”書くこと”:番外編「新聞等の切抜きについて」(2007・12・20…2008・08・17 橋本健午)

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 さいきん、立てつづけに、相当な年輩の方が長年、新聞の切抜きを続けておられるという文章に接した。 やはり"同好の士"はおられるのだなと思ったが、私も1977(昭和52)年あたりから、ずっと続けており、30年にもなる。
 しかし、保存されている中でもっとも古いのは、☆「スターリン」で69年12月9,23日付の夕刊フジ「暗殺団を"暗殺"した男 /スターリン守った日本人スパイ・ネロ」と「生誕90年スターリン復活/プラウダ紙"亡霊"再評価の真意」である。 1953(昭和28)年3月5日に死んだ、このソ連首相に関して、なぜかその死のころから関心を持っていた。
 ついで77年6月13日付東京「ソ連/34年ぶり新国歌/スターリン完全に消える」とあるが、 すこし飛んで79年の東京「スターリン人気沸騰/あす生誕百年」12月20日付などのほか、 「本誌独占 初めて明らかにされた失意の日々 失脚後のフルシチョフ」(翻訳)を掲載した「週刊朝日」9月28日号も切り抜いていた。 さらに同年12月21日付東京「筆洗」もある。
 もっとも、切抜きは25枚と少なく、スターリン批判に拍車のかかった88,89年に集中している。

 そのままでは捨てがたい、気になる事柄や時代を表す事象、流行、各種の統計、天皇や近現代の歴史、国際社会、 憲法・言論の自由・出版をはじめとするマスメディアの状況、 健康・教育(学習指導要領・教科書・国旗国歌)・子どもの問題などについて大小のさまざまな記事や文章を切り抜いて取っていた。

 将来なにかを書くときの役に立つだろうということもあった。私は不器用で、創造力や想像力では文章を書き続けられない。 論理を展開するには、多くの資料と取材によって構築するしかない。さまざまな原稿を書くにあたって、私はこれらの資料を引っ張り出していた。 客観的な資料を基に、叙述すなわち論理展開をするのは非力な私に向いているだけでなく、説得力があると思うからだ。 HP上にコラム・エッセイを書く時も、1,2か月前のものに当たるのはしょっちゅうである。

 まだ切り取るテーマが少ないころは、そのテーマごとに紙袋に入れていた。しかし、世の中が複雑になるにしたがい、 さまざまな問題が起こり、また私自身勤めに出たりして忙しくなったこともあり、とりあえず切抜くだけで済ませ、 いくつかの袋などに入れていた。
 たとえば、戦後とくに問題とされた"少年非行と出版物"について「新文化」に連載(「出版倫理・攻防の半世紀」1999・09〜2001・03)する際、 集めた新聞記事や出版界の資料(記録)だけでなく、国会図書館へ足繁く通って、古い新聞記事や関連の雑誌記事などもあさった。 そして、この連載を元に結実したのが、『有害図書と青少年問題―大人のオモチャだった"青少年"―』(明石書店2002・11)である。
 青少年関連は、通年で集めており、もっとも多いもので、いまも尽きることはない。子どもは素直に、年齢に応じて知識や常識、 社会規範などを身につけていけば、道を踏み外すことなく、望ましい大人になるであろうと思うからだが、現実はその反対であることが多い。 しかし、少年たちを絶望させてはならないし、大人も彼らを見放してはならない。

 しかし、たまる一方で、さまざまな問題が出てくる。資料として古くなったもの、興味が薄れて陽の目を見ないもの、 どうして保存したのか不明なものなどである。さらに必要性だけでなく、スペースの問題もあり、少し処分しなければと思いつつ、 先延ばしにしていた。
 人生は永遠ではない。少しずつ身辺整理をしておかなければと思うようになった。65歳=老人という認めたくない現実と、 書きたいテーマを絞ることが肝心であり、かつ元気なうちに周りに迷惑をかけないようという気持ちになってきた。
 そこで、何も手につかない猛暑のある日、やっと手を染めたのが、この切抜きの山との格闘であった。

