「つい読んだ気になって」
本の世界で長く「聖書」に代表されたベストセラーは、いま同じ"洋モノ"でも「ハリ・ポタ」シリーズには叶わないらしい。
昨年後半、東京新聞夕刊に連載された植田康夫の「本は世につれ−戦後ベストセラー考−」は、多くの資料や証言をもとにベストセラーの変遷をたどっている。
ところで、毎年よく売れた? よく読まれた? ベストセラー、たとえば原田康子「挽歌」(1957東都書房)、
五味川純平「人間の条件」全6巻(1958〜三一書房)や河野実・大島みち子「愛と死をみつめて」(1964大和書房)、
黒柳徹子「窓際のトットちゃん」(1981講談社)、森村誠一「悪魔の飽食」(1982光文社)などから、さいきんのものを含め、
私はそのほとんどを読んでいないという現実に、改めて「変なの?」と、自らを"みつめて"いる次第。
さて、この20年ほどのベストセラー状況を見ると、一作品というより、一作家が売れる状況も顕著のようだ。
(()数字は、ベストテン順位)
1987年:安部譲二…(2)「塀の中の懲りない面々」(文藝春秋)、(6)「極道渡世の素敵な面々」(祥伝社)、
(8)「塀の中のプレイ・ボール」(講談社)の3点。(15)に「塀の外の男と女たち」(ワニブックス)
1989年:吉本ばなな(現・よしもとばなな)…(1)「TUGUMI」(中央公論社)、(2)「キッチン」(福武書店)、
(5)「白川夜船」(同前)、(6)「うたかた/サンクチュアリ」(同前)、(7)「哀しい予感」(角川書店)の5点。
(12)にエッセイ集「パイナップリン」(角川書店)もあるとか。
少しとんで、"張りぼて"ならぬ"ハリ・ポタ騒動"の始まった1999年には、J・K・ローリング「ハリー・ポッターと賢者の石」(第1巻、静山社)
と同第2巻「ハリー・ポッターと秘密の部屋」をあわせて第3位に。
2001年にはさらに第3巻「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」を合わせて第2位、翌2年には、
第4巻「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」を初版上下で230万セットも刷り、このセットは一か月少しで、350万セットに売れ、
4巻あわせて第1位になったとか。
未だに続いている"ハリ・ポタ騒動"は世界的なもので、最終巻の出る08年はどんな仕儀と相成るのか、私には関心がない?!
私は、家の本棚にあってもベストセラーを読まなかった。どうしてだろうと分析するに、話題となるにつれ、
何気なくスジがわかった気になり、天邪鬼な性格からか、皆が読むからといって別に読まなくたってと思っているうちに、
また次の話題作、ベストセラーが登場し、賑わいを見せる繰り返しに遭っているといえる。
言いかえれば、食べもしないのに満腹感を味わっているというべきか。あるいは、付き合いが悪いだけのことかもしれないが。
「懐かしい大阪弁」
十代のころ7年ほど住んでいた大阪、といっても茨木だが、小学6年の3学期に静岡県から急きょ移った私は、
その"都会"の雰囲気に馴染むには、かなり時間がかかったように思う。
その一つが大阪弁である。細かくいえば、船場ことばとか河内弁などと、地域によって独特の言い回しがあるようだし、
また6年間学んだ学校には大阪だけでなく京都や神戸の言葉を話すものもおり、私が身につけたのはどこのことばが中心であったろうか。
あるいは、そのちゃんぽんであったか。
一方、わが家は標準語? が中心で、主である長兄は勤め先での言葉遣いが、大阪の人にはきつく響いたということも聞いた。
私自身、大連(中国東北部)で生まれ、4歳で福井県に引き揚げ、小学3年の1学期、静岡県に移ったのちの大阪である。
標準語で始まったとはいえ、それぞれの地の言葉に馴染むのは子どもの常であるが、そのアクセントがおかしいのか、
大阪では"静弁"などと、からかわれたものである。
長じて、初対面の人に、大阪出身ですというと、大阪弁が出ませんねえ、とよく言われた。
とくにこだわりを持っているわけではなく、改まった場合には、やはり自然と口に出るのは、標準語であっただけのことであろう。
そんな私でも大阪弁で、ときどき口にするのは「アホは風邪を引かん」という表現である。
相手をケナしているでもない、ホメているでもない、というところに温かさを感じるからだ。
