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「ミニ自分史」(91)「校内マラソン大会で優勝(中3年)」

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 1958(昭和33)年2月13日 校内マラソン(コース変更、11,300メートル)初優勝成る。天気はよく、風は少しあったが、良いコンディションであった。 スタート前、4組のUK君(陸上部)と一緒に走る事を約束し、アメをもらう。{買収ではない。} 号砲一発、一斉にスタートした。新コースである。 いつものコースヘ上る口の辺まで走って来ると、前には十人もいなかった。こんなに早く出て来たのかと例年に見られなかった〔い〕うれしさであった。
 《注:{  }の記述は原稿用紙の欄外に、私自身が赤鉛筆で記したもので、1961年夏ごろのものと思われる。 また〔  〕や[  ]も修正したもの。以下同じ/参照…(11)「マラソン」

 終始U君と走った。{それもそのはず。} 往路の約二千米くらいで横腹が痛くなりだし弱ったが、手でその部分をおさえて走った。 少し行くと前には、もう先に出発した高校生が走って、いや歩いていた。良く見ると、ほとんど昨年の4月わが校に入って来た高1の生徒だった。 {よそ者は精神がなっとらん。}
 それから倍ほど走ると、島本中学の近くにカードをもらう所があったので、そこでカードをもらった時、イチ・ニ・サンと数えたので、 あれおかしいな、前に一人中学生が走っているのにと思ったが、もう見えなかった、{先走るヤツはバカだ。}
 新国道へ出たときには、トップグループは、小生とU君と二年生のEの三人だった。 復路は向い風となり、寒くなって来たので、冷えてはいかんと今まで上げていたポロシャツのソデを下ろした。 約1キロほど、Eは着いてきたらしいが、それからは大部[分]差が開いた。
 産業道路はまっすぐで単調で走りにくい。しかしいつも[つねに]U君をリードして走った。{ホントですよ。}  ゴールまで後千六百米の橋が見えた時はほっとしたが、例によって道路はまっすぐなので見えていてもなかなか着かない、
 いよいよ近くなったとき、もう坂道であったが、またその上りがつらかった、風はビュービュー吹いてくるので、歯をくいしばり、 ナニクソのクソだけ、声を出して上りきった。橋の上へ来ると今度は下りであるが、{アタリマエだよ。} もうフラフラである。
 しかし、自然に足が動くので目をつぶって走っていた。というより向い風に体をもたせかけていたという方があたっているかも知[し]れない。 その坂を下り切ると今度は体が楽になった。呼吸がしやすくなり何の苦痛もなく走っていた。
 終始U君と走っていたので、差は二、三米程度で、いつ追いぬかれるかと気が気でない。が、テニス部として走っていたところを学校にもどるのだから、 どういう工合かを知っているので安心して走った。
 ちょうど四ツ角(ゴールまで約百五十米の地点)でスパートしたら、少し差がついた。 これは行けるなと思ったが、あと百米にちぢまった時に彼は追い込みをかけ始めた。
 しかしここまで来ていて負けられないので、同じように早く走った。
 校内に入り、ゴール前三十米ぐらいでまた追い込まれたが、どうやら勝つことが出来た。{カッタ、カッタ。}
 *高槻学園新聞(昭和33年2月19日付第64号見出し「岡崎〈高校〉橋本〈中学〉君優勝 校内マラソン大会」参照)

 「……あとでふり返ってみると、五千を一人で走るのは容場でないこと。距離の遠近を考えながら走ると、精神的にまいってしまうこと。 それで小生はいつも他のことを考えながら走っていたので、比較的楽だった。ライヴァルがいるとどうしても張合が出てくるので、速力も遅れず[衰えず]、 よいレコードが出るなど、良い点が沢山ある。」
 「……昨年の運動会の千五百に勝って以来、中長距離十八戦全勝である。」そうな。{ホントかな? }

 念のため:お終いに付け加えた{カッタ、カッタ。} は、1936年のベルリン五輪水泳(二百米平泳決勝)で、 河西三省アナの絶叫に近い「前畑(秀子)ガンバレ・・・前畑 勝った 勝った…」という有名なセリフをもじったもの。 古いですねえ、私自身も?!<2009・04・07橋本健午>


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