橋本健午(07年5月、広島・シンポジウム記録より再録)
わが師梶山季之は今年5月、没後33年を迎えた。ここに掲げるのは前年、広島市で催され、私自身も参加した記念事業のうち、
シンポジウムの報告(一部)、すなわち私の発言部分のみの再録である(『梶山季之33回忌記念事業 時代を先取りした作家 梶山季之をいま見直す』制作・梶山季之記念事業実行委員会/発行・中国新聞社2007・11・10所収)。
その準備は、広島の多くの関係者による熱心な活動によって行われ、かつ無事に開催されたことは故人の関係者の一人として、
大変うれしく思うところである。
ただ、なにごともそうであろうが、広島と東京という地理的な問題はじめ、事業に関するさまざまな難問やそれに対応する人々との齟齬もあり、
かなり気を揉んだことも事実であった。
ともあれ、その後、同地で《広島大学文書館企画展》「キミハ カジヤマトシユキヲ シッテイルカ!! 梶山季之資料展」が広島大学中央図書館」(07・11・1〜14)で開かれ、
さらに梶山美那江夫人が寄贈した故人の蔵書等を管理する同文書館で、今後その膨大な蔵書の閲覧もできるのではないかと期待するところ大である。
なお、《 》内の注は、今回の収録にあたり、私が補足したもの。(2008・11・18 橋本健午)
◎梶山季之33回忌記念事業「時代を先取りした作家〜梶山季之をいま見直す」
開催日/会場…2007年5月20日(日)、広島平和記念資料館東館地下1階メモリアルホール
あいさつ 梶山季之記念事業実行委員会代表・前広島市長 平岡 敬氏
第一部 基調講演 「梶山先輩と私」 作家 藤本 義一氏
第二部 シンポジウム
出席者(天瀬裕康(司会・進行)…作家・日本ペンクラブ会員/橋本健午/小谷瑞穂子…作家、歴史学者、日本評論家協会理事/高橋呉郎…フリーライター、元・月刊「噂」編集長)
「生まれ故郷朝鮮と梶山季之」
橋本健午(電子版「梶山季之資料館」管理人/ノンフィクション作家)橋本健午 1942年中国・大連生まれ。66年早稲田大学第一文学部文学科露文学専修卒業。同年11月より梶山季之の助手。 75年5月香港で客死した梶山の遺体を迎えに行く。
著作 韓国及び梶山関係では日本経済評論社より『父は祖国を売ったか―もう一つの日韓関係―』(82年7月)および『20世紀の群像1 梶山季之』(97年7月)を上梓。 また論文では「梶山作品とユダヤ問題」(梶山美那江編者『積乱雲 梶山季之―その軌跡と周辺』季節社、98年2月)や「"史実"と"真実" 『父は祖国を売ったか」刊行から十八年経った今…」(『梶葉』(終刊特別号・梶山季之文学碑管理委員会〈広島〉(2000年7月))などがある。
大学を出た24歳から8年半、梶山が亡くなったあとまで助手をしておりました。「生まれ故郷朝鮮と梶山季之」ということで、
レジュメにも記しましたけれども、梶山との共通項は引揚者であるということと、12歳下の午年ということであります。
ウマが合うということを言いたいわけではありません…。
私は中国の大連で生まれました。昭和で言いますと17年ですから、一応、"戦中派"です。
助手の仕事は、また時間があればご説明しますけれども、さっそく本題に入ります。
梶山には朝鮮に材をとった『李朝残影』とか『族譜』という作品があります。
父親は朝鮮総督府の役人で土木技師だった勇一さん、母親はハワイ生まれのノブヨさん、その二男として生まれております。
勇一さんは引き揚げてから、広島の100メートル道路の設計を担当した人と聞いております。
その息子である梶山季之について申しあげますが、その話の前に先ほどの藤本先生もそうですが、
普通は「梶山さん」とか「梶さん」と呼ぶと思います。私の場合は「梶山先生」と言わなければいけないのですが、
梶山から「その先生と言うのはよそうや」と言われていたので、今日も敬称抜きで話をさせていただきます。