もう一つは、出かける人に「行ってらっしゃい」という代わりに「お早うお帰り」をいう言葉も好きである。
"雅語"と思うほど、奥ゆかしさを感じるものだ。「道中無事で、お気をつけて」という意味だと私は解釈している。
なぜ「アホは風邪を引かん」を思い出したかといえば、滅多に風邪を引かない私が、11月と12月に、やや怪しげな状態になり、
熱もでず頭痛も下痢もしないが、のどがひりひりということがつづき、とうとう御用納めの日に、医院に駆け込んだからである。
2年前の1月末、根を詰めた? 仕事がたたったか、12時間ほど緊急入院させられたこと、その前も還暦に当たる年の正月、
肺炎にかかり45日も通院したことを思い出したからだ。
さて、皆が「行ってらっしゃい」と送り出すとき、私は「気をつけて」ということが多い。
別に目立とうとして、そういう表現をしているつもりはないが、ある日、ただ一人年輩の男がいった。
「何に気をつけるのだ?」
「親の背中」
男の子は、父を批判的に見て育つ、などと言われるが、私の場合も例外ではなかった。
また、子どもは親の背中を見て育つともいわれたのは、かつて父親は亭主関白であり、威厳を示すため、寡黙で、
子どもに愛想よくなどというのはなかった時代が長く続いたからかもしれないが。
ともあれ、反発とまでいかないものの、ライバル視するか、無視する、あるいは性向など似ているところが面白くないとか、
さまざまな要素があろうかと思う。
私は、父54歳の時の子である。背筋を伸ばし、いつも本を読んでいる姿が目に浮ぶ。"おじいさん"とは思わなかったが、
2里も離れた山の分教場での一人暮らし(福井時代)、ある会社の購買部で働いていたが(静岡時代)高齢ということもあり、
長くは続かなかったと思う。子どもから見たその姿は非現実的で、過労で倒れたりもした15歳下の母(後妻)とは対照的であった。
小学生ころからか、私にはわけもなく"権威"に対する反発心があった。教師であった父は、学校(および教師・教科書)に関することに、
異議を挟むことを許さなかった。自分(元教師)への反抗とでも映ったのであろうか。
しかし、一つの例をあげれば、高校1年のときだったか、国語の授業で、石川啄木の編み出した"三行詩"について、
その教師は誌面(教科書)の都合でこうなっている、というような初歩的なミスというか、とんでもない説明をしてしまった。
もともとこの教師に批判的だった私は家に帰り、その誤りを告げると、さすがの父も私の言い分を認めざるを得なかったようだ。
それ以後、少しは耳を貸すようになったかどうか、定かではないが。
さて、昨年夏、ある大学教授の研究の過程で、"父"がとつぜん現われたそうで、それを聞いた当初、私も戸惑ったものだ。
やがて、解読を依頼された書簡や経歴などにより明らかになってきた若いころの父、そのエッセイ的な文章に接したり、
国会図書館でコピーした大連や北京の地図などにより、私は少しずつ当時の父に近づいてはいる。
また書簡には、新聞記者への誘いがあるとか、随筆など短いものを書きたいとか、文筆の世界を目指していたらしいこともうかがわれる。
実際に二つの雑誌の編集者をしていた時代もある。これは、新たな発見であった。
私も子どものころから何気なく、文筆業を目指しており、中学2年から新聞部に入って、記事や探訪レポートに"論説"なども書いた。
それは約3年続くが、大学は文学部へ、卒業して作家の事務所に勤めるようになった私に対し、父は何がしかの期待を持っていたらしいことが、
当時の私あての手紙に読みとれる。
つまるところ、私は父を批判的に見ていながら、結局は父と同じような道に進んでいたことになる。
別段、"親の背中を見て"いたわけでもないと思うのだが…。
余談だが、さいきん、まったく覚えていない新聞部時代の過去を暴露されてしまった。
いわく、私が級友に書いてもらった原稿を「(内容は忘れたが)ズタズタに切り裂いて、
加筆訂正を執筆者である私に断りもなくやりとおし、平気でプリントアウトされたことだけは、鮮明に覚えている。
大概失敬な話なのだが、そのとき、悔しかったのは彼の添削のお陰で私の生原稿より、はるかに洒落た文章になっていたのを認めざるを得ないことだった」
(「旧友『H』とクロスしたこと」…杉 浩史著『私は笑って死にたい』2007・11・23私家版)。
(以上、08年1月1日までの執筆)