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「ミニ自分史」(9)「アルバイト」その2

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 よく働いた1年生時代だが、翌年は泣かず飛ばずであったようで、さしたる成果はない。 母方の故郷、新潟県十日町にスキーに行ったくらいで、長期の旅行もしていない。かといって、勉学に励んだという記憶もない。

 1964年には、3月と夏休みに大阪に帰省して、地元の公民館で事務のアルバイトをした。 「春についで二度目で、みな顔を覚えていてくれたので、気が楽だった。比較的愉快に過ごすことができた。 私はいつもニコニコしているといわれて、評判も悪くなかったが、たヾそれだけのことであった。〈日記10・20〉」とは、 ヒネた回想ではある。夏に、自動車教習場へも通っている。これも、理由はアルバイトに有利、だからであったが、 路上運転はなく"箱庭"の実習だけ済ませ、筆記試験は後からとった。実際に路上でハンドルを握ったのは2年後の東京で、 ほんとに危なっかしい初体験だった。

 もう一つ、望んでも得られない体験というか、奇妙な"アルバイト"を思い出した。
 1963(昭和38)年の歳末の夕時、音楽好きの友人と、銀座7丁目の銀巴里(シャンソン酒場)を覗こうかとヤマハホールの前を通りかかると、 若い男が近付き恐喝まがいの行為を受けた。幸い実害はなかったが、すぐ向かいのポリスボックスは空っぽだったので、 4丁目の角、三愛の前の交番に届け出る。
 駆けつけたパトカーに生まれて初めて乗せられ、一時間ばかり、人だかりのする場所を巡らされた。 友人はパトカーの中から、道行く人に両手が自由なところを見せ、"犯人"じゃないぞとアピールしていたが、 最後は築地警察署に連れて行かれ、"調書"を取られた。
 おかげで、銀巴里どころではなくなった。年が明けると、築地署からパトロールに協力してくれとの電話があり、 「何を今さら」と思ったが、出かけていった。その次第を、私はノートIII「芸術至上主義」に次のように記していた。
 「この日(1964・1・27)、"木馬"《新宿のジャズ喫茶》から友だちの処に寄った後、警察へ行った。 600円をもらって、二人の警官と一緒に夕方の銀座を一時間ばかり歩いた。勿論、犯人なぞ見つかるものではなかった。 /私は安心した。/寒いのによくも人間は平気でいられると思う。/警官は教養がなかった。彼らは何をたよりに生きているのだろうか。 私には、彼らの満ち足りた足どりが不思議に見えた。私は現在の日本が警察国家であったらと思うと恐ろしくなる。 /彼らは、一緒に歩いている私が、明日にも逆の立場になるかもしれないということに注意しているだろうか」。
 その秋、東京オリンピックが開催される日本だが、21歳半ばの私はかなり鬱屈していた? ようである。(この項:2008・06・29に追記)

 その秋の、東京オリンピック期間中に10日間ほど北海道旅行をしたあと、12月はじめよりS出版社の販売部で、 残業もあるアルバイト(日給700円)を、2シーズン経験した。ある日、取引先に配る手ぬぐいを包む熨斗紙に、 ゴム製の社判を一つひとつ捺していると、通りがかった責任者が「丁寧にやってるな。まあ、92点だな」というので、 私はすかさず「まだ8点(発展)の余地がありますね」と答えたのだが、通じたかどうか。

 そんな過ごし方をした大学4年間は、何とか単位は確保したものの、不景気のうえに文学部出身はつぶしが利かない、 就職試験はいくつか受けただけで、終わっていた。
 在学3年間で"優"の数が30以上あれば学内推薦をもらえる……。その数29の友人が大いに悔しがっていたとき、 なに私は後一つで"優等生"(つまり、9つしかない)と嘯いていたのだから、問題外か。

 仕事のないまま迎えるはずだった1966年4月1日、前日になってS出版社から出頭せよとの電話が入り、身体検査を受け、 今度は出版部でのアルバイトが始まるのだった。小さな辞典を作るのが仕事で、日当は750円、学卒扱い(880円) でないのは解せないと、日記にある。
 私に指示を出す社員は、学生アルバイトの女子大生と結婚して、なぜか頭が上がらないと、 まだ働いている近くの同級生が教えてくれる。そんな彼が命じる仕事の手順に対し、 「富士山に登るのに、道は一つだけではない」と、ちがうやり方をする私が気に食わなかったらしい。 いつしか、指示は同級生を通してくるようになっていた。

 一方、そんな私を待っていたのは、販売部時代に知り合った女性2人である。誕生日にアルバムをもらったり、 ご馳走になったりのペアによる"攻勢"に遭い、ひとり目に諦めてもらうのはともかく……。
 その後、7月だったか中途採用試験で、あろうことか私の成績がかなりよかったらしく、 清掃の女性までも「(英語は)社内はじまって以来の成績」などと噂していた。 しかし、"情実"の同社は新入りよりも経験のある穏当な人を採用したようで、"恋のカラ騒ぎ"もそこそこに、 私はやがて同社を去ってゆく。5か月半の長期アルバイトも終わりを告げた。

(以上2件、2004年9月29日までの執筆)


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