梶山は小学校在学中の九歳のときに、『空魔軍』というイラスト入りの科学冒険小説の連載ものを書いて学友の評判を得ていたそうで、
小学生のころから作家の片鱗があったと言えます。
現在のソウルである京城公立中学校に入学したときには、もう太平洋戦争に入っており、
学徒動員されて昭和19(1944)年12月から仁川陸軍造兵廠で九九式短小銑の製造に携わっていたそうです。
しかし、そこでろく膜炎を思い、昭和20年5月には小康状態となって自宅療養を許されたのですが、
動員を解除されないまま終戦を迎えて、昭和20年11月に両親の故郷、広島県地御前村に帰ってきました。
15歳のときでした。それから広島二中に転校しております。食糧難の時代でしたから、学校をサボって畑仕事に精を出していたとのことで、
作品としては『食欲のある風景』というものがあります。また梶山は「終戦」と言わず「敗戦」と言っておりましたが、
8月15日を忘れないために、戦後はその日に芋粥を食べていたということがあり、また8月15日の記憶は、
別の短編『性欲のある風景』に詳しく記されています。
先ほど藤本先生が、いろいろな欲のことを話しておられましたが、梶山は「食欲と性欲は人間の二大本能である」というようなことを言っております。
初期の作品として『幻聴のある風景』も書いております。
次に、広島高等師範学校に入学します。在学中には、ここにおられる小谷さんも同人であられる『天邪鬼』で文学活動を始め、
その同人の紹介で、奥さんとなる小林美那江さんを知ることになったわけです。
卒業して、新聞記者をしながら小説を書くという生活設計を持っており、中国新聞社を受けましたが、
身体検査で両肺に空洞が初見されたものですから、卒業と同時に自宅療養を余儀なくされ、落胆し、おおいに荒れたそうです。
そうは言いましても、在学中に書いた朝鮮ものであるとか、先ほどのような作品、『天邪鬼』の同人である坂田稔さんとの共著で『買っちくんねえ』という短編集を自費出版しております。
その自費出版では大きなパーティーを開き、やはり文学をあきらめることはできない、どうせ短い命なら珠玉の短編を残して死のうと決意して、
昭和28年、23歳のときに上京します。そして、あとを追ってきた美那江さんと結婚して、"戦友"と言っておりますが、
二人三脚の生活が始まったのです。
広島高師卒業ですので教師の免状を持っており、昭和28年9月から翌年の3月まで、横浜の鶴見工業高校の国語の先生をしております。
なぜ辞めたかというと、身代わりの方の胸のレントゲン写真を出したことがばれてはいけないということで辞めたと聞いております。
その後、2人で喫茶店「阿佐ヶ谷茶廊」を開き、そこでも同人雑誌懇話会を主宰したり、『希望(エスポワール)』の同人たちの要請で店に発行所を置くなど、
文学青年の溜まり場になっており、一時期『新早稲田文学』にも所属していました。
さらに第15次『新思潮』という、もともと東大生が主流の同人誌があるのですが、そこでも文学修業を続けて、
やがて月刊誌の『文藝春秋』とか、創刊当時の『週刊明星』『週刊文春』のルポライターとなります。
そして、しばらくして書き下ろしの『黒の試走車』がベストセラーになり、ようやく本格的な作家の道を歩み始めます。
美那江夫人によりますと、病院でこの小説を何回も書き直していたため、娘さんが生まれるか、作品が先に世に出るかという状態だったそうですが、
娘さんのほうが小説より先に生まれたと聞いております。
そして晩年には、先ほどから話に出ておりますように、生まれた朝鮮と母のふるさとであるハワイ、それから原爆が落とされた広島を題材にした、
民族の血をめぐる"環太平洋"小説『積乱雲』を書き始めるのですが、旅先の香港で病に倒れました。45年の生涯だったわけです。
作家生活は14,5年でしたが、小さなころ、いわゆる生まれ故郷はどういう印象であったか、どういう家庭環境であったかということを、
