むりやりエッセイ目次

むりやりエッセイ 3月下旬号

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「休肝日」40歳前後のころ(1)
 いつごろから、言われだしたのだろうか。酒(アルコール類)を飲まない日を称して“休肝日”とは?
 私の場合、実行し始めたのかいつか定かではないが、いま、古い3年連用日記をめくっていると、 日記をつけ始めた1982年(S57)からのデータがある(39歳7月〜42歳7月)。 細かくは、前年末にも休肝しており、表の欄外に12/29(?)と記している。
 1982年…1月4回(4,6,22,31)、2月4回(6,7,11,25)、3月2回(21,22)、4月2回(24,25)、5月4回(2,3,5,21)、 6月1回(13)、7月2回(7,17)、8月2回(8,17)、9月2回(4,23)、10月3回(3,11,16)、11月2回(7,23)、12月ゼロ…計28回となっている。 あまり法則性もなければ、勤勉さも感じられない。
 翌83年…1月4回(7,15,23,30)、2月2回(8,27)、3月4回(6,25,26,27)、4月ゼロ、5月ゼロ、6月4回(15,25,26,27)、 7月3回(7,17,20)、8月3回(6,16,28)、9月3回(3,15,25)、10月8回(7,9,12,16,19、22,27,31)、11月9回(3,13,19,22,23,24,26,28,29)、 12月12回(2,3,5,8,9,14,17,20,25,26,29,30)…計52回であった。
 これをみて、年末の3か月で29回と半分以上であり、「毎月平均3日に1回の休肝となっている」といえば、 厚生労働省あたりの“発表”と同じ発想で、意味がない。
 たぶん、この3か月は飲みすぎがたたり、やむなく休肝せざるを得なかったのではないか。 詳細はその日その日の項に書いてあるのだろうが、いま読んでも“へど”が出そうだから、やめておくのが健康的だ。
 しかし、さらに3年目(84年)はどうかと、よく見なおすと2年にまたがった記録があった。 すなわち83・12・30〜1・1と3日間、休肝していたのだ。
 84年…1月10回(8,9,10,11,12,13,16,19,24,28)、2月8回(2,4,5,9,11,14,19,29)、3月8回(4, 10,11,16,17,18,29,31)、 4月4回(7,8,14,22)、5月7回(1,3,13,14,19,26,27)、6月5回(2,10,16,23,26)、7月1回(28)、8月1回(31)、9月4回(8,9,16,30)、 10月4回(6,10,14,20)、11月2回(3,20)、12月2回(1,20)…計56回である。 回数は前年とあまり変わらないが、1月の“6連休”はどうしてなのだろうか。
 その前に、さきほど「意味がない」と自ら言った前年後半の3か月に続く84年はじめの3か月を見ると、 29+3+26で58回となり、かなり七転八倒していた?ようで、いま確認する勇気を持たない。
 当時は若さにかまけて量多く、時間長く飲んでいたのであろうが、年輪を重ねるにしたがって、酒量が落ちたのか、 体や脳がセーブするのか、アルコールに馴れるのか、あるいは麻痺してきたのか、悪酔いなど少なくなったように思うが、これも定かではない。
 ともあれ、多くは飲みすぎ→悪酔い・二日酔いなどによる“後悔”や“謹慎”という休肝であったようだ。

