「出版界の“巨人”」その1
去る5日、帝国ホテルで行われた前小学館社長相賀徹夫さんの「お別れ会」に行って来た。
亡くなったのは昨年12月のことで、告別式には参列したいと思っていたところ、多数の方が来られると予想されるため、
早めにお越しいただきたいという趣旨の“招待状”が届いた。
“招待状”をいただくほど懇意でもないと思ったが、とにかく献花だけでもしたかった。
前日は雪混じり、翌日は雨という寒い中、当日はよく晴れ、いいお別れの会となった。相賀さんの人徳なのであろう、と思う。
ホテルに近づくにつれ、手に同じ紙袋を下げた人たちが地下鉄の入り口に向かっていた。
ああ、もうお別れを済ませたのかと思いながら、ホテルの会場に入る。
笑っている相賀さんの柔和な写真は遠くから見えるが、大勢の人が並んでいて、献花台までなかなか進まない。
やがて、一列12人ほどが並んでお辞儀や合掌を終えると、出口に向かう通路で女性たちから清めのお絞りが渡され、
喪主の現社長が控えている前で、目礼をすると、自動的ににぎやかな部屋へと吸い込まれた。
先ほどと打って変わってにぎやか、多くの人が入り乱れ、あちこちに置かれた小さなテーブルを挟んで、飲み物を手に談笑している。
私は家を出るとき、昼食は外ですると言ったぐらいで、ここで“飲み食い”することなど、まったく頭になかった。
それだけ世間が疎くなったのだろうかと、少しさびしかった。圧倒的に多いのは出版関係の男性だが、
あるテーブルに座っているのは瀬戸内寂聴とデビ夫人であった。
私も白ワインを片手に、小学館や講談社の方と話をしたり、すれちがう何人もの方ともあいさつをした。
ワインのお代わりを持ってきてくれた演劇を目指しているバンケットの女性には、
パーティ会場での眼の配り方などの講釈?をたれて、盛んに感心されてしまった。
話もどって、壁に掲げられたパネル写真は、故人の幼少時代から晩年に至るまで、要領よくまとめられていたが、
中でも感心したのは、戦中、軍に献納した航空機「小学館号」を背に、幼い相賀さんが創業者である父親や関係者と一緒に収まっている写真を掲げていたことである。
今それを隠してもだれも咎めないだろうが、当時は子供も大人も、企業も陸海軍に献納するのは当たり前のことだった。
一人の人生の“ドキュメント”として表出したのは、“事実”を重んずる出版人としては当然のことだったのだろう。
年表によると、ご当人は1944年、19歳となった6月、陸軍特別操縦見習い士官を志願、陸軍宇都宮飛行学校に入隊、とある。
(父親はすでに38年、41歳で他界し、後を母親が継いでいたが)翌45年敗戦ののち、任地の北海道より復員。10月、代表取締役となっている。
東大を中退して、後を継いだと聞いていたが、東大(文学部宗教学科)入学は46年のことで、中退は47年7月とある。
以来、92年相談役に退くまで、陣頭指揮を執っていただけでなく、出版業界の発展に多大な寄与をした方である。
蛇足だが、私は13年3ヶ月勤めた雑協を95年末に退職するが、12月28日、最後にごあいさつに伺ったのが、相賀徹夫さんである。
お世話になったお礼を申し上げると、文鎮を下さった。
後年、上梓した拙著をお贈りしたこともある。その前いつだったか、知人と入った小さな飲み屋に、相賀さんがひょっこり一人で現れたこともあった。
そういえば、就職にあたって最初に面接を受けたのも相賀さん(ともう一人K社の社長)だった。
「お酒は?」と聞かれて、「少々たしなみます」と口にしたところ、「一升ですか、二升ですか」と切り替えされたことを思い出す。
「出版界の“巨人”」その2
(承前)40歳のとき、縁あって雑協(日本雑誌協会)の事務局員となった(1982年10月)。
“40歳前後”を求めていたらしいが、私がそれに当たった、というわけである。
当時、会員は60数社だったが、事務局も小人数で、さまざまな仕事をこなしていた。
理事会には各社の社長が名を連ね、また大小いくつもの委員会があり、彼らの多くは委員長を兼ねていた。
その社長や役員の言動に接して感じたことは、みな一家言を持っており、大人であるということだった。
一方、学生時代から出版社でアルバイトをした、作家の事務所にいた、月刊誌記者の経験などもあるとか、
年はそれなり食っていても、私は若造である。
彼らの謦咳に接するにしたがって、幾人かは“巨人”に見えてきた。
こういう人たちの下で仕事ができるという、うれしさとか、勉強になるという生きがいを感じてもいた。
小人数にもかかわらず、サボりたい一心の上司のもとで、何でもやらされた。
