”書くこと” わが若書き・習作『虚構としての時代』その4

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第十章

 十日過ぎても二週間経っても、杉代からは何の音沙汰もなかった。 賢二は何も手につかず、学校へ行っても浮かぬ顔をしていて、純子に変に思われたり、S夫人の処でも苦痛ばかりを感じていた。 彼は、何か不真面目なことをしでかした、もう取り返しのつかないことになってしまったと思うと、恥ずかしいやら悔しいやらで、生きた心地がしなかった。 彼女が何も言って来ないのは、きっと手紙を見て憤慨したからに違いない。見損なったと軽蔑しているに相違ない。 どうすればいゝのかと思いあぐねて、賢二は幾夜も眠れぬ夜を過ごしていた。

 秋は、樹々(きぎ)の葉を褐色に染めぬき、街路に飛び散る落ち葉を、忙しげに追いやり、青く高い空を、束の間の流行服(はやり)のようにちらつかせ、 やがて木枯らしを呼ぶ。長い夜に、人はさまざまな思いに耽り、賢二の頭にはカタストロフ(悲劇的結末)がつきまとう。日一日と、寒さが身に染みた。
 悪いことは重なるのか、賢二は杉代のことで、悶々の日を送っている時、二夜続いて下腹部に痛みを覚えた。 近くの専門医に見てもらうと、盲腸に違いないという。
 医者は、午後手術をするから、そのまゝ入院しろと勝手に決めてしまった。 賢二は、いよいよわが身も切られるのか、いっそ手術が失敗して死なゝいかなと思ったり、あるいは手術をせずにこのまゝ死んだ方がましだ、 などと考えたりした。しかし、心労(つかれ)でいくらか痩せた上に、食事を絶ったので、余計痩せこけて見える自分が可哀そうになって、 死ぬのも恐ろしくなった。
 一度家に帰って来ると、彼は言った。万一のことを考えて、身の回りの整理をして来ようと思ったからだが、医者は、余り動くといけない、 もし破裂したらどうする、腹膜炎を起こすぞと、真顔で言うので、観念した。 賢二は、仕方なく家に電話して、入院する旨を告げた。宮田や菅野の下宿にも電話した。まだ家にいた宮田は、午後に来るといった。

 ベッドに横になった彼は、先ほどまでとはうってかわって、自分が偉大な人間に見え、かつこれから厳かな儀式が行われる処で、 それを見届ける人々が必要なのだと、思い始めていた。 病人は弱っているだけに、お付のものを必要とする自分を、まるで王様であるかのように錯覚するらしい。 ただ、賢二には杉代という、心強い王妃がいてくれないのが残念であった。
 夕方五時ごろから手術が始まった。昼間布団や衣類を運び込んだ叔父も、付き添ってくれた。 宮田は盲腸なんか、病気でもなんでもないし、ちょっとした怪我のようなものだと、自分の経験に照らして、賢二を安心させた。菅野も鷹揚に構えていた。
 手術室の賢二は、局部麻酔なので、意識ははっきりしたまゝ、頭からすっぽり白い布に包まれて横たわっている。 三人の医師と、四、五人の看護婦が、時々カチャカチャと金属音のする中で、無言のまゝ、それぞれの役割を果している。
 ちょっとした怪我にしては、物々しすぎるのではないかと、賢二は何だか心細くなった。 眼を閉じていると、強いライトを正面(まとも)に受け、瞼を通して、真っ赤な鮮血のようなものが一杯に拡がってくる。 執刀中の医師を始め、そこにいる皆が、敵のような気がしてならない。 手術中ずっと、右手首を柔かく握って、脈をみている看護婦だけが、敵に抵抗して自分を守ってくれる唯一の味方のような気がするのだった。

 やや桃色がゝった、ウインナソーセージのようなものを見せて、医者はこれだと言った。 慢性で、完全に熟し切って、もう少しで破裂する処だと、彼はまた脅かした。 そうまで言われると、彼は命拾いをしたように思うから不思議である。 手術は40分位で無事終った。腹の中に空洞のできた感じが、奇妙に思われた。
 その夜、叔母が心配そうに見に来た。付添いは、一度ベッドの下で寝てみたかったと、皆を笑わせた宮田が引き受けた。 賢二はすでに眠っていた。帰りがけた菅野に、明日純子さんに知らせた方がいゝだろうと、宮田は小声で言った。
 賢二は、夜中に二度程、麻酔が切れて、痛みを訴えたゞけだった。しかし、寝汗をびっしょりかいて、布団まで濡らして、看護婦を困らせ、 その上寒い寒いと言って、湯たんぽまで入れる始末、そしてそのまゝぐっすりと眠ってしまうのだった。
 張り切って付添い役を買って出た宮田も、その後賢二が大人しくしているので、つい自分の方がよく寝てしまったと、朝になって言うのだった。

 午後二時過ぎ、菅野が純子を連れてやって来た。白い大きな百合の花束を手にして、彼女はさも驚いたというように、賢二の顔を見た。 「もう大丈夫なの。手術って痛いんでしょう?」「なに大したことないさ。俺が付添っていたのに、役に立たずさ」と、宮田が純子を安心させた。 「吃驚したわ。でもよかったわね、文明人の仲間入りができて」「そりゃ、どういう意味?」「盲腸のあるのは、野蛮人て言うじゃない……」