私は2001年に2歳上のお兄さんである久司さんに取材しました。
昭和13年ごろ、梶山家はソウル郊外の山を切り開いた造成地に、家を新築して移りました。
その家は日本家屋ですがオンドルがあったそうです。最初は2,3軒しか家がなかったが、終戦のころは1OO軒ぐらいになっており、
周りには現地の朝鮮人の集落もあったそうです。
自分たち兄弟は小中学校とも日本人の学校で学んだ。クラスに1人か2人、裕福な朝鮮人子弟が混じっていたが、
彼らに対して差別的な感情はなく、よく一緒に遊んだそうです。父親は朝鮮総督府、つまり支配者側の役人だったのですが、
とくに朝鮮人だからと彼らを見下したりしなかったそうで、例えば母親より少し若い朝鮮人のお手伝いさんは、読み書きができて、
勤めは長く続いたと言います。
ところで、この6月1日から旧日本銀行広島支店で展示される写真の1つには、両親と子ども4人が写っているほかに、
チョゴリ姿の若い女性が1人立っています。たぶんお手伝いさんだと思うのですが、普通、家族の記念写真にお手伝いさんのような方が写っていることは、
あまりないのではないでしょうか。そのあたりに梶山家の、あるいは梶山の根底にあるものが1つ現れているのではないかと思います。
形式的には、支配されたとか、支配したということが言えますが、そうではない面があったと言えるのではないかという証拠の写真です。
あとで見ていただきたいと思います。
このように分け隔てのない梶山家であったのですが、昭和18(1943)年ごろになりますと、非常時に賛沢はいけないということになり、
お手伝いさんだった彼女はよそのうちに行ったそうですが、お使いのときなどに寄り道をしては、母親のノブヨさんに愚痴をこぼしていたことをお兄さんは覚えております。
それから敗戦を迎えるわけです。同時に立場が逆転するので、朝鮮人に塀を壊されたり、夜中に襲われた日本人の家もあったそうですが、
お兄さんは「わが家にはそんなことはなかった。ひとことで言えば、平和に暮らした時代だった」と言っております。
人情とか平等の精神は民族を越えたもので、こういう精神は子どもであった梶山季之にも影響を与えたのではないかと推測されます。
これは実生活の話ですが、今度は梶山の作品に沿って、どんな気持ちだったかを見てみましょう。
先ほども申しあげました小説に、『性欲のある風景』があり、冒頭部分は次のような表現です。
「終戦の日、つまり一九四五年八月十五日の記憶を甦らせると、今でも僕は内心忸怩たらざるを得ない。
なぜなら、学友たちの誰もが動員先の工場で呆然自失したり、わけもなく溢れてくる泪の意味に戸惑ったりしている時分、
動員を怠けて漢江でボート遊びに耽り、そのあげく映画館の暗闇の中で敗戦も知らず鼻糞をホジくっていた不埒な学生が、
僕だったからである」と。
そのような少年ですね。この"僕"というのは、必ずしも梶山自身とは言えないのですが、分身というように考えることができるかと思います。
坂田稔さんは、現地の南大門小学校の同級生で、引き揚げ後に広島高師で再会しているわけですが、坂田さんが言うには「梶山は、いまは異国の朝鮮で生まれた。
彼にはふるさとがない。『肉の香に涙もよおしぬ雨細く、破れたる恋か、ノスタルジアか』というのは、彼が学生のころつくった短歌で、
彼自身が最も好きだといっていた『族譜』や『李朝残影』も、そのノスタルジアがつくらせたものだろう」と。
さらに、「彼は戦時下に育った。当時のすべての少年が熱烈な愛国者になったなかで、彼は不思議なくらい、それからはぐれていた」とも述べております
《以上、「梶山季之論」『現代文学』1977年6月号所収》。
また梶山自身の小説に戻りますけれども、先ほどの"僕"です。「中学時代、頭の悪い硬派の連中が、何かと云えば憂国の志士を気取って、
同級生のアラを探し出し鉄拳制裁を加え、快哉を叫ぶ野蛮な風潮を僕は不愉快に思っていたひとりだ」とあります。