「弓道」40歳前後のころ(2)
 ちなみに、前年81年4月から近くの道場に通いはじめた弓道は、いつ稽古をしてもよかったが、 私は不定期でいくつか出版関係の仕事をしており、勤勉ではなく、なかなか腕も上がらなかった。
 たとえば、5月1日、弓(2)回目:初めて巻ワラに/5月28日、弓(6):初めて的に向かう2手×3回/7月9日(17):12中ゼロ/9月13日、 月例射会に初出場(10中1)/10・4日、道具を買う/10月6日、初めて袴などつける、カケも自分のもの/11月15日、初段となる(八王子) /12月6日、月例射会(10-3)/12月10日、右手の注意(K先生)/12月12日、押し手の注意(M先生)/12・20日、調布府中合同納会(10時、射はせず、餅つき・うどん) /12月27日10時、道場すす払い〜5時、K先生(4段)とすし屋へ
 そして、82年は1月3日10時、新年初射会(6射-2中,17名で7位)。3時ごろまで酒を飲む(景品・千円以上) /1月7日、弓をやっている“証拠写真”を撮ってもらう/1月15日、月例射会(10-4)、初段免状と金一封(千円をもらう、気分よし) /2月14日、月例射会(10-3)/2月18日、弦が切れる/3月14日、射会(10-2)。その後K先生とすし屋で酒を飲み続ける(カミさんが迎えに) /4月11日、休み、手が痛くて弓が引けず/5月1日、弓2-4時、女性多し…などとある。
 これでは、弓の稽古に行っているのか、K先生と酒を飲みにすし屋へ行くのが目的だったのか判然としないが、 元出版社役員だった先生は、話が合うのか、私を可愛がってくれ? 単行本の仕事もまわしてくれようとしたが、それは不調に終わった。
 この弓をいつまでつづけたか、82年5月16日に2段の試験に不合格となったあと、 6月2日の日記に「久しぶりに、弓へ行く。IさんとKさんだけであった。暑い。 年会費(カミさんと2人分)12,000円を払う。図書館により、本3冊借りる」、 7月18日「午前中、弓、2か月ぶり? M先生ほか。2時間ばかり、汗びっしょりかいた。左手のカワはがれる」などとある。
 それまで、私は79年7月から約3年間、講談社『現代』(月刊)の取材記者などを務めていたが、 82年6月末、ノンフィクション『父は祖国を売ったか―もう一つの日韓関係―』(日本経済評論社)を上梓し、その“宣伝活動”でも忙しかった。 その後、サラリーマンにならないかと電話を受けたのは8月下中のこと、10月から社団法人日本雑誌協会の事務局に勤めることになる……。

「お釈迦様の掌の上で」40歳前後のころ(3)
 (承前)「書くことが好きだった」といってしまえばそれまでだが、母親に言わせると 「小学校へ上がる2,3か月前、父や長兄は私に一所懸命に字を覚えさせようとしたが、少しも覚えようとしなかった」そうだ。
 最初の夏休み、「絵日記」を書かされるのだが、これは“絵”を描いて、それについて説明するものと思い、 「今日は**をかきました。」の連続であった。
 小学3年1学期、転校した静岡県の学校でも作文を書かされたが、4年の時には郡の大会には出られなかった。 それでも、大阪に遊びに行ったあと、勝手に見聞記を書き、父には一応ほめられつつ、ずい分アカを入れられた。 5,6年では学級新聞など、ガリ版で作っていた。長年教師をしていた父は「うちは国語が得意なんだよ」とも言っていた。 ついで、大阪で学んだ中学高校では新聞部に属し、取材原稿だけでなく“論説”も2本ほど書いた。
 一時、大学を出たら新聞記者になりたいとも思ったが、不勉強のうえ、不況の時代で就職先はなかったところ、 3月31日、在学時代に冬季2シーズン、販売部でアルバイトをしていたS出版社から下宿に電話があり、明日来るようにとのこと。 今度は出版部でのアルバイトで、小さな字典作成の仕事などをしながら、7月だったか、中途採用の試験を受け、役員面接までいったが落ち、 9月半ばに辞めて、大阪に帰ってぶらぶらしていた。
 その11月、縁あって作家の事務所に助手として入った。 再び上京し、以来東京に住み着くのだが、助手の仕事は多種多様、取材もすれば、車の運転もする、山荘にもついていくなど、 師の亡くなるまで8年半、そのそばにいた。その交際範囲(執筆する多くの出版社の雑誌に新聞などを含む)も広く、 そういう環境で私はさまざまなことを学んだ。
 師の急死のあと、K社が創刊した夕刊紙に入り約1年7か月、編集・総務・経理を経て、編集プロダクションを作るという話に乗り、 その社を辞めたが、話は一頓挫。しかし、その縁である人物と出会い、のち前記『父は祖国を売ったか』を上梓する。
 その間(79〜82年)、お世話になった出版関係は、講談社を筆頭に、角川書店・ダイヤモンドビッグ社・情報センター出版局・勁文社などのほかいくつかの編集プロダクションであった。
 その先のことは前項で簡単に記したが、53歳のとき13年3か月で月給取りを辞めたあと、日本出版学会の会員になったり、 日本エディタースクールの講師などを務めることになる。
 “字を覚えなかった”少年が、いつしか“出版”あるいは“出版界”という大きな世界へとつながり、ずっとそこにいたことになる。 まるでお釈迦様の掌の上で踊っているような状態であったのかなと思うことしばしばである。
 《余談だが、出版学校日本エディタースクールの後援団体は日本書籍出版協会と日本雑誌協会であるが、それは出版界でも、ほとんど知られていない》

(以上、09年3月24日までの執筆)


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