 賢二は、純子のことを忘れていた。いや、昨日来、自分のこと以外何も考えていなかった、と言った方が正しいだろう。 眼の前の純子は、殊の外いつもより綺麗に見えた。彼は久し振りに、彼女の前で、にっこりと笑った。
 幾つものベッドが並んでいるその病室で、新参の賢二の処だけ、パッと花が咲いたように、明るく賑やかだった。 純子は、どこからか手に入れて来た花瓶に、持ってきて百合の花を活けて、賢二の枕元に置いた。 好い匂いがした。病気で、感覚が敏感になっているのか、純子の気持が通じたのか、それはいつまでも好い香りを放っていた。
 まだ当分いるものと思っていた彼女は、用事があるのでと、そゝくさと帰ってしまい、後に残った宮田と菅野は、賢二の顔を見て冷やかした。 嬉しさを隠し切れない賢二は、病人の常で、気を許していたのだろうかと、苦笑せざるを得なかった。
 窓の外は寒く、部屋にはスチームが通っている。ガラスが曇って、外ははっきりと見えない。賢二は、また少し眠った。 宮田は、一度下宿に帰るといい、菅野が残ることになった。叔母も時々見に来たが、若い人同士の方がいいでしょうと、用事だけ済ませて、すぐに引き上げるのだった。
 賢二は、病気になって始めて、何か今までとは違った自分が出てきたように思われて、不思議だった。 身体を、他人に預けてしまっているので、心もいく分、開いてくるのだろうか。 久し振りに見た、純子の笑顔を思い出していた。可愛いと思う、愛らしい娘だと思う。 そして、今こそ彼女とどうするか、はっきりさせねばならないと思った。いつまでも、ずるずるとやっていてはいけない。 本気で付き合うか、手を切るか、どちらにするか決めなければ……。 退院したら、改めて純子と話をしなければ……、と考えてきて、彼はまた、ふっと杉代のことを思い出した。
 どうしているのだろうか。なぜ連絡してくれないのだろう。俺がたとえ間違っていたとしても、もう仕出かしてしまったことは仕方がない。 しかし、藤沢にいるなら、見舞いに来てくれるかも知れない。来てくれなければ、それまでだ。彼は、自分にそう言い聞かせると、気が強くなった。 やれるだけやってみようと、心に決め、頭の上で週刊誌を読んでいる菅野に、藤沢に電話してくれるように頼んだ。
 彼は気軽に承知した。賢二は、繕う必要がないだけ、この友を有り難いと思っている。 受付まで電話を掛けに行った菅野は、杉代さんという人は留守だったが、母親らしい人が出たので、お前の言う通り伝えておいたぞと、報告した。
 賢二は、一つ問題が解決したように思った。菅野は、杉代のことを何も聞かなかった。来るかどうかは判らない。 しかし、明日になれば判るだろう。明日来なければ、明後日(あさって)だ……。

 その日、朝から冷たい風が吹きまくっていた。賢二は経過もよく、食事も普通のものを食べ始めていた。 四日目でも、彼の髭は、まだそれほど伸びてはいなかった。珍しさもなくなったのか、誰も来ず、独りで週刊誌をめくっていると、 足元のドアが開いて、思いがけなく、手に包みを持った杉代が現われた。いや、待ちに待った杉代なのだ。一瞬彼は緊張した。 だが、杉代はいつものように和(にこや)かな顔をしている。一体あのことはどうなっているのだろうかと、彼は理解に苦しんだ。
 「こんにちわ。ご気分はいかが? 吃驚(びっくり)しましたわ。昨夜遅く帰って母から聞きましたの。 あら、随分お会いしないうちに、こんなにお痩せになって……」 「どうも済みません、ご心配かけまして……。もうお会いできないかと思ってました」 「どうしてゞすの?」「お手紙を出して以来、何のご連絡もないからです」 「あゝ、あのことは私も気になっていたのです。でも何とお返事してよいか判りませんし、ちょっと旅行してましたもので、つい書きそびれてしまったのよ。 ご免なさい。二三日したら暇になりますから、貴方の面倒を見て上げられるわ」「いゝえ、それは結構です。来て頂いたゞけで充分です」
 「そっとして寝てらっしゃいよ。その方が楽でしょ」 賢二は、ベッドの上で坐ろうとしたが、頭が痛くて、とても無理だった。 「これ、貴方の好物のバナナよ。よかったわ、重(かさ)ならなくて……」「どうも、有難うございます」
 賢二は、嬉しかった。杉代が自分を見捨てゝいないことが判ったのだ。何日も、独りで悩んでいたことが、何だか滑稽に思われた。 それにしても、人の悪い女(ひと)だな。連絡ぐらいしてくれゝばよいのに、ちょっぴり杉代を恨めしく思うのだった。
 「叔父さんたちはお元気? 折角だから寄って行きたいのだけど、講演を頼まれていて断われないので、失礼させていたゞくわ。 よろしく仰って下さいね。また来ますけど、先ほどのお話、貴方が全快してから、ゆっくりしましょう。早くよくなってね、では……」と、 杉代が出て行きかけたとき、入れ違いに純子が、宮田と二人ほど友だちを連れて入ってきた。杉代は、一瞬立ち止まっていたが、そのまゝ出て行った。
 「すごい美人だな。川添、お前も隅に置けないやつだな。一体今のは誰だい?」と挨拶もしないうちに、友だちの一人が無遠慮に言った。 「親戚の人だよ。家の用事で来たのさ」「そうか? 怪しいぞ」 友だちは、それ以上追及しなかった。 純子は黙っていたが、本能的に何かピンと来るものがあったのか、心持ち賢二を睨みつけていた。
 若い声が遠慮なく病人を、病室を圧する。賢二は、人並みに寝てはいても、誰も病人扱いしないばかりか、 笑うと傷口に響いて痛いというのに、彼らは無理に笑わせようとするのだった。そこのバナナを食べてくれといって指差すと、 純子は女らしく包みを解いて、皆に分けたが自分はとうとう口にしなかった。
 賢二は、それから三日後に抜糸して、退院した。その間杉代も純子も、一度も姿を見せなかった。 悪友の宮田と菅野は、退院した次の日、早くも全快祝いだと称して、賢二を新宿へ連れ出し、ビールで乾杯するのだった。 賢二は腸(はらわた)に染みるビールが、くすぐったかった。

