「マニュアルが読めない?!」
先日の夕食の時、大学生の息子から「せめてメールを打てるようになって欲しい」と懇願されたのは、これで3度目であろうか。
カミさんが入院したのと、それまで我慢していた息子が高校生になるのを期に、私もケータイを持つ羽目になったが、
親密なメル友もいないため、もっぱら家族からの"受信"専用であった。
そんな私は機械類に弱いというか、メカ恐怖症に近い。パチンコなども嫌いなのは「なぜ機械に遊ばれなければならないのか」と思うからであって、
決して大当たりが出なかったからではない?!
近年はもっぱらパソコン依存症気味でもあるが、違ったキーを押してしまい、それまで見たこともない画面が出現したりすると、
懲りずにパニック状態に陥ること、しばしば。
そんなとき、マニュアルを読めばといわれるが、分厚い中に事細かく書かれており、聞きなれない横文字風の単語と、
従来とはちがう意味を持つ単語が多く、頭が混乱する。以前、どこかの原住民は数を三つ以上は数えられず、
「たくさん」というなんて失礼な話を聞いたことがあるが、私の場合もそれに近い。
あえて"自作格言"を申せば「テレビは消すもの、電話は切るもの」と思っているほうだから、ケータイでメールを打ったりするなんぞ、
やりたいとも思わないモノグサでもある。
それにしても、電車の中での中年男女を見ていると、「数独」に熱中するものに倍する勢いで、小さな画面を睨みながら、
こまめに指先を動かす連中が多いようだ。どこのだれと交信しているのだろう!!
ともあれ、一念発起、メール打ちに挑戦しようというわけではないが、息子に「簡単なマニュアルを作ってくれれば」といってみたところ、
滅多に「うん」といわない彼が、直ぐに取り掛かり始めたそうだ。私は寝てしまったが、朝には枕元にA4の手書きのものが1枚置いてあった。
カミさん曰く「マニュアル作りって、意外と難しいんだなあ」と、息子が言っていたとか。
サア、後に引けない私だが、マニュアルは読めても、実行に移すかどうか、我ながら心もとない次第……。
ところで、私自身は勤めを辞めるとき、仕事の引き継ぎなど後輩たちが困らないように、かなりきっちりと"マニュアル"を作っている。
最初は3年ほど記者として務めた「月刊現代」のときで、担当していた随想欄やいくつかのコラムなどについて、筆者の選択、
原稿の依頼と催促、そして印刷所に入れてからの流れ(作業工程)などである。だが、最も大事なことは、書いてもらった原稿の掲載雑誌を、
それぞれの筆者に送る場合に、一言お礼の言葉を手書きして添えること、と強調しておいた。
さらに、社団法人を辞めるときも、担当していた大小10いくつもの委員会などに関してマニュアルを作った。
ついで、新規立ち上げのものにもいくつか関わったため、それらの「小史」も作った。
人は辞める段になっても「俺がいなければ、困るだろう」と思うらしいが、私は縁を切ったわけではないが、
区切りが大事であると思ったからだ。その結果、まったくタッチしていなかった経理関係のことを除けば、
ほとんど問合せがなかった。自作ではない格言をあげると「立つ鳥、後を濁さず」というところか?!
結論:もう一つ自作格言「マニュアルは相手の立場になって書くこと」
「迎える季節」"新歓"その1
別れの季節3月が終ると、すぐに迎える季節が始まる。サクラばかりがめでたいわけではない……。
近ごろ、"父"を尋ねての資料探しは、国会図書館から母校の中央図書館通いに変わっている。2月に1回、3月は3回も行った。
そして、今月はすでに2回も顔を出しているが、さて本題。
2日。昼に少し前、高田馬場で下車して大学を目指して歩いていると、新入生らしき連中が手に手に同じ紙袋を持っている。
何か説明会でもあったのか? 一人ぼっちで歩く姿は少ない。みな一緒に合格したのか、それとも直ぐに友だちが出来たのかしらん?!
