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「"流行作家"梶山季之について」(『ダ・ヴィンチ』より)

 「かつて、壮絶に書き続けた作家たちがいた。/パソコンどころか、ファックスもない時代、作家、編集者、読者の関係は濃密だった。 /ここでは、「書く」ことと闘い続けた作家たちの創作伝説を紹介しようと思う」。

「梶山季之は原稿用紙で月産1200枚、黒岩重吾は1000枚、笹沢左保は1500枚、松本清張は1000枚を最盛期に書いていたとされる。 昭和30年代後半、次々と小説誌が創刊され、どの社も「流行作家」に書かせようとしのぎを削った。 まだ娯楽の少なかった時代背景もあり、小説誌が30万部を売り上げた時代である。 流行作家の小説によっては、大きく売り上げの差が出たという。今とは小説への世間の注目度が歴然と違う。 編集者も必死だっただろう。/さらにはファックスもメールもない時代である。編集者は作家のもとに原稿を取りにうかがい、 肝を冷やしながら原稿を待ちわびた。たとえば、笹沢左保は新幹線の中で編集者と待ち合わせ、発車間際まで原稿を書き、 そのまま名古屋まで行く羽目になった編集者も数知れないという。/そうした生のやりとりの中で、作家と編集者との情が深まり、 作家は編集者の朗に背を向けぬよう、自身を追い込み書き続けたのである」。

 さて、見開き2ページの上段中央に組まれた「梶山季之 二晩徹夜で252枚 月産1200枚」は、 梶山の顔写真と近刊『李朝残影 梶山季之朝鮮小説集』(川村湊編・解説2002・10インパクト出版会)、 そして同じく私の写真と『梶山季之』(日本経済評論社1997・07)を左右に配置して、 「時代とともに疾駆した筆 流行作家14年間の軌跡」の小見出しのもと、次のように紹介された。

顔写真                記事写真

 かつてトップ屋、社会派、創刊号男、ポルノ作家と数々の異名をとり、昭和46年には週刊誌の連載6本、新聞連載2本、 婦人月刊誌2本、さらに主舞台である中間小説誌に数多くの作品を発表していた作家・梶山季之――。
 昭和50年、香港で客死。享年45。彼こそ「流行作家」と呼ぶにふさわしく、週刊誌に連載を始めると、 10万部も売り上げを伸ばしたという。この時代の誰もが梶山季之の作品を求め、彼はそれに正面から応え続けたのである。 その若死には「戦死」とも言われている。

 月産1000〜1200枚。二晩徹夜して252枚〈の小説を〉書いたこともあるという。 超人的な仕事をこなすその人物像はどのようなものだったのだろう。 当時、梶山季之の助手を8年半務めた橋本健午さんにお話をうかがった。
 「とにかく原稿が早い。旧字体の大きくて綺麗な字で書いてあって、ほとんどミスもない。 週刊誌の連載18枚を3時間ほどで書き上げるんです。『文章が荒れている』という人もいましたけれど。 でも、普段は静かな佇まいでした」

 梶山季之は小学生の頃から作家を志していたという。その後、広島高師(現・広島大学)在学中から同人誌活動を行い、 短編集を自費出版。しかし、結核を患い、珠玉の一編を残さずには死ねないと上京する。23歳のときである。 奥さんと阿佐ヶ谷で喫茶店をやりながら、その二階で文学修行。「新思潮」の同人となり、所期の目的に向かってまい進する。 一方、『文藝春秋』が新人ルポライターを養成したいという記事を読んで、売り込みの手紙を書く。 しかし、決心がつかず、机の上で埃をかぶりかけていた手紙を出したのは、奥さんだったという。

 やがて、週刊誌の創刊が相次ぎ、毎号の特集記事を担当するうちに、いつしかトップ屋といわれるようになった。
 「最初は純文学的なものを書こうとしていたんだけど、ルポに手を染めてみたら、世の中にはこんな人がいるのか、 また事件や政財界の暗部などを知るにつけ、黙視できないという"正義感"に火がついたんでしょうね」

 人の運命はさまざまなことで思わぬ方向に進み出す。「産業スパイ」という言葉〈流行語〉を生んだ『黒の試走車』 で一躍人気作家となる一方で、梶山季之は『李朝残影』という朝鮮を舞台とした珠玉の短編を書いている。 これが直木賞候補となるが、"あいまいな選考過程"により賞を逃がしてしまう。 賞を取っておれば、依頼される仕事の内容もだいぶ変わってきたことだろう。 エンターテインメント作家に進む「一つのきっかけになったでしょうね」と橋本さんはいう。
 「意気に感ずる人でしたから。この編集者のためなら書こうという人なので、頼まれたら断れない。 だから困ったときの"梶頼み"となる。編集者がこういうテーマでこういうふうに書いてくださいという要求に応えられるんです。 編集者にも大衆にも奉仕しようというサービス精神のある人でした」

 流行作家として多忙を極めながら、梶山季之には若き日からどうしても書き残しておきたいテーマがあった。 生まれ育った朝鮮、引き揚げてきた父の故郷広島と原爆、母親が移民の子として生まれたハワイ、この3つを結び、 民族の血と平和を描く壮大な"環太平洋小説"を構想し、二十数年をかけて1万7000冊近い資料を収集していたという。
 エンターテインメントなどで出版社とつきあい続けたのだから、そろそろ書きたいものを書かせてもらおうと、 『積乱雲』というタイトルで〈書き〉始めた矢先の死であった。8000枚の大作になる予定だったという。

(特集1「ここまでやらなきゃ作家にあらず!? プロであり続けた流行作家の創作伝説」『ダ・ヴィンチ』2003年11月号/構成・文…大寺 明さん)


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