 週が改まると、賢二は寒い中、午後遅く久し振りに大学へ行った。銀杏が黄色くなって、幽かな風にも一片(ひら)二片(ひら)と舞い落ちていた。 菅野のお寺の銀杏も、もう散ったことだろう。あの妹は、熱心に踊りの稽古をやっているだろうかと、夏のことが懐かしく思い出される。 授業に出る気のない彼は、学生集会所(ミルクホール)の近くで、友だちと立ち話をしながら、 その日最後の授業を終えて出てくる筈の純子に、絶えず注意していた。
 純子も、彼の姿を見つけたらしく、いつもの軽やかな足取りで近づいて来た。 「お見舞いを有難う」「もう、すっかり好くなったの?」「お蔭さまで。しばらく休むと、学校が恋しくなるから不思議だね」「殊勝なこと仰いますわね」
 二人の会話は、どことなくよそよそしい。「今日は、別に用事はないんだろう?」「ええ、私の方こそ待っていたのよ」
 純子は結婚のこともあるので、賢二が一体どんな気持でいるのか、確かめたかった。最近ずっとつれなくなった彼が、何を考えているのか、 彼女としては、もうこれ以上我慢しておれなくなっていたのだ。それにあの女(ひと)のことが気になる……。
 「じゃ、お茶を飲みに行こう」「お茶なんか飲みたかないわ。あそこの芝生の方が好いわ」「少し寒いんだよ。そうわがまゝ言わなくてもいゝだろう」 「それでは、病み上がりに免じて……」
 彼らは、大きな通りに向って歩き出した。「君も随分変ったようだね」「そうかしら。貴方こそ変ったのじゃない?」 「僕は別に変らんさ。ちょっと文明人になったゞけで……」
 そこは、大学の近くの、主にシャンソンをやっている店だった。
 「久し振りのコーヒーが美味しいや」「……貴方は、さっきから他のことばかり喋って、肝心なことを忘れてるのじゃない?」 「別にそんなこともないさ」「それじゃお聞きしますけど、この間お見舞いにきていた女の人は、誰ですか? まさか親戚の人じゃないでしょう?」
 賢二は虚をつかれた。会った時から、純子の様子が変だとは思っていたが、まさかこんなことを口にするとは、思いもよらなかった。
 「私、判ってるわ。女だもの、それぐらいのことは判るわ。だけど悔しくって、貴方を見損なっていたかと思うと……」 「それはどういうことだい。何か君は、勘違いしてるのじゃないか。確かに親戚の人じゃないけど、別に変な人じゃないよ」 「じゃ、どういう関係なの?」「どういうって」「言えないでしょう。何もなかったら言える筈だわ。……イメージが違ったわ」 「何の?」「貴方のよ。貴方に抱いていた、私のイメージが崩れてしまったのよ」
 「どういうイメージを抱いていたのか知らないけど、僕も言わせて貰うよ。あの女(ひと)は、別に何でもない。 家によく写真を撮りに来る、お茶とお花の先生なんだ。もう一つ、君には言ってなかったが、春からある婦人に英語を教えている。 この人は、今の話に直接関係はないが、この間見舞いに来た人の、古い友だちなんだそうだ」
 ここまで一気に喋って、賢二はコップの水を飲み干した。純子は自分の知らない、意外な事を聞いて、どう口を利いたらいいのか判らなくなった。
 「君との付き合いは、もう大分長い。僕は君が好きだった。こんなことを言っても、君には理解できないかも知れないが、好きだからといって、 どうする、どうしたいという気は起こらなかった。君が僕を好いていてくれることも知っていた。だけど、好きだから、かえってどうすることもできなかったんだ」
 「私には、どういうことだか判らないわ」 そういう純子の両眼から、じっとこらえていたかのように、涙がぽつりと落ちた。
 「判らないのも無理はないさ。むしろ、判らないような態度を、強いて僕がとって来たからかも知れない」 「どうしてなの?」「どうしてって、それは説明がつかない。僕の性格に係わることで、どうすることもできないんだ」 「貴方は卑怯だわ。そうよ、とっても卑怯よ。私の気持も少しは考えてくれたら、どうなの」 「君の気持って、そりゃ考えたさ。考えるからこそ、何もできないんだ。僕は何事にも無我夢中になるなんてできないんだよ」 「かなしいこと、仰るわね」「哀れなものだよ、こうと思ったことに、何故打ち込むことができないのかと思うと……」
 「私が言うのは、そういうことじゃないわ。どうして貴方は、若者同士らしく、愛し合うことができないの。私に何が不足なの?」 「別に不足なものはないさ。ただ、愛する女(ひと)の幸福(しあわせ)を希う(こいねがう)時、自分の力でその幸福を与えてやりたいと思う人と、 他人の処へ嫁(い)っても、その女(ひと)が幸福(しあわせ)であればよいと、ひそかに思う人の二通りがあると思う。 僕はその後の方なんだ。卑怯だと思われても仕方がない。だけど、それが、僕の本質なんだ」 「じゃ、あの女(ひと)の場合はどうなの? 私が後者だったら、あの女(ひと)は前者なの?」
 「バカ、あの女(ひと)のことは、今は関係ないよ」 「そう。でも貴方はどうして、逃げようとばかりするのかしら。私には、それが理解できないのよ。もっとよく考えてよ」
 「今言ったことは、口から出任せじゃないんだ。今更どうしようもないことなんだ」「じゃ私が、好い方向に向けさせて上げるわ」 「いやそれは無駄だよ。僕は君には不相応な男なんだ。無駄な努力だよ、そんなことするのは。さっき君が言ったろう、イメージが違ったって。 確かに君のイメージ通りの人間じゃないんだ」「……………」「僕は、いつもごく自然の自分を現していた積りでいたが、君には随分買い被られていたんだ。 君の望むような、君の頼りとなるような、そんな立派な男じゃないんだ。僕は」
 「そんなに自分を苛め(いじめ)るもんじゃないわ。貴方の仰ったこと、よく家に帰って考えてみるわ。じゃ、さよなら」
 純子は、怒ったようにプイと席を立っていった。賢二は疲れていた。何を喋ったのか、すぐに思い出せない程、頭がぼんやりとしていた。 解決したのか、ケンカ別れになったのか、冷静に判断する力もなく、ただ何となく、肩の荷が下りたように感じられた。

