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むりやりエッセイ 1月上旬号

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高槻訪問1「成人の日風景」
 前日、観光案内所でもらった市街地ガイドマップを頼りに、10時前お城跡を目指して歩き出す《次項に》。 よく晴れた朝、気持ちはいいが、風が強く、肌を刺す。風邪でもないが、マスクをすると、少し和む。
 メインストリートに出ると、その両側を色とりどりの和服姿の若い女性たち、おもにスーツ姿の若い男性たちが、 みな笑顔である方向に歩いている。
 ああ、今日は成人の日かと合点したが、彼らと同じ方向を歩む私は圧倒されそうである。
 二十歳、それは"大人"となる自覚と責任を"確認"する日か、それとも一生に一度? 晴れ着を着るための日か、 どうかは知らないが、傍観者としては親御さんのふところを心配するでもなく、目障りでもない。
 ゆっくり歩いている目の前に、あるホテルのマイクロバスが止まる。降りて来たのは若い女性が10人ほど、ホテルで着つけをしてもらい、 ここまで送ってもらうというサービスを受けているらしい。
 現代劇場とかいう建物が会場だと分かったが、すでにその前の広場や狭い歩道にも若者があふれ、寒空に熱気むんむんと、といった風情。 途中で、道州制を訴える、これまた若い立候補予定者が彼らに名刺を配って、売り込んでいる。 そうか、晴れて酒が飲め、タバコがすえるだけでなく、選挙権も行使できるのだった。

09・01・14追記:この“若い立候補予定者”は松浪健太内閣府政務官(自民党衆議院議員、大阪10区、当選2回、37歳)であった。 翌13日夜の衆議院本会議で行われた2008年度第二次補正予算案と関連法案の採決の際に退席したことで判明。 彼は辞表を提出し政務官を辞めている。

 翻って、わが成人式はどうだったか。40数年前である。一浪の後上京して、大学の寮に入っていた翌年のこと。 同輩は20人もいたが、現役に二浪のものもいる。誰と行ったか、覚えているのは管理人の一人息子だけである。
 今日の彼らのようにスーツ姿だったかといえば、そんなしゃれた時代ではなかった。 浪人時代から着ていた、緑色のジャンパーではなかったか、これも記憶はあいまい。 その日の写真もなく、記念にもらったのは苗字の入った印鑑だけだったような気がする。 机の中に、いくつかあるがこれも特定できない。
 ともあれ、酒が飲めるとか、タバコがすえる、などと思ったこともない。誰かが乱暴狼藉を働いた、ということもなかったようだ。
 選挙権の行使は、その春だったか、都知事候補にそれまで兵庫県知事だった阪本勝が出ていたので、一票を投じたが(落選)、 同時に行われた都議会議員候補の場合は誰が誰だか馴染みもなく棄権し、以後数年間、選挙には行かなかった。

高槻訪問2「城の跡あれこれ」
 この町にお城があることを初めて知り、翌朝ひとりで、どんな雰囲気だったのか確認しにいった。
 上記、現代劇場を少し過ぎたあたりに、広場や市立第一中学校がある。すでに城跡に入っていた。 中学校にしては敷地も広く、大きな校舎である。それらを囲む石垣は、さすが城跡らしいが、当時のものではないとすぐ分かった。
 その前を通り、城跡公園に入る。最初に目についたのが市政45周年、市民憲章制定10周年を記念してと、 市のライオンズクラブが寄贈した市民憲章の前文と五つの条文を刻した石碑である。 こんなことに目が行くのは、前日のシンポジウムの影響であろうか。
 しばらく歩く。あまり大きくない池のそばで、ハトに餌をやる老婦人、そのハトをおいまわす幼児とその祖母らしき婦人、 餌をついばむハトの群れの中をうまくハンドルをさばき、通り過ぎる自転車の若者は未成年らしい。
 少し行くと、3人ずれの成人式姿の女性が、会場とは反対の方向に歩いている。どうしてだろう? と思いつつ、声をかける場面でもなかった。
 古民家風の建物をのぞき、来た道を戻る。公園のすぐそば、中学校との間に、来る時は気がつかなかった大きな石碑があった。 「工兵第四師団高槻町部隊跡」とあり、裏面には「門出せる昔を偲び/ここに立つ/永久の平和を/ともに祈らん 昭和53年3月建立」、 その下に「在隊期間/自 明治42年3月22日/至 昭和20年8月15日」とある。
 いま、改めてインターネットで検索すると、「全国所在一覧」という平凡なタイトルがあった。 それは「戦争遺蹟 全国所在一覧」のことで、北から南まで全国で440件も記録されている。
 この高槻には3件あり、「高槻市城内町 城跡公園/工兵第四聯隊門柱と営門/門柱と営門」、「高槻市城内町 高槻第一中学校構内/工兵第四聯隊兵器庫建屋跡/建物」、 「高槻市安満御所の町/工兵第四聯隊 高射砲台跡/コンクリート基礎」とある。
 ちなみに、中学校は第二もある。その近くの芥川に沿ったところに、当時(昭和16,17年)「トロッコ列車(土汽車)」のレールが敷設され、 この第四連隊まで土を運んだ?というパネル写真4点が、第一中学校の近くにある「高槻市立しろあと歴史館」に展示されている(所蔵は淀川資料館の由)。
 さて、先の市民憲章の碑はともかく、「工兵第四師団高槻町部隊跡」のような記念碑を建立する意図は文言とは違うニュアンスにある、と考えたほうがいい。 反省であるように見せかけ、郷愁を誘う仕掛けである。
 すなわち、裏面の1〜2行目"門出せる昔を偲び/ここに立つ"…"門出せる昔を偲び"とは「兵隊として、ここから出征した昔を偲んで(ご苦労さんといいたい…)」ということだろう。 次の"ここに立つ"が「(そのために、あなたや私が)ここに立つ」ているからだ、と。
 一般に、碑はその文言のあとにある"建立"という表現のように"建てる"ものであって"立てる"ものではない。 単に、言葉遣いを知らなかったのか、それとも意図的に"立つ"にしたのかどうか。

