモツキだということも、きらわれます。いずれも、よくご存じのことと思いますが。
今まで折角、静かに来たのですから、これ以上騒ぎを起こしたら、完全に抹殺されます。物笑いのタネです。 Yさんは失うものはないでしょうが、私は完全に抹殺され、生きて行く道がありません。 どうか今まで通り、静かにしておいて下さい。私が何とか頑張って出版でもされれば、Yさんへのご恩返しも出来るし、Yさんの顔も立つのですから、お願いします。 それまでの辛抱です。
いずれにしても、他の人に言えないことですので、よろしくお願いします。
一方的に書いて、意をつくせない処があるかも知れませんが、お許し下さい。
また、顔を出します。お体には充分気をつけて下さい。
昭和五十三年八月十一日 橋本健午
Y(フルネーム)様
《ほとんど読み返していないような文面だが、年配者に対し言いたいことは言い切っているか感じではある。
文中にある「原稿書き」として「いい材料」をもとに「出版までこぎつけ」ようと頑張っていたのは、
4年のち1982年7月に日本経済評論社から上梓された『父は祖国を売ったか―もう一つの日韓関係―』をさす。
この会社に在職中(1977・10〜78・07)、3月末に事務所で紹介されたのが当時70歳の大東国男(本名:李碩奎)さんである。
その父李容九は明治43(1910)年の日韓併合に関して、母国で"売国奴"呼ばわりされた人物。
お宅に近かった私は、大東さんに何十回もお会いし(録音テープは20巻ぐらいになった)、かつ梶山家から借りた多くの資料にあたり、
上記の出版にこぎつけた。当時の日記(78・04・01)に「第2回打合せ 異色のものを作りたい。歴史と/将来の日韓の若者に与えるもの」と記した私は35歳であった》
では、そのてんまつを簡単に記しておこう。
「定款」昭和52年9月9日公証人認証(設立52年10月4日)
第2条(事業)
1、出版、書籍の販売 2、講演会、講習会の企画、斡旋 3、日用雑貨、建築資材の売買の仲立、取次 4、建築工事請負の仲立、取次 5、上記に附帯する一切の事業
ついで、「設立趣意書」昭和52年10月には、次のようにある。
現代は不況の時代といわれながら、様々な商品や情報の氾濫という様相を呈しております。
その中で、企業も個人も、何が本当に必要なのか、の判断に迷うという矛盾の時代でもあります。
したがいまして、当社では氾濫する情報の整理と、集約・方向づけを行い、かつ企業間の、
主として日用雑貨や建築資材関係の売買、工事請負に関するジョイントを行い、新製品・企業の紹介などに関する出版や、
講演会・講習会の企画等を通じて、省エネルギー政策の一助としたい所存であります。
一目でお分かりのことと思うが、私にできる事業は辛うじて1と2だけである。
そこで、何がしかのプランを立てなければならないと思い、次のようなことを考えていた。
もちろん、私一人の考えではなかったはずだ。以下、"メモ"は数枚のB5判の紙に書かれたものである。
なお、協賛企業は**や○○で、事前あるいは事後に、少々お時間を頂いて企業の説明会をさせていただきます。
一部の講師陣は別表のとおり(省略)。
《さらに、チラシのひな型や講師の略歴・当日のスケジュール表のひな型も作っていた。
オーナーの"人脈"は各界にわたり、かなりのもので、作家・評論家、代議士やその秘書、"建築資材関係"の会社役員など「事業」に関連する関係企業などの有力者が並んでいる。
もっとも、私は作家や編集者などしか分からず、名刺の肩書だけ見てもピンと来ない人が多かった。》
どのような善政も、またどのような輝かしい業績も、このめまぐるしい世の中では残念ながら、
どんどん人の記憶から忘れられ、過去のものとなって行きます。
世のため、人のための業績というものは、そのように人知れず忘れられて行くものかも知れませんが、
数十年の人生の重み、また地方行政に尽くされたことは、子々孫々の代まで記録として残しておくことが、
公人として、また一日本人として必要なことであると思われます。
原稿を書いて頂くのもよし、ご多忙であれば、テープに吹き込んで頂いたものを原稿になおして、
それに目を通して頂くのもよし、どちらでも結構です。
・半生記 ・主義・主張(政治思想・信条) ・随筆(随想) ・講演集(対談・座談会記録) ・小説 ほか
どのようなジャンルのものでも、記念として残されることは、大変意義のあることですし、立派な「事業」であると思います。
本の大きさ B6判(ヨコ128ミリ×タテ182ミリ)
原稿枚数(400字詰め) 300枚(約200ページ)
部数 500部(1,000部)限定
製作日数 早くて2か月
著者校正 初校の後に、一回
予算 約200万円(多色刷りや写真・図版の多い場合、表紙・カバー等、豪華本にする場合、少し余分にかかります)
・略年譜・業績 15〜20ページ
・写真・自筆の書画 2〜4ページ
・本文
・序文 著名な作家などにお願いします
さらに、3月26日付のメモには、町長向けの企画が並んでいる。
郷土自慢(酒、料理、民謡・踊、神社仏閣、名所旧跡)
名士紹介(名誉町民、○○職人の町、知られざる業績の持主)
町の話題(建設・土木関係)
地方自治と世界情勢(論文)
政治の動き(手記)…選挙 住民への貢献とは何か?
・私は過疎対策をこう講じた
・工場誘致に成功した
・町長奮戦記 いかに活躍したか
重要文化財・人間国宝 県指定/町指定
学校(旧い小学校の紹介、100年ぐらい前、出身者名簿)
*わが町出身の有名人 政界・財界、スポーツ・芸能、作家・文化人 など
《このプランは真剣に検討した。後年(2001年)、あるところから「自分史講座」の講師役を依頼され、 そのテキストを作成した際、ここにあるような文言を用いて、"勧誘"のチラシなどを作っていたことを思い出した。 思えば、その発想は既にこの段階で浮んでいたということになる。なお、講座の話は2カ所からあったが、いずれも不成立。》
メモはさらにある。これが、一連の流れのはじまりであり、その中途半端で終わったいきさつ、ともいえる。
「株式会社 企画集団 S・B」(仮称)というのは、そもそもS社の編集者Mさんが発案したもので、
若いSさんや私に編集プロダクションを作らせ、下請けとして仕事を回す、という構想であった。
これに前記Yさんが場所と資金を提供しようとなり、話が進んでいたのだが、どういういきさつからか実力者Hさんの耳に入って、
「まかりならぬ」ということになり、一頓挫したのである。
そこで、新たに考え出されたのが、株式会社***の設立であったという次第。
《2008・05・23記す 橋本健午》