それから「進学にしても、就職にしても、彼等はハッキリ日本人と差別待遇された。
僕が、同じ日本人だと教えられた彼等に、意識的な同情を覚えさせられたのは、中学生になってからだった。
たしか、『青少年学徒二賜ワリタル勅語』奉戴の記念式典の日であった」と。これは昭和14年5月のことかもしれません。
そして具体的に言います。「僕たちが持っていたのは三八歩兵銃《明治38年が最初、そこからこの名が》で、
彼らのは先にタンボのついた木銃ばかりだったからである」と。
少し変わりまして、「しかし」と"僕"は続ける。「同情とは本来、水の低きに流れるごとく、相手より優位に立たねばほどこせないものである。
だから、警えば朝鮮人の女中が生活に狎れて生意気な口を利いたり、父の処へ遊びに来る朝鮮人の客が威張った口調で父と対等に口を利いたりする場合には、
僕は内心愧じつつも、必ずといってよいくらい反感を抱いたのである」とあります。
お兄さんに確認しますと、お手伝いさんの話もお客さんの話も事実だったようです。
お兄さんが言うには、儒教精神の強い国では目上は目下にぞんざいな言葉遣いをする。
しかし、たいがいの客は父の前ではたばこも吸わず、ひざも崩さなかったヒいうことです。
もう1つ、先ほど平岡さんが触れた話に似ているのですが、微妙にニュアンスが違う話があります。
昭和38年上半期の直木賞候補ともなった『李朝残影』では、画家の野口が滅び行く朝鮮宮廷の舞踊を、
その踊り手である妓生をモデルに描いた『李朝残影』と名づけた作品(絵)の、憲兵隊からの題名変更を拒否する姿が描かれております。
一方、『族譜』という作品では、先祖の系譜「族譜」を守ろうと創氏改名に抵抗する親日家の大地主の苦悩と悲劇の最期までを、
日本政府の理不尽さに憤り、一方でその地主に同情する若き日本人画家の谷の目から描いております。
これらをどのように評価するか。例えば文芸評論家の川村湊さんが言いますには、ちょっと長いのですが、
「梶山季之の朝鮮ものの小説『李朝残影』や『族譜』の主人公、野口良吉も谷も、結果的には朝鮮の植民地支配に対する負い目を負って、
自己処罰的な結末を迎える。野口良吉は鮮展(朝鮮美術展覧会、日本で言えば日展?)の特選を取り消され、
官憲による何らかの嫌がらせや弾圧を受ける可能性が知らされる。
総督府の創氏改名政策に抵抗、もしくは会議をサボタージュした谷は、徴兵され軍隊に入らざるを得なくなる」
そして川村湊さんが言うには、「ここに梶山季之の朝鮮の植民地支配に対する責任という、彼の良心が表現されていることは疑えないが、
だが、こうした自己処罰的な結末で、日本による朝鮮の植民地支配が簡単に精算されるものでないことは明らかだ。
滅びゆく妓生の美しさを描くことによって、野口良吉は、そして梶山季之はいったい何を達成しようとしたのだろうか」と。
それに川村さんが自ら答えて、「厳しく言えば、それは父親世代の積極的な朝鮮人の独立運動の圧殺の代わりに、
悲哀の美を説き、滅びつつあることの自覚を朝鮮人たちに植え付け、宗主国の美学を押し付けようとする、
消極的でかつ文化的な朝鮮人の独立精神に対する解消策というべきものではなかったのか」と言っております。
このような「植民地における被支配者に寄せる梶山本人の苦悩と、支配者側としての贖罪の気持ちの表れ」という見方に対し、
筆者梶山季之はどんな心の持ち主であったのか。京城中学時代の友人である成田豊さん(現・電通最高顧問)は、
梶山の資質について次のように言います。「その精神は、中学時代からすでに形成されていた。
時代なのか、環境・植民地・京城という風土なのか、我々の少年時代は、"卑怯・未練"を最も憎み、
"正義・正々堂々"を最高のモラルとしていた。とくに梶山にはそれが強く……弱いものには徹底して優しかった」と
《徳間文庫『色魔』完結篇・解説1982年》。