 ほとんどが東京新聞だが、それ以外も若干ある(朝日・毎日・読売・日経など)。年毎に、A4判の紙に、大きさによって複数の記事、 また類似のもの、日付の近いものを一緒に貼ることもあり、相当な枚数にのぼる。 91年は二分冊である(各150枚前後)。全部を積み上げれば、2メートル以上にもなろうか。 他に、東京新聞日曜版「世界と日本 大図解シリーズ」も、かなり保存している。
 もっとも、2001年の後半あたりから、量的にも減らし、切り抜いて分類もしないまま、15段のファイルケースや袋にまとめて机の下などに置いている。 その都度、当たりをつけて引っ張り出し、見つけたときの嬉しさ、安堵感にひとり浸りながら、その繰り返しをやっている。

第T部 見出しがあぶりだす、30年前の日本

 1977(昭和52)年の最初は、週刊新潮6月16日号「特集5 女生徒のエロばなしに男子生徒が顔を赤くする『中学3年の義務教育』」であるが、 その前には後に国会図書館でコピーした朝日3月24日付「少年補導/目立つ中・高生/一日の件数 昨年の四日分超す」など6件があり、 最後はやはり朝日で12月7日「告発に対して"黙殺"/のさばる"買春観光"」と同24日付「非行少女ふえる一方/家出、初めて男子を抜く/警察庁が白書」。
 ☆「君が代・日の丸」も古くは「週刊新潮」77年5月5日号「国歌『君が代』では、過激派学生の芽を摘めないという『教育現場』」があり、 89年6月8日付東京には「天皇への敬愛教える/小学校の社会科指導書案/文部省」とあり、90年5月24日付同「『日の丸反対』初の処分/授業打ち切り 教師25人処分/埼玉県教委」、 97年2月17日(夕刊)東京「橋本知事公邸 右翼の車突入/『君が代発言への抗議』/高知で構成員逮捕」もあり、 98年ごろには多くの記事が見られ、99年2月末、卒業式前日に広島県世羅高校の校長が自殺、 これにより同年8月9日に国旗国歌法が成立し、2000年6月3日付同「君が代斉唱9割超す/公立小中高今春の式典/法制定で指導徹底」となる。

 1978(昭和53)年の場合もやはり週刊新潮で2月9日号「特集1 最大の宿題『女生徒売春を含む性的非行』を置き去りにした日教組『教研集会』」で、 おしまいは東京8月15日夕刊「"ヤマト"魂がヤングに再燃!?/34年目の夏 SFアニメ大ヒット」で、 リードに「戦艦『大和』の"亡霊"が戦争を知らない世代を興奮のウズに巻き込んでいる。…」とある。
 ☆ 初期のものでは、78年2,3月の「週刊新潮」短気連載「マイ・ネットワーク 見えざる『孤独と共感』の証明 ○全テレビの視聴率」。

 1979(昭和54)年では、5月24日東京・家庭欄「特集のトップは"父親"/全国PTA2340紙を徹底分析/役割や教育観問う/母親の意識に変化」が最初で、 おしまいは年末の「回顧 激動の70年代」や「1970年代の総括」であり、棹尾を飾ったのは「(家庭教育を考える)言葉が凶器になる。」 …「ダメじゃないか!おまえなんか もう知らないよ!!」(公共広告機構のキャンペーン広告)」であった。 これは『有害図書と青少年問題―大人のオモチャだった"青少年"―』にも引用している。

 ☆ "言葉・ことば遣い・漢字教育"に関するものも多く、やはり100枚以上か。 79,80年ごろから集めているが、後で加えたものに、毎日1954年4月2日学芸欄「もっと"口ことば"を 新しい国民の文章について」 (西尾 実)や「国文学展望(下)教授陣そろう早大/折口氏の影響大きい慶、国学院」のコピーがあり、 最後は2000年6,7月の投書「うんざりした語尾上げ案内」とコラム2点「『役不足』の御用に注意」、 「『五十歩』の距離」となっている。91〜93年ごろは、お役所言葉の改善が話題になり、93〜95年では「ら抜き言葉」論争が流行っている。