その直後、私は中央図書館を利用する前に、新聞資料が保管されている1号館に行こうとして、北門を入ったところで戸惑ってしまった。
大学に近付くにつれて、若々しい学生の笑い声などが聞こえてはいたが、幅5、6メートルはある構内の通路という通路が、
学生たちで埋め尽くされているではないか。両側に細長い机を並べ、前後に先輩たちが屯し、その中を新入生等が右に左に通りながら、
どのサークルにしようかと次々に配られる勧誘チラシを受取ったり、しきりに誘われたりという状況である。
サークルは文化関係やユニフォーム姿のスポーツ系、政治経済関係もあるようだが、その数は200か300か。
脚の踏み場もないというが、まず地面が見えない。
私はその後の会合もあるため、背広にネクタイ姿だが、埋没してしまい、チラシもくれない代わりに、よけてもくれず、
ようやく目指す建物に入ろうとすると、女学生から「こんにちは」と挨拶された。
黒カバンを持っていたから"教授"にでも見えたのかどうか?!
さて、逆のコースで中央図書館に戻り、いくつかの資料をコピーして、今度は地下鉄東西線に乗るため、
もう一度構内に入ったのは4時半過ぎ。先程より数が増えたのか、北門から入り建物の間を抜け、大隈銅像前に出るのに難渋し、
さらに2号館の先の南門を抜けるまでに、いつもの倍以上も時間がかかってしまった。
途中で、男子学生から渡されたチラシをヒラヒラと手に持ち、道を空けてくれとの"合図"としたつもりだが、
やはりだれも空けてくれなかった。
せっかくもらったチラシを見ると、びっしり、次のように書いてある。中央上部に「バドミントン 早大**会」とあり、
その下に「新入生の皆さん ご入学おめでとうございます!!」と大書したあと、部員は100人ぐらいおり、うち男子は同大生のみだが、
女子はどの大学からも集まっているとか、気楽に入れるような"懇切丁寧"な案内ではある。
裏面には「スケジュール&練習場所」として4月、5月の週2日の予定表は分りやすい。4月25日には「新歓コンパ」があり、
5月のゴールデンウイークには1泊2日の「新歓合宿」もあるそうだ。それにしても、B5版のウラオモテに、
よくぞこのように細かく書き込めるものだと感心した。
今年の入学者は、たぶん院生を含めてであろうが、男女1万3千名とか。多いものですねえ。そこで、よくこんなことが言われる。
「日本一の"女子大学"はワセダ」と。
親世代である私としては、何の屈託もなく、青春を謳歌しているらしい彼らの現場を、その親たちに実況中継してやりたいくらいだが、
数年前には「スーフリ」とかいう、いかがわしいサークルもあった。新入生諸君も、その保護者の皆さんも、気をつけなくっちゃ!!!
