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〔II〕作家活動に付随して

1)語る・評される・撮られる

ウ―〈1〉《撮られる―グラビア》

【作家がどんな風貌をしているのか、どんな仕事場で執筆するのか、また趣味や家族はなどと、 読者は作品以外の部分にも興味をもつようである。あるいは、編集部が"サービス"の一つとして、登場を乞うこともあるだろう。 いずれにしても、写真は活字より威力を発揮する……。ここでは、梶山が一般の出版物ばかりでなく、 さまざまな分野に登場したものを取り上げた。
 表示は、刊行順。〔写真+1〕(被写体と1枚の原稿)が普通だが、ときに〔+2〕〔+3〕もある。 …//〔+談話〕など、〔写真+1〕以外の場合に表示した】

ウ―〈2〉《撮られる―写真集》

2)答える・すすめる・PRする

ア 《アンケートに答える》(「掲載年月日/掲載紙誌名/タイトルほか)

イ 《推薦(書評)する》(「年月日/著者名/書名/原稿の題〔枚数〕/出版社(掲載紙誌)名」。・・・は不明)

ウ 《PR(紹介)する》(「掲載年月日/掲載紙誌名/タイトル〔枚数〕ほか)

3)話す…対談・鼎談・座談会

(ラジオ・テレビの場合は「U〕5)ラジオ/テレビ/映画…出演(自作品を含む)」参照)

【作家に限らず、本業の延長上の"仕事"として大勢の人を前に話をしたり、ラジオやテレビなどに出演することがある。 梶山は昭和37年春、"産業スパイ"小説で名をあげると各種セミナーの講師に招かれたり、講演会や対談・鼎談・座談会に出席した。 対談には、対等の場合や、ホストとして連載したり、あるいはゲストとして出たりとさまざまであり、 それも一般誌だけではなかった。お相手も各界で活躍している方々である。 鼎談は数が少ないが、座談会は連載を含め司会を兼ねることもあり、またテーマは時事問題、趣味や男女問題、 肩のこらないものなど多岐にわたった。"お色気"関係を見ると、男女を問わず、多くの方が参加していたことが浮かび上がってきた】

ア―対談〈1〉(//お相手)

ア―対談〈2〉《聞き手として》

ア―対談〈3〉《対談集》単行本

イ―鼎談(3人の場合)

ウ―座談会はさまざま



4)講演やセミナーの講師など

ア)出版社による講演会 付:文士劇・年忘れ文化人歌謡大行進

 【ここに見るように、梶山はいくつかの出版社が主催する講演会に出向いた。とくに文藝春秋から何度も声がかかり、 42年5月には2回8市を訪れるなど、全国を飛び回っている。
 文藝春秋の社史『文藝春秋六十年の歩み』(57・01刊)にある「池島信平の死に続くもの 「芥川・直木賞」四十年記念」の項に、 次のように記されている。「この年(昭和50)、5月11日、梶山季之氏が旅先の香港で急逝した。 氏は昭和34年、「文藝春秋」2月号に「悲劇の帝王・大正天皇」という優れた読物を発表 (この時は"特別レポート"となっており無署名)して以来、梶季彦のペンネームでユニークなレポートを「文藝春秋」に発表しており、 その後、「週刊文春」が創刊されると、専属のルポライターとして健筆をふるった。 /流行作家となってからも講演会、文士劇などで文藝春秋社との縁は深く、氏を知る編集者は深くその死を悼んだ」。

 また、「イ−1)出版社以外の講演会、セミナーなど」にあるように、各種の会社や団体からも招かれた。 "マジメ人間"だが、時として話は脱線したり、内幕を暴いたりと面白く、聴衆をひきつけたようだ。
 演題はいつからか「近頃思うこと」と称することが多くなった。あらかじめ演題(テーマ)を決めて、 何を喋るか考えるヒマがなかったことと、その日の聴衆の顔を見ながら当意即妙な話術で、お客さんを魅了したであろうことは、 大宅壮一東京マスコミ塾に在塾中、「最高機密の取材」などの講義を受けた私には想像に難くない。 なお、その後"近頃思うこと"は野坂昭如氏も使っていたと記憶している。なお、不明分は調査中、判明次第掲示の予定】

 開催年月日/主催者(都市名)/演題など(同行者)//備考

ア)付《舞台出演》文藝春秋祭・文士劇(東京宝塚劇場)

ア)付《舞台出演》徳間書店・年忘れ文化人歌謡大行進(日劇)

イ−1)出版社以外の講演会など

 【原稿の執筆と同じく、梶山はよほどでない限り、講演などの依頼を断ることはなかった。 それは、だれに対しても分け隔てなく接する気持ちから、あるいは義理堅さからだった。
 また、これも私が目撃したことだが、頂いた講演料等をその場でそっくり返却(寄付)する気前のよさもあった。
 演題として、41年春ごろからの「近頃思うこと」が多いのは、事前の準備が要らず、 その日の聴衆に合わせた話題を提供できるからであった。
 なお、〔主催者不詳〕とか、演題不明(―――)が目立つのは、原稿が活字になるのとちがい、 "証拠"が残りにくいからであろう。
 最初の中国新聞社主催の講演会は、まだ29歳のとき。ペンネームであったが、地元出身の先輩諸氏に伍してのデビューであった】

開催年月日/主催者(都市名)/演題など(同行者)//備考

イ―2)出版社以外のセミナー講師・審査員・舞台出演など

《講師》
開催年月日/主催者(都市名)/演題など(同行者)//備考 《審査員》
《他の舞台出演》
《その他もろもろ》



5)ラジオ/テレビ/映画…出演(自作品を含む)

梶山が、自作のドラマ化でのテレビ出演や、娯楽番組に出ることもしばしばあった。 もっとも、昭和40年代、コマーシャルに出る作家も多かったが、梶山にはそんな話はなかったか、 あっても断っていたのではないか。よく「テレビは時間が取られて、叶わない」と言っていたからだ。 まず、ラジオから見てみよう。

ア)ラジオ…出演(放送局別)《(  )内は他の出演者》

出演年月日/タイトルなど//備考

「ラジオ中国」

「東京放送」 「NHK」 「中国放送」 「ラジオ関東」 「朝日放送」(大阪) 「中部日本放送」(名古屋) 「文化放送」 「ニッポン放送」 「山口放送」ラジオかテレビかも不明 「FM東京」ラジオ

イ)テレビ…出演(放送局別)《(  )内は他の出演者》

出演年月日/タイトルなど//備考

「日本テレビ」

「NETテレビ」(←日本教育テレビ)⇒テレビ朝日 「フジテレビ」 「NHK」テレビ 「東京放送」テレビ 「東京12チャンネル」→テレビ東京 「毎日放送」(大阪)テレビ 「読売テレビ」(大阪) 「NHK教育」 「山口放送」テレビ

ウ)映画…出演(製作会社別)《(  )内は他の出演者》

≪準備中、しばらくお待ちください≫


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