 ついで1980(昭和55)年。1月4日「女性の自意識向上/総理府世論調査ではっきり/『結婚=幸福』の神話崩壊」と 同15日「新成人は159万人/総理府統計局が発表/前年比3万人の減少」ではじまり、12月26日「ねらわれる熱心な先生/警察庁が学内暴力調査 /厳しいしつけアダ/大半"落ちこぼれ"の反発」で、4年分のスクラップを綴じよう。
 ☆ 変わったところでは、80年元旦からの連載「新・人間の条件 日本人の行方・第一部」(25回)。

 ☆「教科書検定」は81年4月、コラム"筆洗"から、90年1月の"伝習館訴訟 判決の焦点"まで。
 もう一つの袋に☆「教科書 検定・日の丸・君が代/道徳」は88年7月1日の「教科書検定/防衛、原発 細かな注文/高校社会1冊平均253ヵ所」から、 96年2月の「慣習上『日の丸は国旗』/引き降ろし訴訟 教師らの訴え棄却/大阪地裁」まで。

 また、項目別のものもある。「昭和天皇」は1989年の大葬関係を含め、雑誌もかなりある。「憲法」も多い。

 1982(昭和57),83(昭和58)年は数が少なく、ひとまとめになっている。82年は講談社の「月刊現代」編集部で記者とした仕事をしていた時期で、 7月に『父は祖国を売ったか―もう一つの日韓関係―』(日本経済評論社)を上梓し、翌月に話があって、10月から(社)日本雑誌協会の事務局に勤め始めた。 忙しいというより何かと神経を使う時期でもあった。
 ☆"学校5日制"のトップは82年2月12日付「"ゆとり"時間どう利用 中学校/文部省が調査/6割が学習・生活相談 /小学校の『スポーツ』と対照的」などとあり《週休2日制の実施は92年9月》、

 83(昭和58)年分を見ると、翌年にかけての少女誌問題の萌芽もあり、児童・生徒の暴力や非行・性行動・性描写への接触度など青少年関係が集中している。

 1984(昭和59)年〜87(昭和62)年は合冊で、全日本広告連盟による冊子「『有害図書規制立法構想』に対する見解」と、 1月7日付「非行見ぬふりやめて/ゲームセンター健全化へ/警察と業者連携」に始まり、12月28日付読書欄「出版この一年 文庫、雑誌がけん引力に」(対談)など。 85年1月9日付では「小5は34万人大学入れず・きびしい『団塊の世代』の子供/リクルート7年後予測」から、 12月15日「特派員の目…TVと暴力の関係(ロンドン)」。86年は3月5日「優しくおしゃれな男たちへ/新ライフスタイル誌相次ぎ登場」から11月5,6日(夕)尾崎秀樹による「大衆文学の変貌」(上下)。 87年は2月16日「気をつけよう幼児のやけど」《予防と応急手当て》から12月27日「62年風俗事情/エイズに懲りぬ売春の面々/摘発、最悪記録に迫る」とあり、 200枚以上である。
 ☆「図書・図書の寿命・図書館・ちびくろサンボ問題」…85年2月〜97年12月まで30枚ほど。

 1988(昭和63)年は、全面広告「15日は成人の日」は、20年前のアポロ8号打上げなど何枚もの写真構成で、 川端康成の大きく笑った顔がひときわ目立つ。おしまいは、12月25日ニュースの追跡・話題の発掘「早大自己推薦合格者 /『一芸は入試を助く』/演劇、ラグビー、棋士、狂言役者など異能派」で、100枚ぐらい。 そういえば、この年9月から体調を崩した天皇の容態が毎日発表される。私は日記の欄外に、新聞の容態に関する見出しを書き出していた。

