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「まだまだコラム」 2008年1月中旬号

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「メール賀状」
 年々、ケータイを含みメールによる"年賀状"が増えるのは、致し方ないであろう。
 パソコンの普及で、自らオモテウラともに機械依存の賀状作成が当り前となり、そうでなくても没個性だったものが、 さらに普遍化してしまった時代である。とくに若い世代が、年が明けたとたん、ケータイで一斉にメール賀状を打つのは新しいやり方で、 近ごろは年配者も増えているようだ。
 とはいうものの、守旧派の私は数年前から、相手により旧来の年賀状を出す場合と、メール添付とを使い分けている。 前者は比較的年輩の方、パソコン等にあまり縁のない方向けであり、後者はその逆というか、ビジネスライクあるいは、 家族の写真を貼るに似て、前年の"報告"をするという自己完結型に、お付き合いするものといえる。 お互いに「元気でやっております」という意味合いであることにはちがいない。
 さて、今年メール賀状を出した方は200人前後だろうかと思うが、相手はさまざまである。 親しい方もおれば、そうでない方もある。そこで工夫したのが、つぎのようなものである。
 【橋本健午の過去および現在】
 ノンフィクション作家/本橋 游〈筆名〉/大連(引揚げ)/高槻高校・槻友会(13期)
 /早大一文(露文学)/田無寮OB会/「梶山季之」/大宅壮一東京マスコミ塾(第1期)
 /日刊現代/日本雑誌協会/青少年問題(メディア倫理)/出版午合会/日本出版学会
 /日本エディタースクール/東急セミナーBE(渋谷)/『戰線文庫』/父と大連・満鐵…

 どこの馬の骨かと思う方も多いだろうから、上記のようなキーワードをならべれば、「ああ、アイツか」などと、 思い出してくれるかもしれないからである。
 実際にどうであったか。今年も、いくつかお返事をいただいている。「さらに活躍を」と"励まし"て下さる方、 元日の「早朝から、勤勉なことを」などと"皮肉"を交える方のほか、名前や所属は覚えているが、顔など思い出せない若い方など、 私と同じように昨年の"業績""仕事振り"を書かれている。もっともこれは同年輩、さらには年上の方にもおられる。
 また、メール年賀もいくつかいただいている。単に形式的なあいさつだけのもの、あるいはカラー写真を添えるものなど、さまざまである。
 人それぞれの生き方があるように、年賀状の出し方(あるいは出さないという考え)など多様化している時代。 その人が最良もしくは次善の策などというやり方でよいのではないかと思う。

「"有名人"考」
 近ごろ、予想もしなかったことがいくつか起っている。
 昨夜も、ふとインターネットで「橋本健午」を検索したところ、姓名判断というか、「画数と良運 赤ちゃんの命名・名付け」というサイトに、 いつからか私の名前が載っていた(Copyright@2006−2007)。
 私の著作もいくつか画像で見せている。「勝手なことをするな!」といいたいところだが、冒頭に次のようにあった。 「橋本健午(はしもとけんご)名付・命名のための無料姓名判断。良運の検索や、同じ画数の有名人を探したり、有名人の運勢を一覧できます」。 うーん、人助けのためだったのか?!
 正直なところ、私自身、性格判断や運勢・運命について、ほとんど関心がない。 気軽に街頭で見てもらう人や他人のそれを判断して"親切に"告げる人もいるようだが、気にしてもどうなるものでもない、 と思っているからだ。
 とはいうものの、大学に入りたてのころ、心理学を学んでいる友人から、あるコーナーでの診断に誘われ、それを断ると、 「消極的な性格だ」といわれ、なるほどと思ったことがある。
 40歳で、請われて月給取り生活に入る。それをある人に話すと、「運勢に大器晩成と出ている」といわれた。 私は中学生のころから、この言葉が好きだったので、その言葉を聞いただけでよろこんだ覚えがある。
 53歳で、その仕事を辞めるとき、大小かなりの送別会をやってもらったが、翌年2月の最後の会で、 ある責任者から「あなたは四六木星だ」として、「きびしい、自分をいじめる/わがまま、独立心がある/外向的に見えるがネクラ」などといわれた。 もう一つ、楽観的な性格として、私は「先を決めずに辞めたことである」と手帳に記している。
 さて、いま65歳である。先の運勢ではどう判断されているか。
 これも、よく分からないのだが、「天格 吉」独立 統率力 名誉、「人格 大吉」人望 大成 逆転成功、 「地格 吉」人徳 出世 順調、「外格 凶」社交下手 薄幸 別離、「総格 半吉」苦労 波乱とあり、数行ずつのコメントもある。
 なお、ご丁寧にも、私と同じか似た運勢の"有名人"のお名前が何人も載っているという次第。"同士愛"でも生まれるのであろうか?!
 ところで、私に最初の"運勢"を占ったのは、わが母である。大阪で浪人生活を送っているとき、「お前には女難の相がある」とのたまった。 これには返す言葉がなかったが、すでに「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という便利な言葉を知っていたのは幸いであった。

「"父"に出会う」
 現在、父の関わったもので、私の手元にあるのは書籍1冊、会報的な出版物1種、編集長をした雑誌1種であり、 さらにある大学図書館が所蔵する雑誌は2種と考えられる。このほか、解読を依頼されている書簡が20数通である。 それらは大連にいた大正時代から、終戦直前までのものである(以上、いずれもコピー)。
 午後から穏やかになった平日、横浜は港の見える丘公園を横切り、大仏次郎記念館の直ぐ奥にある神奈川近代文学館を訪ねた。 ここに父が関わった雑誌(滿鐵讀書會発行「讀書會雜誌」)のバックナンバーが4点あるためで、期待しつつ現物を見せてもらった。
 最初に手にした大正10(1921)年2月号(第8巻第2号)の奥付を見ると、「編輯人 橋本八五郎」とあるではないか。 うーん、しばしジーンときましたね。ついで、同13年10月号には、すでに何の痕跡も見当たらなかったが、 三冊目の同14年2月号の目次を見ると、寄稿文があった。題して「心中の蟲」(約4ページ、文末に"大正14年1月10日"とある)。 最後の同15年12月号には何も見当たらなかったが、それぞれから、参考になるもの、興味を引く文章をコピーしてもらう。 都合、2時間半近くかかった。
 いま推測するに、父がこの雑誌に関わったのは、当時の書簡によると、創刊(大正3年)から5年目、 大正7(1918)年ごろ30歳のときであろうか。なお、父はこの年3月末に結婚したばかりである。 翌年4月の書簡の封書ウラに「大連滿鐵讀書會/橋本八五郎」とあり、"滿鐵讀書會用箋"を使用している。
 雑感だが、この雑誌について…A5判、"背"のあるきちんとしたもので、ロゴ(雑誌タイトル)や月号は右から左に印刷され、 表紙はカラーで絵があり、ウラ(表4)も何がしか印刷されているが、広告は最後の号だけである。 しかし、本文では目次の前後に数ページあり、後半も数ページの広告がある。口絵はカラーではないが、いずれの号にもある。 第3種郵便物の認可もとっている。これらは、すでにわが国で、きちんとした制度が確立されていたことの証明でもある。
 この雑誌は国内の他の大学図書館にも数多く所蔵されていることが分かっており、いずれ訪ねて確認するつもりである。

(以上、08年1月15日までの執筆)


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