 賢二は、盲腸で休みすぎたことと、その間見舞いの電話もよこさなかった、S夫人のアルバイトを断わってしまった。 彼女の一途さは、もはや彼を必要としなくなっていた。



第十一章

 オーバーを必要とする寒さでもないが、日も短く、気忙(きぜわ)しくなるのは、やはり、年の瀬が近いからであろうか。 人々が何かと落ちつかず、右往左往し始めると、学生はそれが本来の姿であるかのように、アルバイトに精を出し、学校はあってなきがごとし。 教師でさえ、君たちはアルバイトに忙しいだろうから、休講にしようなどと公言する。一方、写真屋の方は、正月が忙しく、年末は暇であった。
 賢二も、人並みにアルバイトを始めた。新宿駅前にある大きな靴屋で、受持ちは婦人靴である。 色とりどりの靴が、所狭しと並べられ、それに群がる客も大勢。彼は、靴のことなど、さっぱり判らないが、女性の心理――幾らだったらどれにしようか、 ヒールの高さ、色、デザイン等に至るまで、こまかく計算する――を窺うことができ、二、三日して馴れてくると、 これより、そっちの方が似合いますね、などゝ自信あり気に勧めることができた。
 その段階では、客はもうどちらでもよいので、誰かゞフンギリをつけてくれゝば安心する。そこでは、センスなどさして必要ではなく、 むしろ気まぐれこそ、最上のアドバイスかも知れなかった。