高槻訪問3「ホテル事情」
 先の成人式諸嬢の送り届けサービスをする高級とはちがった、ビジネスホテルに泊まった私は、知らぬ間に、行方不明とされていた?!  それも東京にいるカミさんとの間で。そのてん末を……。
 その前に、二か月前に来たときの印象をいえば。…何十年ぶりかの母校訪問である。省線(現JR)高槻駅もさることながら、 その周辺も様変わりはなはだしく、その昔、商店街を通って、田んぼ道を歩いたイメージ忘れがたく、であったが、 駅で人待ち顔の芥川小学校の同窓会幹事らしい方に、「お宅のOBではないんですが」と断り、 「高槻高校へはどうやっていくんですか」と聞いた。手持ちの「高槻中学校入学案内」によると、 昭和30年ごろは高槻駅から徒歩15分だったが、いま20分と母校ホームページにあるからだ。 彼はいやな顔もせず、バスに乗りなさいと教えてくれ、母校にたどり着いたのは5分後ぐらいであったか、 という浦島太郎ぶりであった。
 さて、今回は時間もなく、昼過ぎ、タクシーを拾い、ホテル経由、母校行きとお願いする。
 ホテルは深夜12時までにチェックインすればいいことになっているが、母校へ行く前に荷物を置き、手続きをし、 初めて泊まるホテルの所在を確認するのは、私の安心のためでもあり、またホテル側にとっても、 いつ客が来るのか分からないというより安心であろうと思い、荷物を預け、カギを受取った。
 午後の4時ごろであったか。シンポジウムもそろそろ終りというところであった。ケータイが震えている、カミさんからである、 何ごとならんと、席を外して聞いて見ると、「ホテルの若い女性から電話があり、3時を過ぎても、あなたが来ないといっている。どこにいるの?」という。 私はカギも持っていると答える。
 カミさんはとりあえず安心したのだが、帰宅して聞いて見ると、もう一度ホテルから電話があり「12時までにチェックインをしていただければ結構です」と、 何をいまさらのことを言ったとか。
 当事者の私は、その小さなホテルが、どういう雰囲気かすでに知っていた。まず、ロビーは極端に狭く、人影がなかった。 受付カウンターの扉は閉まっており、その前に「キー(カギ)はこの中に入れてください」という郵便ポストのような箱が置いてあるだけ。 仕方なくエレベーターで2階に上がり、ドアの空いている部屋に向って声をかける。年輩の女性が出てきたので、用件を告げると、 1階で待っていて下さいとのこと。彼女は階段で下りたらしく、ある男性に「お父さん」と声をかける。 思わず、家庭的だなあ?! と直感する。
 "お父さん"は支配人らしいが、普段着に近い格好。私は名前を告げ、カバンを預かってほしい、12時までには入りますというと、 チェックインはそのときでいいとのこと…。
 夜、二次会も終えて、ホテルに戻る。受付には"お父さん"と違う、少し若い男性がおり、普通のホテルと同じように手続きをして、 料金を払い、レシートとキーをもらった。
 明日お帰りの際には、このポストにキーを入れて下さいといわれ、それ以来、だれとも顔を合わすことはなかった。 成人式の大群に出くわすまでは……。

(以上、09年1月13日までの執筆)


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