何とか委員会の役割や委員の顔と名前と所属会社を覚えながら、私の存在も認められるようになった。
これが因で、上司が私を警戒するようになり、おかしなことが続くのだが、いまその話には触れない。
その“巨人”をあげると、今井田勲(文化出版局)、相賀徹夫(小学館)、大久保利通(秋田書店)、熊井戸立雄(婦人画報社)、
小松正衛(文藝春秋)、田中健五(文藝春秋)、千葉源蔵(文藝春秋)、徳間康快(徳間書店)、野間省一(講談社)、服部敏幸(講談社)、
堀内末男(集英社)、山口勘三(講談社)、吉田五郎(学習研究社)の諸氏であろうか。
これは、強いて選んだというものではなく、私が接しての印象あるいはその識見から、“巨人”にふさわしいと感じた方たちで、
委員長や委員でも親しく接した方は入っていない。
すべてが社長(会長)ではないようだし、編集より営業関係の方が多いように思う。
自著を出している方もおられた。ある方から、パーティの席で、箸の持ち方がきれいだといわれたこともある。
懐かしい方々を思い出させてくれたのは、相賀さんのおかげであろうと思う。
なお、“巨人”の別格として、布川角左衛門先生(岩波書店OB、出版倫理協議会初代議長)を忘れてはならない。
私は布川先生に関して、次のような文章を書いている。
(1)人と業績「青少年育成国民会議」/「東京都青少年健全育成審議会」(日本出版学会編『布川角左衛門事典』日本エディタースクール出版部1998・01)
(2)「布川先生と出版倫理活動」について(日本出版学会会報97号「会員便り」1999・5・10発行)
「出版界の“巨人”」その3−勲章を欲しがる人、断わる人−
世の中には、いろいろな方がおられる。地位に恋々とする人、恬淡な人。
社長から会長になってしまうと、ほとんど会社ですることがなくなるのであろうと想像する。
そして、暇を持て余した挙句、考え付くのは“勲章”であろうか。
昔(戦前)は軍人をトップに、役人(官吏)、財界人が対象であったか。
生前叙勲は昭和30年代からだが、一般に70歳で叙勲の対象になるようだ。
さて、先の相賀さんは「勲章を欲しがらないので困った」と述懐する人がいた。
これだけでは意味が分からないだろう。かつて、サルトルはノーベル賞を辞退したし、大江健三郎はノーベル賞を受けたものの文化勲章は断わっている。
どんなものでも、貰うも貰わないも個人の自由である。
問題は勲章を欲しがる人と断わる人がいるだけでなく、目に見えない“前例”が曲者なのである。
叙勲は個人あてだが、業界を牛耳るのは監督官庁である。霞ヶ関には序列がある。
文科省(旧文部省)は、三流官庁といわれるほどに序列は低い。叙勲にあてはめれば、官庁間で数少ない勲章(位階も)を分け合うため、
おのずから文科省分は少なくなる。出版は文化庁(文科省)管轄であるが、奪い合う業界が多く、“順番”もあり熾烈になるわけである。
しかし、欲しい人は、何とかして「欲しい」という。
少し古い話だが、Aさんは「勲三等」だったから、私もそれが欲しいと、事務局に言ってきた。
上司は“業績”を並べた書類を作れという。作成する一方で、その社の担当者にそれとなく耳打ちする。
先のような事情だけでなく、オーナー社長かそれに準ずるものは有力だが、サラリーマン社長では低いものしかもらえない。
数年前に勲一等をもらった人は著名な出版社の社長であり、かつ他の業界の理事長なども勤めている。“合わせて一本”であると。
それでも、「勲四等」ではダメだと何年も待っていたが、諦めてそれをもらったようだ。
もう一人、私が辞めた後だったが、部下の人から何とかならないかと相談を受けたことがあるが、私の説明は同じ、その後どうしただろうか。
他の場合で言えば、政界にも顔の広い人が勲二等をもらった。書類を作ったのが私の友人だったので、一等をもらえなかったのは、
君のせいだと冗談を言ったことがある。ことほど左様に勲章は有り難いのである?!
ところで、生前叙勲という一方で、死亡叙勲もあると知ったのは、わが長兄(地方公務員)が死んでしばらく経ってから。
訪問すると、仏壇のそばに“勲五等”だったかの賞状が飾ってあったからだ。地位や名誉などにこだわらなかった兄なのに、
なぜだろうと想像して気がついたことは、役人の世界だからではなかったかと。
彼らは“前例主義”で、その運用は一般市民が何かを提案しても「前例がない」と一蹴する。
では、何もできないかといえば、そんなことはない、彼らは“前例”を作れるのである。
(以上、09年3月10日までの執筆)