「病院の対応 2題」
大学病院は千客万来のためか、薬局や会計の窓口での事務的、機械的な対応はある程度やむを得ないだろうが、客の多くは病人である。
遊びに来て、世間話をしたいわけではないだろう。
ある友人は、しばらく放っておいた魚の目が痛み出し、その病院の外科外来で診てもらっている。
かなり頑固なものらしく、少しずつ削っていくしかないといわれ、2週間に1回行くそうだ。
見えない患部(足の裏)については、お医者さん任せで、たびたび頑固ですねえ、といわれながら、根気よく通っていた。
しかし、患者は変わらなくとも、医者は定期的に変わるらしい。
新しい医者になり、これまでと同じような処置を受けたあと、会計に行くと、いつもより500円ほど高くなっている。
肝心の右足だけでなく、左足の痛みについても聞いたからかなと思って、そのときは黙って引き下がったそうだ。
2週間後、以前と同じような処置を受けただけなのに、やはり500円ほど高かった。
納得できないので、会計窓口で「なぜそうなるのか、医者によって診療点数が変わるのか」と聞くと、
若い女性に変わって、年配の男性が出てきて「この点数のとおり計算しておりますので、間違いありません」。
「キミ、私が聞いているのは同じ処置なのにどうして医者によって点数が変わるのか、ということだよ」と、やや大きな声を出してしまったそうだ。
さて、結論はもうお分かりのことと思う。単なる医者の勘違いだったのだが、それを自分たちは間違っていないと抗弁するのは、
大学病院ももはや“お役所”でしかないということか、とは元公務員だった彼の慨嘆するところであった。
ついで、大は小を兼ねるというが、小は大と変わらないというお粗末の一席を!!
ある朝9時前、カミさんに頼まれて、近くの内科医院に診察の予約に行った。
あとで本人が来ますからと、受付の看護師(女性)に保険証と診察券をわたすと、すぐパソコンに向かい、何やら調べている。
カミさんのデータが出たのだろう、にっこり笑って「少しお待ちください」と別の部屋に入ったので、言われたとおり、待っていた。
先客はおばあさん一人、その前の大型テレビは地方都市で若い女性が殺されたことを報じている。
犯人は、そのとき初めて出会った若い男で、口論となりカッとなって殺したと自供している。
こんな事件を朝から大画面で見るものではないと思っていると、学齢前の少女2人を連れた母親が入ってきた。
件の看護師が出てきて、応対する。母親は前に受け取った診察券の名前が違っていると穏やかに言う。
看護師も「そうでした。すみません」と応対しているが、私は無視されている。
仕方なく「まだ、ここで待っているのですか」と聞くと、「ご本人様は、後から来るのですね」と平然として言うではないか。
最初の「少しお待ちください」はだれに向かって言ったのだろうか、それとも単なる職業的な条件反射であったのだろうか。
少し腹立ちを覚えたが、もちろん家に帰って、カミさんにはなにも言わなかった……。
「ああ、東京オリンピック!」その1
2016年に、再び東京でオリンピック開催をと、石原都知事を先頭に“関係者”は、張り切っている。
オリンピックはやっぱりオイシイ事業なのだろうか。
最近の“招致”報道はどうか。たとえば東京10日付「衆院/五輪決議案 採択見送り」につづく「『政局に使うな』/石原知事が批判」によると、
衆院で招致決議案採択が見送られたことについて、「同知事は9日、『(決議案採択を)政局の小道具に使うことは論外だ。ちゃんちゃらおかしい』と、
民主党の対応を非難した」そうだ。さらに「選挙のために(五輪招致に)反対するの? 恥をかくのは日本だ、民主党だ」とも言ったそうだ。
目下、候補として残った4都市の中で、最大のライバルはオバマ新大統領の住むシカゴだそうだが、
同知事としては招致支持率が他の都市より低いことにいらだちもあるのだとか。
ところで事情通によると、石原知事は先(07年)の都知事選では三選が危うかったらしく、急きょマニフェストに「2016年東京オリンピック招致」をかかげたらしい。
やはり、そんなところだったのか。その同じ人間が、「選挙のために(五輪招致に)反対するの?」なんて、よくも言ってられるもんだ?!