 賢二が、次に杉代に会ったのは、十二月に入ってからだった。珍しく暖かい日で、二人は小(こ)一時間ばかり、ある店を探し歩いていた。
 杉代は何軒目かの、ノッカーのついた古い店に、二、三歩踏み込んだかと思うと、
 「昔の通りだわ。何もかも、あのテーブル、あの飾りのついた椅子。それに棚の上の、古ぼけた花瓶……。来てよかったわ、ほんとうに!」
 と、満面に喜びの色を見せて、言うのだった。彼は勿論、昔のことは何も知らないし、この喫茶店に入ったのも初めてだった。 だが、杉代の、昔のまゝだったらよいのに、という願いが叶えられ、またその店の趣味の良さも窺え(うかがえ)て、彼女の朧げな記憶を頼りに、 根気よく辿ったゞけの甲斐があると思った。
 「銀座教会からの帰り、お友だちとよくこゝへ来たわ」「わざわざこんな遠くまで?」「ええ、わざわざウインナ・コーヒーを飲みに……」
 杉代は、十数年前の記憶が蘇って来たのか、ふっと眼を閉じた。それは、懐かしくもあり、また悲しい思い出でもあった。 その頃、数人で教会の帰りに来ていたが、いつの間にかT大生である二つ年下のMと二人だけになっていた。 Mは彼女にもまして熱心なクリスチャンだった。ドストエフスキーを読んで議論したり、宗教について話し合っているうちに、いつしか二人は、愛し合うようになった。 しかし、宗教的な愛というべきか、二人は清純なまま、誰が見てもほゝえましい間柄だった。 いつしか、結婚して幸福な家庭を築くであろうと、当人同士も周りも思っていた。 ところが、男の両親(おや)が猛反対したため、両親の言いなりになっていた彼は、大学も卒業しないうちに、あっさりと両親の決めた女と婚約してしまった。 杉代は、その男の不甲斐なさにも呆れたが、愛情はそんなにもろく崩れ去るものか、簡単に人を裏切れるものなのかと、神も人間も信じられなくなっていた。
 そんな思いに耽っていた彼女は、目の前の、賢二のごまかしの利かない眼差しに、すぐ現実に戻されるのだった。 寒い中を、いくら昔の思い出の店だからといって、何も知らない賢二を引っ張り回して歩いたのは、彼のその詰問にも似た眼差し、 今日こそは、はっきり答えてくださいと言いたげなその眼に、返事をするのが恐かったこともある。
 彼女は嬉しかった。賢二が自分を愛しているということと、もう他人(ひと)を愛する心を失ったと思っていた私も、彼を愛していることを知って……。 だが、その反面、恐ろしくもあった。余りにも、歳が違いすぎるのだ。こんな前途有望は青年に、道を誤らせてはならない。 私さえ我慢すれば、それでいゝのでは……。
 かつて自分に、もう誰も愛すまいと、言い聞かせたことがある。いや、愛するということが信じられなくなっていたのだ。 だけど、今の私の気持は、どうなんだろう、本当に愛を受け入れられないのだろうか。彼のその告白を信じたい……。 しかし、その前に、あの病室でちらっと見た女の子のことを問いたださずにはいられなかった。
 「この間、病院にいらっした、綺麗な女(ひと)、貴方のお友だち?」 「えゝ、そうです。向井純子っていう、重役の娘です。クラスでは、純子さん純子さんと人気の的です」 「あの女(ひと)とお付き合いなさったら。あるいはもう、してらっしゃるかも知れませんわね」 「ええ、でも友だちとして付き合うにはいゝのですが」 「貴方に相応しい(ふさわしい)人じゃありませんの。綺麗な方だったわね、女の私からみても、羨ましいぐらい……」
 しかし、杉代の心は口にする言葉、浮かべる笑みとは裏腹だった。自分の嫉妬心が、そんな風に、表に出てくるのが悲しかった。 どうしてもっと素直な気持になれないのだろう。やっぱり私は、この青年が好きなのだろうか。 あんな若いばっかりの女の子に、とられたくないと思っているのだろうか……。
 賢二も、杉代のそんな気持を、うすうす察してはいた。直ぐに返事をしないのも、純子のことが頭にあるからだろうと思っていた。
 しかし、彼はなぜ同級の重役の娘を採らずに、年上の杉代を選ぼうとしているのか、説明することはできなかった。 たとえ説明した処で、どうなる問題でもない。恐らく杉代の方でも、そんなことは見透かしているだろう……。
 杉代は考える。やはり私は身を退くべきだ。青年の好意はとても嬉しいが、それがいつまでも続くものだとも思えないし。 束の間の倖(しあわ)せを掴んだとしても、夢の夢、傷つくのは私よりも彼の方なのだ。 それなら、むしろ深入りしないで、清らかな関係でいた方がいいだろう。青年のことを思えばこそ、相手を刺激するようなことは慎まなければ……。
 「貴方のお気持、よく判るわ。でも貴方はこれからの人だし、勉強もしなければならないわ。だから……。 でも、もし寂しいときや面白くないときがあったら、いつでもお会いするわ。それで貴方の気が休まるのなら。ね、その方がいゝでしょう」
 賢二は、黙って頷く(うなずく)よりなかった。言われてみて、自分のことが判らなくなった。 一体、俺はこの女(ひと)に、何を求めて、どうしたかったのだろうかと、自問してみても、確乎たるものは何もなかった。

 それ以来、二人はたいてい、その『再会』で会うことにしていた。杉代の好みの店だったし、名前からして、二人に相応しかった。 静かな雰囲気、上品な室内装飾(インテリア)は気が利いていて、いつも甘美な音楽が流れている。
 賢二はいつもの並んで腰掛ける椅子で待っていた。だが、その日に限って、彼女はなかなかやって来ない。 待つのは辛いことだった。電話をして、会う約束までしているのだから、来ることは確かだと思っても、やはり気になる。 何か事故でも起こったのだろうか。誰かと、どこかへ行ってしまったのだろうかなどと、心配は次から次に拡がり、気が気でなくなるのだ。 そんな時、彼女はもう永久に現われないのではないだろうかという絶望感に囚(とら)われる賢二だった。
 飲みかけのお茶は冷める一方だが、店を出て探し回るわけにも行かなかった。 しかし、そんな賢二の気持も知らずに、やがて軽快な靴音と共に、杉代の晴れやかな顔が現われる。 ホッとした彼は、しばらくは顔を見詰めるだけで、物も言えないのだった。
 賢二は、深々と坐れるその椅子が好きだった。安らぎが得られるように思われるからだ。 一方の手は、肘掛に遊ばし、もう一方は並んで坐っている杉代の自慢の黒髪や華奢な腕と戯れていた。 彼は、その何ともいえない感触が、好きだった。杉代も何も話すことはなかった。唯、一緒にいるだけで充分だった。

 その後、賢二は純子と、ごく普通に付き合っていた。純子はもう気持の整理がついたのか、彼に詰問するようなことはなかった。 余りにさっぱりしているので、かえって未練が残るような賢二だったが、わだかまりがなくなって、以前より親しくなったところもあると、安心もしていた。