 1989(昭和64、平成1)年は、昭和天皇崩御で幕開け、1月8日から平成となる。 この年のトップは、6日「"働きバチ日本"欧米人に負けソー/東京で働く日、欧サラリーマン 時間の使い方/欧米人 早く出社 すぐ仕事」などとある。 おしまいは12月31日社説「10年でどう変わった/80年代の終わりを考える」と、節目での総括はメディアの定番か。

 ☆ 89年2月11日より東京「新・学習指導要領」などの新聞記事や、同年3月に文部省発行の「中学校 学習指導要領」、 「高等学校 学習指導要領」などにより、私は後年「中途半端な歴史教育―もう一つの歴史教科書問題―」(保阪正康責任編集「昭和史講座」第7号2001・12)や 「(歴史を)よく知る必要がなぜあるのですか―危うい日本人の歴史認識―」(日本エディタースクール 内web EDITOR「論文」欄2002・08・06)を執筆している。 これは、01年7月、講師をしていた日本エディタースクールの2クラス70数名を対象に中学・高校での日本史の授業についてアンケートを取ったあと、 戦後10回にわたる学習指導要領の改変で、どのように歴史の授業が変化してきたかを検証したもの。
 ☆ 89年4月から91年12月の「昭和女性史」(永井路子、144回・欠号あり)。
 ☆「戦後を読む」「『生』の軌跡」(いずれも、石田健夫。"―文芸記者のメモ帳から―"の副題も同じ)。
 ☆「給食」は89年4月から"O157騒ぎ"の96年を挟み98年ごろまである。これは、学校給食の"利権"問題や、 家庭での弁当放棄を生むとして問題視していた。加えて、子どもの"孤食"など家庭と食事、箸を正しく使えないなど、 親の問題は大きく、昨今の給食費不払いなどは当然の帰結かもしれない。 なお、拙稿に「ハシにも棒にも」(日本経済評論社「評論」48〔随想〕1983・07)がある。

 1990(平成2)年、1月3日「国会開設100年」特集で始まり、8月中旬の「座談会 8・15を読み直す」が7回つづき、 さらに4月ごろからはじまった連載「子育て最前線」(森本明子)は飛び飛びだが、12月23日では<51>となっている。
 ☆ 90年1月18日に始まる「本島長崎市長襲撃事件」は、「狙撃犯人に懲役12年」と見出しにある同年12月15日まで。 もっとも、雑誌「世界」同年3月号の切り抜き「許せぬ長崎市長襲撃事件」として、日高六郎・澤地久枝・中野孝次の文章も入っていた。
 ☆「女性問題・女性の権利」に関しては、90年11月5日号「週刊読書人」にある「レズビアン・フェミニズム論の現況」(渡辺みえこ)にはじまり、 95年8月下旬の「世界女性会議」関連など、そして同年9月15日、北京での同会議は「女性の権利は人権」を宣言/「行動要綱」など採択/平等実現へ実行を促す」とある。
 ☆ 90年2月の連載「『イチゴ文庫』と少女たち」(6回)。

 1991(平成3)年は前後半に分かれ、2分冊である。 前者は1月1日「環境と生命 進歩する人工臓器/社会復帰めざす/1000万人に恩恵(心臓・肝臓・すい臓・骨)」ではじまり、 6月27日号の全国書店新聞「40坪以下の店 前年割れ/日販調べ コミック売行きに翳り」でおわり、 後者は7月1日「小5で性教育 新教科書『保健』から/6冊の『保健』を開く/男女の違いを図解で/『心の発達』は慎重な扱い」から、 12月31日の社説「新日本人・きょうとあす/年の終わりに考える」は、この一年間の新語から"あすの日本人を探る"とある。 この年は合計300枚以上か。