「迎える季節」"新歓"その2
昭和37年4月、私は一浪のあと、一万人の仲間と早稲田大学に入った。先の"新歓"のようなことも行われていたようだが、もっと地味だった。
そのとき、私は先輩ヅラして"新入生"を相手にアルバイトをしたのだった。ともあれ、当時の日記より、入学前後の一か月間を抜き書きしてみよう。
3月15日(木)…学生身上記録に、自己の性格を評して「温和、愛他的、批判的、ペシミスティック」と記す。
(このあと一時、茨木の自宅に帰る。"家族会議"については省略)
21日 早朝、S町に着く。Mチャンとは午後2時間半ばかり話す。私にはホオずりしかできない――現実があまりに想像と離れているので。
《本件とはちがうが、自作の格言を一つ「生活は貧困でも 恋をする時 人は"貴族"となる 3・21付」》
22日 入学手続き完了。やっと安心。
23日 私のルス中に、Oさんからここの下宿にデンワがあったという(東五軒町)。
私のことを聞いたというから、当然私が応答してもよかったということは――彼女が何とも思っていないという証拠である。
24日 この日はぼんやりしていた。
25日 日曜でもあり、所在ないので、Hさん宅を突然訪問。それでも与えた印象はよかったよう。
26日 下宿探しを始めたが、4つまわって全部だめ、雨の中で泥んこになり、悪戦苦闘。
27日 再度、学生生活課をおとずれたとき、ちょうどデンワがあり、そこの下宿へ行き、一応入ることにきめる。
気に食わない夫婦(歯科医)だけれども、止むを得ない。
28日 兄の友だちのNさん、Mさんを訪問。アルバイトは、どうもだめらしい(都庁の方)。
夕方、思いがけなく、C女から電話がある。元気なようだが、やはり他人の家にいることはつらいようだ(日本舞踊、内弟子)。
31日 引越しは午前中、80円タクシーでやったが、案外簡単に済ませることができた(鷺宮へ、440円)。
その後、前の下宿で友だちになったN君(三重県出身)と、小石川の東大植物園へ行った。…後略…
4月1日のエイプリル・フールは所在なく過ぎた。しかし、実に沢山の買物をした。
洗面器やお盆、ゲタ、クズカゴ等、案外馬鹿にならないものである。自炊はしないつもりでその道具は何も買っていない。
2日 図書館で(2歳上の先輩)M子ちゃんに会って、下宿のことなど話して、探してもらうよう依頼する。
その後、前の下宿へ行って、N君と話をしたり、また大学に戻って食事をしたり、古本屋をあさったりして、高田馬場駅で別れた。
以後、毎日大学およびその周辺に行く。4日には千代田区の学徒会館まで行って、アルバイトのことで調べる。
手続きがかなり面倒だが、そんなことを言っておれる身分ではない。またずっと歩いて、神保町の古本屋で、
岩波のロシア語辞典を実に感激をもって手に入れた。 (中略)
小説は、1日と3日に処女作の前篇の第二原稿を書いた。以後続けようと思うのだが、なかなか思うにまかせない。
本の方は、教養文庫2冊と岩波新書1冊を読み、他にも読んでいる。新本を買うのは、どうしても不経済だ。
努めて古本を買って読むことにしよう。まあ、古本にしてもあまり行き当たりばったりなやり方はやめよう。
漱石の全集はいずれ買わなければならない。 (数日分、大幅に略)
8日(日)午後 昨日、早稲田大学に入学。実に感慨無量だ。式は正味55分で終了―好感。
総長の式辞もざっくばらんで、気に入る。M子ちゃんが来てくれる。ウレシイ。
9日(月) 学部入学式。露文科58名(内女子3分の1という) 少人数、一クラスなので、すべての点で、bonne(=good)である。
記念撮影後、解散。別に友だちは出来なかった。まだアセルことはいらないだろう。
なお、9日、学部入学式の始まる前の1時間、ASAHI EVENING NEWSの購読勧誘のアルバイトを手伝ってやって、200yenを得た。
これは生涯最初の"自己収入"だというのだから、意味大ありであったり、あわれであったり。
14日(土)早朝 床の中で (中略) 今日は新入生歓迎会があるので、行くつもり。
Rさんが気になる。どうしてだか分らない。複雑な気持ちだ。
Mチャンに手紙を書く。5日に書いてあったのだが、出すことができず、昨日また少し書き足して、今日出す。
いつまでもMチャンを放っておくわけにはいかないのだ。
Y先生からハガキ(2通)が来て、彼と彼女(前記のOさん)の関係は私の考えているようなものではないというのだ。
察するところ"約束"があるらしい。私がそれによって、大打撃を受けると人は考えるだろうが、
それほど私はユウズウのきかない人間ではない。(以後、略)
(この後、4月末に見事抽選にあたり、田無学生寮に入ることになる。……)
(以上、08年4月8日までの執筆)