 杉代は、正月三が日が過ぎてから、一人で山陰に遊んだ。それは、何だか逃避行のようなもので、現実の煩わしさと 、賢二への思慕を振り切る積りだったが、今までのような一人旅の気楽さもなく、それ以上に、彼と一緒だったら、 どれ程よかったろうにと思うことが、一再ならずあって悔やまれた。
 気ままに写した写真と、賢二にだけ見せようと走り書きした旅行記があったが、それも見せずじまいだった。たとえば、こんな箇所がある。
 『昨夜、浜村温泉のT荘に一泊して、松葉ガニの大きなのをご馳走になった。とても一人で食べきれなかったが、美味しかった。 静かな旅館で、お客さんも少なく、むしろ寂しいくらいである。
 山陰は前から来たいと思っていた。このどんより曇った特有の気候は、冬にとくにその情緒があると、本で読んでいたので、 寒がり屋の私も、つい思い切ってここまで来てしまった。
 たしかに、鳥取の砂丘も、心寂しく(うらさびしく)、今の私の心には、よけい賢二さんと一緒だったらという、後悔の念がしきりである。 何にもまして、この冬景色は、私を苛めつけるばかり……。』
 『今日は菅田庵へ行く。不昧公の居所だという、京都風のこの庭園は、いくらか私の心を慰めてくれた。 …略… しかし、やっぱり女の一人歩きは奇妙である。今までどうして気がつかなかったのか、不思議で仕方がない……』  《菅田(かんでん)庵(あん)…島根県松江市にある茶人・松平不昧(ふまい)公の茶室:出雲松平藩第七代藩主》
 杉代は、賢二に写真だけ見せた。かなり視点のはっきりしている写真集(スナップ)だが、光量不足がいかにも、山陰の冬を現していた。

 年が明けても、賢二の杉代に対する熱は決して衰えなかった。元々、パッと火のついた熱病のような思いではなく、どちらかと言えば、 控え目な、静かな傾斜で、それはもう若くはない杉代の心に、かえって強く印象づけられた。 じわじわと地面に浸透していく水のようで、抗し難いものだった。
 賢二は、月末からの学年末試験を、何度も杉代にやきもきさせながら、無事終えることができた。 杉代も、これまでとは違った自分を見い出して戸惑っていたが、冷静さは失わず、仕事はきちんとこなしていた。
 試験の終わった日、その労をねぎらう約束をしていた二人は、夕方銀座で会った。 七丁目の「スエヒロ」で食事をした後、近くのバーへ寄った。解放感からか、賢二はいく分酔ったが、気持はよかった。
 表に出ると、やや冷たい夜風が、二人の頬を撫でて通る。ぶらぶらと歩いた。 暗闇の日比谷公園では、何組ものアベックが、肩を寄せ合って、愛を囁いている。 賢二は、杉代とさよならをするのが嫌だった。 黒いビロードのコートとスーツ、その中に包まれた彼女の、白い裸身が、眼に浮かぶのを、どうすることもできかった。
 アルコールに催淫作用があるのだろうか、その夜の賢二は大胆だった。彼女の肩を抱いている手に力を込めた。 「僕は、今夜は家へ帰りたくないなあ」「そんなの、いけませんわ。ちゃんと帰らないと、叔父さんたちが心配するでしょ?」 「心配するなら、勝手にすればいゝのです」
 杉代とて、自分の理性に忠実でないことは、よく知っていた。
 「こんなよい気持の時に、別れ別れに寂しい家に帰るなんて、耐えられませんね。ここにじっとしていたい。 凍え死ぬかも知れませんが、貴女の身体のぬくもりを感じてれば、決して寒くはありません」「……………」 「貴女は、いつも僕の気持が判ると仰る。僕は、今とても上機嫌です。こんな気持よく酔えたのも、下らない試験が終ったばかりではありません」
 杉代は、どうして? というような表情を賢二に向けた。 「貴女のそのコートが羨ましいですね。貴女が、本当に僕のことを理解して下さるのなら、貴女はきっと、この僕を優しく暖めてくれるでしょう」
 杉代も離れたくなかった。それは酔いのせいではない、寒さのせいでもない。唯(ただ)一晩中一緒にいたいと思う気持からである。 しかし、彼女はそれを、自分から切り出す勇気はなかった。

 夜露に濡れたベンチで、突然抱きしめられ、激しく接吻されると、彼女は、体内の血がどっと一度に頭に上ったような気がした。 どうにもならなくなった杉代は、ホテルに部屋を取りましょうと、賢二を促した。幸い近くにある新橋のホテルが空いていた。
 賢二は、初めてのことばかりで、いささか興奮していたが、部屋に入り、ボーイにチップを渡してしまうと、あとは二人だけの世界。
 椅子に腰かけている杉代が、静かに男の方へ手を差し伸べると、それが合図ででもあるかのように、賢二は彼女の前の膝まずいた。 杉代の手は、柔らかく、温かかった。指は白く細長く、賢二はその一つ一つに口付けをした。
 賢二は、彼女と身体が接する位置に坐った。息づかい、心臓の鼓動まで読み取れる。 彼女を抱き寄せて、ベッドに重なるように倒れると、二人は再び激しく抱き合い、熱い接吻を繰り返すのだった。

 バスルームから出てきた杉代は、ほんのり上気していて、官能的である。 薄暗いながらも、夢想していた白い裸身に、直(じか)に接して、賢二は夢中だった。 恥じらいをみせる、その肌(はだえ)をくまなく、痛いばかりに吸った。「愛してるわ……、もう離さないわ……、きつく抱いて……」
 若い賢二の胸の下で、杉代は、うわ言のように繰り返していた。彼は、とうとう杉代を知った。いや、初めて女を知ったのだ。 それは、あっけなく終ったが、何とも言うに言われぬ、変な気分が後に残り、狂おしいまでの、杉代の絶望的な幸福感に、彼は、ぼんやりした頭で応えていた。
 そして、深い眠りに落ちていった。