一方、“百年に一度の大不況”(アソウ首相のキャッチフレーズ)だから、公共事業で雇用状況を改善するため、
オリンピック招致もよいのではという“跡付け論理”も市民感情にはあるようだ。
ところで、この問題に関し、私は一昨年2本、昨年3本のエッセイやコラムを書いている(以下に抜粋)。
『二重の、やらせ?!』
(前略)わが国に目を転ずると、“日本橋に空を取り戻そう”キャンペーンは、オリンピックをもう一度東京でという都知事の動きと連動し、
前の東京オリンピック(1964年)のためにつくられた首都高速道路を、今度は同じ名目で壊そうという話である。
日本でのオリンピック開催の実現性は薄いといわれる状況下、工事は進められるであろうことは目に見えている。
すなわち、関係する産業界・経済界が潤うだけでなく、利権の欲しい政治家も潤うためであって“日本橋に空を!”は、後からつけた理窟であろうからだ。
(後略) (07・01・30)
『早くも混迷?! 都知事選挙』
(前略)3選を目指す現職のオリンピック知事(74)に対抗する、(中略)にわかに名乗り出た世界的な建築家の黒川紀章(72)の魂胆は奈辺にあるのだろうか。
新聞報道などによれば、現職知事とは長年の友人だが、彼が「出馬を取りやめない場合に出馬する」といい、「いい終わり方をしてほしい」のだそうだ。
また、公約として、都が進める2016年夏季五輪招致の中止や首都機能の一部移転を積極的に支援することなどを掲げている。
無所属で出馬し、当選しても任期は1期のみで、無給で務めるという。
突然の出馬宣言について「現知事を応援する気持ちに変わりはないが、大規模開発を当てこんだ五輪招致や側近政治など弊害も目立つ。都民の意思に反している」と説明する。
(後略) (07・02・27)
『“参加”に異議あり?!』
(前略)要するに、追っかけ(ファン)心理は、宝塚のスターでも聖火リレーでも何でもいいのかもしれない。
つまり、動くものに興味をもつ子犬のように。
心配性の私は、石原都知事が躍起になっている2016年の再び、イヤ三度目(幻の五輪:1940年、戦争で中止に)の東京五輪が、実現しないことを切に願ってやまない?!
(後略) (08年4月23日朝、追記)
『北京五輪2 煽るしかない…報道編』
(前略)閉会式では、東京新聞08・26「北京、閉会式も人口消雨/ロケット241本 空中散布14.5トン/中国紙報道」とあり、これも国威発揚の一つであろうか。
しかし、現実は同じ面の上にある記事「株価下落、物価上昇、輸出低迷/五輪後中国に暗雲/経済失速 体質改善には時間」がかかりそうだとある。
やはり、この二の舞にならぬよう、2016年の東京五輪は、やらないほうがよいのでは…。(08・08・26)
『北京五輪3 期待過剰で裏切られ…国民編』
(前略)オリンピック精神は「参加することに意義あり」といったのは近代オリンピックの創始者クーベルタン男爵だったが、一方で国別対抗だけでなく、
(ゼネコンやそのおこぼれに預かる政治家などが)商業主義の権化と化しているのは「2016年の五輪を東京で…」と唱える“真意”にも現われているではないか。
(08・08・26)
「ああ、東京オリンピック!」その2(回顧編)
その昔1964年10月、東京でオリンピックが開催された。22歳の私は母校がフェンシング会場に使われ、休校となったため、友人と北海道旅行を企てた。
「オリンピックというものを、日本で、東京でどうしてやらなければならないのかという気持があった」からだ(拙稿「個人的な北海道文化論−道南地方旅行記−」(抜粋)より、以下同じ)。
その顛末はどうだったか。
<10月10日 函館>
その日、私たちの留守にして来た東京では、オリンピックの開会式が行われたのだった。