 1992(平成4)年は2冊あり、前半は1月1日「出生率 初の一けた/平成3年 出生数も最低を更新/人口動態推計//さる年961万人 昭和43年生まれ 最多の183万人…」から6月までのはずだが、 止めは5月31日ニュースの追跡・話題の発掘「ガガーリンの謎を追う/『赤い星』(旧ソ連紙)に見る"新事実"/他の5人の候補者名明かす/帰還時のトラブルも示唆」 …人類初の宇宙飛行し、ユーリ・ガガーリンの替え玉説を中心とするなぞについて。
 後半は、7月2日でんわ談話室「今足りぬ母の知恵と育てる愛//2度と味わえぬ人生の思い出」は"給食"に関するもの、 ついで同日の特集「いま 第4次宗教ブーム!? /心の支えなき不安の時代/"隠れキリシタン"有名人ああいつぐ告白/不気味 柔らかなファシズム」では、 桜田淳子・山本リンダ・山崎浩子・小川知子・影山民夫らの写真もついている。 おしまいは、12月27日「2人に1人が塾通い/厚生省の児童環境調査/いじめた経験は約3割も」とある。 ともに100枚以上と分厚い。

 ☆ 皇太子妃候補をめぐる報道について自粛"協定"が行われたのは92年2月13日であるが、 これは現天皇皇后のご成婚に至るミッチーブームを巻き起こした58年秋以来のことで、 テレビ局を含む新聞協会や雑誌協会加盟各社は自粛するものの93年1月6日、協定埒外の外国通信社に「小和田雅子さんに決定」というスクープを抜かれる、 という結果となった。切り抜きは、自粛解禁以降が圧倒的に多い。最後は「週刊文春」93年11月11日号「皇室報道 小誌は考える」6ページの記事で、 関連して同編集部から宮内庁殿にあてた"お詫び"の社告も載っている。

 ☆「ケネディ暗殺」(1963・11・22)その後、に関するのも少しある(92,93年)。 射殺犯は"別にいる"説は当初から流れており、私はすでに『父は祖国を売ったか―もう一つの日韓関係―』(日本経済評論社1982・07)で、 これになぞらえ伊藤博文の暗殺者は安重根とは別人との説を紹介している。
 ☆ 92年春の「いま河上肇『貧乏物語』を読む」(10回)。
 ☆ 92年9月から翌年にかけての"業者テスト廃止 追放"関係。
 ☆「エイズ」関係は、92〜94年に集中しており、かなりの分量である。

 1993(平成5)年も2冊で、重ねると6センチほどの高さになる。
 前半は1月1日「出生数・率ともに戦後最低/92年人口動態統計 121万人、1000人当たり9.9//酉年生まれは全国で913万人」と、 3日「ボーン・上田賞に黒田氏」がある。おしまいは6月29日「若者たちは夜型人間/総務庁調べ 午前1時まで…男性の25%」
 後半は7月1日付の政府広報「時の動き」の切り抜き「有害環境の浄化―青少年が健全に育つ環境づくり―」など、 テレビ朝日の総選挙報道に関する「椿発言」やロス疑惑の報道をめぐっての三浦和義被告に名誉毀損に関する対応など、 メディアに対する"抗議"などでにぎわったが、この年の最後を飾ったのは、12月31日「笑えません!? 入り口まで数時間…ガマンガマン/コミック人気/即売会に11万人」は、 東京・晴海で行われたコミックマーケットの参加者たちの何列にも及ぶ長蛇の列(航空写真)。
 ☆ 93年1月4日からの「子供が見えていますか 教師からの報告」は第1回「職員室に音もなくスーッと」から断続的に、 第43回「人間として信じているか」の最終回は12月27日までである。
 ☆ 93年2月「連合赤軍事件」(70年代前半の山岳ベースでの大量リンチ事件、浅間山荘銃撃戦など)の最高裁判決に関するもの。