第十二章

 学年末の試験が終って五日目、めずらしく雪のちらついた日だった。 賢二は一通の葉書を受け取った。それは、純子の急死を告げるものだった。
 休みに入る二日前、英語の試験が始まってから、二十分もしないで答を書いてしまった彼が、ふっと後方を見たとき、 偶然顔を上げたらしい、純子の視線と出会った。何気なしに彼は、出来たかと目顔で聞くと、彼女はにこっと笑った。
 遅刻した男が慌てて飛び込んできた後で、二人はどちらからともなく、外に出た。 英文の解釈の仕方をあれこれ話しながら、次の日に備えて、かつての恋人同士は、何事もなく別れた。 次の試験もがんばりましょうと純子はまた、にっこり笑っていた。とても元気だった。賢二が純子に会ったのは、それが最後だった。

 余りにも突然のことで、賢二は自分の眼を疑った。そんなことがあってたまるかと、憤りがこみ上げてきた。 死因は急性肺炎で、静岡市内の旅館に泊まっていたという。午後になって、宮田から電話が入った。
 「純子さんが死んだぞ」「知ってる。しかし、おかしいじゃないか。今どき、どうして肺炎なんかで死ぬんだ」 「俺もおかしいと思うが、家の人もそう言っているらしいんだ」「それにしても、どうして静岡なんかへいったんだろう?」 「それは判らない。処で。お前葬式には行くんだろうな」「何時だ?」「今日の三時だ。葉書に、お寺の場所が書いてあるだろう?」 「うん、そういえば書いてある」
 賢二は、その文字さえ眼に入らないくらい気が動転していた。 「行くだろう、当然!」「……いや、俺は行かない」 「どうしてだ。純子さんとお前は、そんな仲じゃなかっただろう。せめて葬式ぐらい行ってやらなきゃ、可哀そうじゃないか」 「それは、判ってる。しかし、俺は行かん。第一、俺には彼女が死んだことが信じられないのだ。いや信じたくないのだ」「……………」
 「それに、葬式に行ってももう彼女はいない。彼女がいないのに、行っても仕方がないじゃないか」 「何を言ってるんだ。葬式に本人がいたら、どうなるんだ」 「不条理だ! 俺には、そんな処へおめおめと顔なんか出せないよ。確実に死んだとしても、急性肺炎だなんていうのは解せない。俺はそうじゃないと思う」 「じゃ、なんで死んだんだ?」
 「自殺だよ」「自殺? 証拠でもあるのか」 「いや、特別のものはない。だが、正月に彼女から年賀状代わりに、かなり長い手紙をもらった。手紙というより、詩のようなものだ。 それが今になって思うと、何かを暗示しているような気がするんだ」
 「どんなんだい? 俺も詩みたいなものは貰ったけど、別に変なことはなかったぞ」 「お前には判らないかも知れないさ。だが俺には判った。つまり姉さんと自分自身のことについて、何か秘密を悟ったらしいのだ、夏の旅行中に。 彼女は俺を頼ろうとしていたらしいが、俺は煩わしく思っていたので、相手にしなかった。それで自分で何とかしようとしたらしいんだけど、 俺は迂闊にも俺とのことで悩んでいると思ってたんだ」「……………」
 「その悩んでいたことを暗示したものが、三つあった。そして、もう一つ、これがひどく身につまされるのだが、 “お姫様、二十歳(はたち)になったら、天国へお入りなさい”という意味のがあった。 ひょっとしたら、その日が彼女の二十歳の誕生日だったのじゃないかと思うんだよ」 「成る程ね。俺には判らないけど、それは後で考えることにして、とにかく行こうよ」「いや,やっぱり行かん!」
 賢二は考える――俺は、彼女に対して、二つの誤りを犯している。一つは旅行後の彼女を、決して彼女の立場に立って考えなかったこと、 そして第二に、正月に送って来た詩を、その真意を読み取らずに、放っておいたこと。 そういう俺が、皆に交じって、焼香する資格があるというのか。俺にはできない。 他人が何と言おうと、それがせめてもの、純子さんに対する手向け(たむけ)ではないのか――。
 「俺は行かないよ。行ったって純子さんはいないのだ。お前、そんな処へ行って耐えられると思うか。 いないと始めから判っているのに、俺は行かん。お前が代って、俺の分までやって来てくれ」 「お前の頭、少し変なのじゃないか。まあ、いい。それだけ言うなら、俺一人で行くよ」
 賢二は、電話を切った後も、一人で考えていた。はっきり、急性肺炎とされているのに、自分だけが自殺だと主張する……。 それは死者に対して失礼な考えではないのか。いや、そうではない。自殺は、確かに敗北の思想だ。 いかに綺麗に飾ろうと、それは自ら敗れたことを、証明しているようなものだ。 だが、それでは“敗者”の純子を、自分は正面切って否定できるのか、駄目な人間と決め付けることができるのか?  俺は、否と答えざるを得ない。たとえ、彼女がその方法しか取り得なくても、俺には彼女を非難する権利はない。 何故なら、いつ彼女と同じことを、自らもしないと言えるだろうか。いつ彼女と同じ運命が、自分の身にふりかかって来ないと言えるだろうか。
 不条理な“生”というものに、ある恐ろしさを感じる。自ら生命を絶つことは、ある意味では勇気のいることだ。 俺にはその勇気もないではないか。不満を抱いているだけで、何の決断も選択しない。それが“敗者”より優れているといえるだろうか……。

 焼香に行った連中から、後になって聞いても、純子の本当の死因というものは、誰の口からも聞かれなかった。 恐らく家族のものが、世間をはばかった、あるいは、わざとはっきりさせなかったのだろう。賢二にも、勿論、それ以上のことは知る由もなかった。
 そして、休暇中のこともあり、いつしか純子のことも忘れられてしまった。