もう1つ、韓国の作家、韓雲史さんです。広島朝鮮史セミナーなどで、よく話されている方です。
この方は、梶山を「ひとことで言うと温かい人だ」と述懐しています。
「私と梶山さんと初めて会ったのは、何でも1963年か4年であった。東亜日報社から電話が来た。
終戦後1番乗りでやってきた日本の作家がいるから会ってくれということだった」
「李承晩の執権15年間、私達はひたすらに、日帝36年間の虐政を非難して止まなかった。従って作品に出て来る日本人は、
凡そ高等刑事か、憲兵か、総督府の残忍な官吏達であった。所が私は、人間らしき人間、傍らにいる同朋よりももっと近しき日本人もいたという事を書いていた」
さらに、「日本との関係は消化されるべき時期であったらしい。梶山さんは一流の洋式ホテルを避けて、
秘苑前の伝統的韓国式旅館に泊まっていた。私は彼と対座するや否や、物静かな語調であったが、きつく尋ねた。
『日本は36年間、韓国を統治した。謝るべき事がある。日本人を代表してあなたが謝ってくれないか』。
彼はあぐらをかいていたが、いきなり正座して、両手をついた。『誠に申訳ないことをしました。どうぞかんべんして下さい』。
私は彼の手をぎゅっと握った。『ようこそいらした。韓国人はあなたを歓迎するでしょう』。そして私達の友情は始まった。
『李朝残影』を読んで私はびっくりした。『族譜』を読んで、この人に何をやってやればいいのかと感心した」
「朝鮮と朝鮮人を最もよく理解してくれた温かさを感じた機会は随分とあった。沈壽官の後裔を語る時には彼の目は潤んでいた」というようなことを書かれています
《「温かい人」『積乱雲とともに 梶山季之追悼文集』〈季節社1981年〉所収。
韓さんは「族譜」映画化のときに脚本を担当された》。
梶山という人は、決して政治的な人間ではありませんでしたが、例えば2度目に訪韓した昭和40年、
そのころ東京で日韓交渉が進展し、漁業・法的地位・請求権の合意事項について仮調印がおこなわれたことについて新聞で、
「日本人は日本が韓国でなにをしたか、ということを忘れている。むかし韓国で暮らしていた日本人ですら、忘れている。
それが日韓会談を長引かせた原因だ」と言っております。
さらに「今後が問題だ。日本のこすっからい商人たちが、ふたたび韓国を経済的に侵略しないかと不安である。
日韓会談に反対していた韓国の人々が恐れていたのは、36年間の日本統治時代の恨みもさることながら、国交回復後の、
日本の政治的、経済的な侵略であった」と言い、今後は新しい産業を起こすなど、隣国に人道的な支援をすべきだと結んでおります
《「忘れてはならぬこと―日韓会談の仮調印に思う―」『神戸新聞』1965年4月7日》。
このように、何ごとに対しても日本人に必要なものは、この梶山のような複眼的思考ではないかというのが私の結論であります。
*フロアからの質問《抜粋》
○堀ちず子…たいしたことではないのですが、私もソウルで1993年に韓雲史さんとお会いしたことがあるんです。
私が聞いたことと、今日、橋本健午さんが言われたことは内容が全部同じでしたが、その後、その方がいまも健在かどうかを知りたいのが一つ。(中略)
○橋本 今度、6月1日から旧日銀で映画がありますね。韓雲史さんは、脚本を担当されております。たいへん元気です。80いくつですね。(中略)
○天瀬 橋本さん、言い足りないことなどがございましたらお願いします。
○橋本 「見直す」という話で、先ほど坂田さんもおっしゃいましたけれども、今回のこの企画にしましても、
広島における若い人が言いだされたとうかがっています。
梶山季之という人が45歳で亡くなって32年が経ち、いま生きていれば77歳になりますが、30年も経ちますと、
ものの見方や人々の関心の持ち方として新しい人が出てくることを、私は期待感を持って梶山夫人に申しあげたことがあります。
2005年が没後30年なら、没後30年30選とか、作品集のようなものを出したらいかがですかという話をしたわけです。