 1994(平成6)年は2冊あり、前半は定番の1月1日「赤ちゃん出生 史上最低/昨年の人口動態推計/離婚、1万組増える//戌年生まれ 941万人 /総務庁推計人口/最高齢、108歳が27人」から6月までだが、おしまいは9月16日付の日本ペンクラブの「声明」で、 週刊文春によるJR東日本に対する批判記事に関し、キオスクの対応(同誌の販売拒否)に抗議するもの。
 後半は7月1日付から始まるが、最初は文化庁文化部の組織図である。課別に机の配置と氏名・役職・電話番号が記載されているもので、 仕事としては著作権課に国語課、たまに芸術文化課に用事があるくらいだったか。新聞は朝日7月2日主張・解説「官僚 改革に向け3つの提言」で、 その一つは社会部にいた身内が書いている。
 最後は12月26日からの連載「戦後50年 『原爆』を考える/(1)広島は『価値ある死』か」(熊田 亨、5回)、 そして番外編は翌年1月1日付に及んだ。

 95年から99年分は前後半の2分冊に加え、「(B)出版・メディア」分冊も作っていた。 なお、切抜きを重ねると高さが8センチなのは、15段あるファイルケース一つの高さから来ている。

 ☆ 96・4・24〜5・24「いじめと闘って ある少女の記録」で、1回目は「不安な入学 発端は先生の下品な『ジョーク』」全20回。
 ☆ 96年5月からの連載「教育ルポ 大切な忘れもの▼▼▼自立への助走」第1部・不登校の軌跡、7月から「第2部・変わる親たち」、 そして9月からの「第3部・賢治を生きる」…
 ☆ 96年8月7日からの「溶け出す学校」第1部は「崩れる『教師の立場』/日常的反発『常識』通じない」から断続的に5回+番外編、 第2部は10月25日「精魂授業に『うるせぇ』/小5異変 ベテラン教師は去った/ば声の大合唱に『自信』しぼんで」など、 第3部第3部、4部と年を越してつづき第5部の最後4は3月21日「"もの申す生徒"へ挑戦は続く/新入生に寸劇でノウハウ伝授」。≪以下、つづく≫

第II部 その後の10年はどうだったか

 ☆ ポケモン騒動が起こったのは、97年12月16日で、翌日の新聞は「『ポケモン』見て子供倒れる/放映中せん光 めまい、けいれん/23都道府県 550人超す被害/テレビ東京」と大きく取り上げ、 大問題となり、NHKを含む放送界では自粛対策に乗り出すが、海外にも飛び火し2000年12月9日夕刊「ポケモン放映中止命令1号/トルコ、子供飛び降り事故受け」てとなった。

 ☆ 99年1月から「現代マンガ私史」(辻 真先)は、第1回「揺籃期(1)岡本一平」に始まり、第75回「拡散期(13)寺沢武一・そして…」で終っている。

 「病気・肥満・アルコール依存症」
 「老人医療・老後・介護保険」も問題が広がる、わが母親が名古屋市で、本人負担が一割と優遇されていたが、 やがて付き添いもなくなり。

 ☆ 04年7月から同9月の「日々 激動」(創刊120年 東京新聞の軌跡)
 ☆「教育基本法」「奉仕活動」など 2000〜01年
 ☆「扶桑社版 歴史教科書問題」2001年
 ☆「少年法改正」2000年
 ☆ 裏ビデオ・テレクラ・買春問題などは96,97年に集中している。

・・・・・・中断・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 2008年8月17日、この作業を始めて(中断して)から、もう一年も経ってしまった。
 新聞の切抜きを整理しようとして、棚から引っ張り出したのは97年の前後半の高さ約6センチ分、 98年分はやたら大きく色とりどりな付箋をはったもので約7センチ、99年分もほぼ同じ、"2000年問題"で姦しかった2000年分が、 少し低くといった按配である。
 などと、"たな卸し"をやっていたのだが、まだ奥に残っていたのがあり、それは95年、96年分の前後半であった。
 ということは、95年分からやらなければならないが、いまの私にはその気力と時間がない。 だからといって、ただ捨てるのでは能がない。どなたか、この資料を有効に使ってもらえる奇特な方を探すべきであろうが、 ハムレットは"古新聞"では悩まなかったか?! (2008・08・17 橋本健午)


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