 五月の風が、さわやかに山の湖のほとりに吹いている。朝まだき、山にかかった霧が足早に、西から東へと移動して行く。 大気は澄んで冷たく、とても気持がよい。
 賢二と杉代は、日光に行った。
 東照宮から、いろは坂を車で上って、中禅寺湖まで来ると、霧が濃く、何も見えない。 華厳の滝はもう何年も前から水不足で、飛び込む人を拒否している感がある。
 だが、ここまで来ると、涼しいというより寒い。日光に遊ぼうと言い出したのは、杉代の方だが、賢二にもある思いがあった。
 二人は、あの夜結ばれて以来、何度か夜を共にしたが、本来なら、その胸に顔を埋めて安らかに眠るべき処を、賢二は密かに涙を流すのだった。 言うまでもなく、純子の不可解な死によるものである。
 その後、純子のことについて、彼は誰にも何も話したことはない。勿論、杉代も知らない。 話すべきことでもなく、直接係わりのあることでもないだけに、賢二は黙っているしかなかった。 そんな時、この日光行が持ち出され、賢二はまさに杉代の気持を裏切っていたであろう考えによって、直ぐに賛成した。
 彼は去年、やはり春に、純子たちと日光に遊んでいた。思い出深い処である。
 しかし、杉代には、すでに解決済みである筈の純子のことが、賢二の頭の中にあるとは、想像も出来なかった。 いやむしろ、いったん火のついた女の心に、そのような考えが浮かぶことさえ、むずかしい。 所有欲か、独占欲か、それは愛の深さを示すものかも知れないが、しばしば男をうんざりさせる、女の特性を、杉代もちゃんと持っていた。
 賢二は、決して浮かぬ気ではなかった。人影も疎らで、まだシーズンには少し早い、静かな湖や草原や小鳥たちのさえずりは、気持を和ませた。 そんな中で、無邪気に、まるで子どものように飛び回る杉代の姿が、ほほえましかった。
 夕方、あまり暗くならないうちに宿に入った二人は、館内の探検に出かけたり、一緒にフロに入ったりした。 賢二は、覚えたての日本酒を飲んだ。杉代もいける方だった。酔いに任せてではないが、彼は本来タブーである、他の女性の話を切り出した。 杉代は、まあっと驚きの表情を見せたが、それが一度は顔を合わせたことのある純子と知って、ある感慨に打たれたようだった。
 賢二は、純子の死と、自分の感想をかいつまんで話した。話すことによって、気持が少し楽になった。 黙って聞いていた杉代は、かつて彼の前で言ったように、賢二と純子は、お似合いだという考えを捨ててはいなかった。 むしろ、その方が自然に見えるのだ。
 その夜、神経の高ぶりからか、二人は激しく燃えた。そのあと、杉代はほの暗い中で賢二を見詰めて、言った。 「純子さんだったら、貴方をとられても、いいと思ってたわ……」と。その眼には、光るものがあったように、賢二には見えた。 それが、純粋な同情の涙か、純子に勝ったのだという歓びのそれか、賢二には判らなかった。
 杉代は、この青年を逃がすまいと思った。しかし、年齢的にも下り坂にある自分から、いずれは去っていくであろうことも覚悟していた。 だが、その日が出来るだけ遅く来るようにも願っていた。彼女は、むしろ彼が自分をひたむきに愛してくれるのを嬉しく思っていた。 彼が結婚しようと言い出すと、それを何でもないことのように、うまくあしらっていたが、心の中ではどれ程、望んでいたであろうか。
 夢だ、全くの夢に過ぎないんだわと、充分承知していながら、彼との暮しを、どれ程、心に描いたことだろう。 しかし、その反面、この熱は青年特有のもので、いつかはきっと冷めるものだとも知っていた。 でも、そんなことは想像だにしたくないことだった。他人(ひと)を信ずる心はなくなっていた筈だと思っていたのに、 こうして彼と一緒にいる私は、一体どうしたのだろう?
 そんなことを考えていた杉代は、すやすやと、未だあどけなさを見せて寝ている賢二の横顔を見ながら、 「過ぎたお方、高嶺の花だわ」と、我知らず、つぶやいていた。

 奥日光は、また一段と人影も疎らで、樹々(きぎ)の緑も鮮やか。清々しい空気の中を、そぞろ歩くには、恰好の場所である。 小田代ケ原の林は、左手に唐松、右手に白樺の並木、その間を縫う細い径(みち)は、落ち葉に敷きつめられて、音もせず、ましてや人声も聞こえず、 どこまでも続くかのようであった。
 昨夜来の雨は、降ったり止んだりで、心なしか、二人の気持を表しているようだった。 湖畔のベンチで休んでいるとき、賢二は突然、「僕たちは、まるでサガンの主人公のようですね」と切り出した。
 彼女は、この小説『ブラームスはお好き』を知らないようだった《F・サガン作;新潮文庫1961・5発行》。
 彼は何気なしに、F・サガンの小説を読んで、吃驚してしまったのだ。まさに身に覚えがあるといった驚きだった。 その筋書き通りに、自分たちが行動しているような錯覚さえ、覚えたのだった。
 彼はしかし、あの女主人公の心理を、杉代には教えまいと思った。恐らく彼女も、すべてを知っているだろう、彼はそう考えて何も言わなかった。
 湖の彼方を眺めている杉代は、何を考えていたのか、しばし、賢二の存在を、忘れているかのようだった――。



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