それは単なる願望だったわけですが、それからいろいろと動きがありまして、去年の暮れには青年劇場で『族譜』を上演なさったとか、
今年の1月、2月には、東京と横浜で『李朝残影』などの朝鮮・韓国関係の映画や、梶山についてのシンポジウムや講演会ありました。
また、先ほど高橋さんが示された『噂』の本も、これは京都の出版社ですが、担当者は梶山季之が死んだ年に生まれた若い人です。
そして2日前の『中国新聞』に、今日の話題も含めた大きな記事がありましたが、7月から梶山の作品が岩波現代文庫よりシリーズで3冊出されるということです。
いままでのどの話も、こちらから働きかけたわけではなく、自然にいろいろな方たちが、それもやはり若い編集者が動かれたということ。
そのように見直すというか、若い人たちに違った観点から、こういう作家がいたのかと思っていただけると、関係者の1人としてはたいへんうれしく思います。
(中略)
○橋本 梶山季之という作家とポルノ。なぜ、ポルノ作家と言われたかということについて、大きな疑問とか質問はございませんか。
なければ、けっこうなのですけれども。
とりあえず、なぜそういうものを表現したかということで、本人が書いたものを1つ用意しています。
「わいせつは犯罪と言われるが、そういう小説を読んで被害者が出たことがあるか」と。
表現の自由と権力との闘いというのは、大きく言うと、私だけではなくてほかの人でもありますし、
高橋さんもそういう場面には遭遇して来られた。
次に、『エロはサシミのツマ』というエッセイがありますので読んでみます。昭和44年の雑誌に載ったものです《「20世紀」1969年7月号》。
「僕はよく"エロ作家"などといわれているように、セックスや男女の世界を小説のテーマにしてきている。
なかでも同性愛、フェティシズム、マゾ、サゾなどのような異常な世界を描く。しかしエロはサシミのツマで、
いいたいことはほかにある。
けっきょく、読者はカタイものを書くと退屈してしまうわけである。そういうお色気をちょっと入れて、
そういう方面で読者に"読ませる"ということは、僕が週刊誌の特集記事を書いていた時代に、
なんとかして読者に読んでもらいたいと痛感してきたからだ。
小説はとくに最初の5、6行が勝負である。途中で会話を入れるとかなんとかいろいろ研究をした。
そのときの体験が、やっぱり小説を書くうえで、そういうふうにさせるのだろう。読んでくれなければどうにもならない。
長いこと週刊誌で苦労したせいか、自分の書いている週刊誌が売れないと、なんとなくくやしくてしようがない」というような一節があります。
私の感想を言います。非常に教師的な、先生的な性格というか表現であるわけですね。
どういうことかというと、普通は自分の得た知識や新しい言葉などは、なんとなく隠しておいて小出しにするとか、
自慢するというのが一般的なのですが、梶山は、とにかく自分の得た知識を読者と共有したいというほうだったのです。
知識を私物化しないことと、サービス精神と言いますか。そのサービス精神は読者に対しても、編集者に対してもある。
そこで、"サシミのツマ"として出して行くと、それは当然、読者は喜ぶし、売り上げが上がれば編集者も喜ぶ、
また出版社も儲かるので喜ぶということでありました。
ただ、当時は多くの作家がポルノなどを書いていましたが、梶山の場合はちょっと突出している。
突出している一つの原因は高橋さんに聞いたほうが早いのですが、要するに権力者がいる政治や財界の話をレポートするので、
権力者はそれが気に入らない。だから懲らしめてやろうと、別件逮捕的な要素で摘発された現実があります。
梶山は自らポルノ作家だとか何とか露悪的に言っていますけれども、本質の1つとして表現の自由を摘みとる権力に対する抵抗と、
もう1つに読者サービスということもあったと思います。・・・・・