ずっとずっとオリンピックは、私には無関係のものだと思い、またそれが当然のこととして考えていた。
そして、東京を離れて北海道まで来れば、その騒がしさから逃れられるものと考えていた。
ところが、いざ開会式だといって、みんながテレビにかじりついて見始めると、故障であまりはっきりとは映らなくとも、
刻々と時間が過ぎてゆくにしたがって、私の心も興奮の度を増すのであった。
<10月11日 いよいよ道内旅行・苫小牧>
テレビは、相変わらずオリンピックをやっており、夫婦喧嘩も恋のささやきも、まずはオリンピックが済んでからと、万事休戦の格好である。
不思議なもので、日本の選手が出てくると大いに気になる。こういう感情が未だ、残っているのは尊重すべきなのか、悲しむべきことなのか。
*私は、東京もオリンピックもそれからすべてのものと、ほんの少時でも訣別するために旅に出たのだ。それ以外の何ものでもなかった。
そういう気分でいるときに、オリンピックという、全く異質の、全く場違いのものを押し付けられたのでは、
私の尊厳も何もあったものではない。
*オリンピックを耳にすることは、私を現実に、東京の片隅のみじめったらしい下宿の一室に、寒く空腹でいる、いつもの私に否応なしに引き戻すことなのだ。
*(サッポロビールを飲みに行く)狸小路。明るいアーケードの下に、東京でも見た万国旗がずらりと垂れ下がっており、
しかも“歓迎'64東京オリンピック”という看板には驚いてしまった。どうして遠く離れた北海道のこの地までも、“歓迎”しなければならないのだろうか。
一つぐらいソッポを向く処があってもいいではないか。どこもかしこも、なぜ一体感ばかり求めるのか、私には割り切れなかった。
<10月12日 ホテルと名のつく宿で>
仕方なく、テレビを見に行く。こんな山奥にもテレビがあるのだから不思議だ。例によってオリンピックだ。
客に交じって宿の女中がだいぶ見ている。何でも、二百人いる女中さんより客の方がだいぶ少ないというのだから、たいそう暇なわけだ。
だが、客と一緒になって見ているというのは、普通では考えられないことだ。
*私は、前にバスの中でのオリンピック中継について面白くないと言った。
そしてここでは、その反対の態度をとろうとしているのを不思議に思われるかもしれない。
たしかに私はNHKの力の前に屈したわけだが、こういう室内では、もはや北海道も東京も区別がつかなくなったということを思い知らされたのだ。
*これほどまでに、オリンピックが執ように私を追いまわしてくるとは、夢にも思わなかった。
私は何か悪いことでもしたのだろうか。お蔭で、私の北海道に対する気持がだいぶ薄められた格好だ。
*レスリングで、金メダルを3個獲得する。日本は、競争となると陸上でも水上でも到底、他国に太刀打ちできないが、
相手にしがみついて死んでも離さないという、スッポンのような競技には強いようである。これが、大和魂であり、根性というものなのだろうか。
<大沼へドライブ 10月16日>
S君との約束があるものの、寝たいだけ寝ようと思って、自然に目が覚めるのを待っていたら、10時過ぎになってしまった。
天気は少し曇っているようだが、大したことはなさそうだ。遅い食事をひとりでして、テレビを見ながらのんびりする。
フルシチョフの解任が報ぜられていた。中国の核実験も初めて行われて、オリンピックと相まって、このごろの世界は実にあわただしいことだ。
<18日 連絡船でも、いろいろと…>
私は素知らぬ顔で、ここにしかないテレビを横目に見ていた。この日は、水上で日本が最後の最後に銅メダルをとった。
誰からともなく、よかったという声がもれる、よかったですねと私は答える。
後は、今年とれたばかりの干しイカを、甘くかんでいれば、この船の長旅も終わるのであった。・・・
(以上、09年2月10日までの執筆)