乗せられた話

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1969(S44).7.6 橋本健午

「大分待たはりましたか?」
 車に乗るなり、運転手が声をかけてきた。最終の「ひかり」で、新大阪駅に着いたばかりの私は、 思わず、「ええ、十分ほど……」と答えていた。
 その日は、東京も雨、大阪は小雨から、タクシーの順番を待っている間に、雪も混じってくる始末だった。
 天気具合と同じで、私は一日中憂欝だったが、そんなことにはお構いなく、車は快調に飛ばし始めた。

 男は見ると、まだ三十代の後半か、あるいは前のほうが幾らか禿げ上がっているのを除けば、案外若いのかもしれない。
「日帰りでっか?」「いや、そうでもないけど……」「えらいですなあぁ」
 男は、私の返答を、どうとったのか、感慨深げに、語尾を長くして言った。
 車は、曽根崎警察の前を通って、梅田新道を通り過ぎる。
 もう十二時をまわっていた。 処々にタクシー乗場があって、客が何人も並んで待っているのだが、なかなか止まる車はない。
 目の前の男に、興味を持った私は、乗車拒否について、意地悪な積もりの質問をしてみた。
「あんな雨の中で待っている人を乗せなくて、良心が咎めませんか?」
 男は、直ぐに答えた。
「お客さん、考えてみなはれ。何十人並んで待ってはったかて、一番前にいるのが、ヤクザやったら、だれかて、通り過ぎますわ。人情でっせ」
「奴らは悪いわ。車は汚すし、ええ気で待たすし。メーター倒したら、えげつないことすな、もっと負けろ、言いますねん。どっちがえげつないか」
 男の言い分も、尤もであるが、私の質問には、まともに答えていない。

 国道26号に沿って、浜寺まで行く。約四十分位乗るわけだが、下手な車に当たると、乱暴で生きた心地がしなかったり、 まったく不愉快な目に遭ったりする。
 今夜はそうでもなさそうだが、一風変わっているのもたしかである。

「お宅みたいな商売やっていると、いろんな人に出会うでしょう。何か面白いこともあるんじゃないですか」
 男は、直ぐに答える。
「お客さんの仕事が何や知りまへんけど、何やってたかって、いろんなことがおまっしゃろ」と。
 これでは、話にならない。仕方なしに、私は、「酔っ払いの客は?」と水を向けてみた。
「女の酔っ払いが、いちばん困るわ。この間も、中年の男と、その二号さんらしいのを乗せましてん。 女が、えろう酔うとる。アパートの前までくると、男がなんや知らん、女をパンパンとひっぱたきよるんですわ。 女は、転げ落ちてしもて、パンティも丸見えや、往生しましたでえ」
「そんですんだかと思うたら、おっさんが、済まんけど、二階まで運ぶのを、手伝うてくれ、言いますねん。 わしかて、しゃないと思うて、持とうとしたんやが、はて、脚を持ったものか、頭のほうを持ったものか、考えましたで」
「え、何でかて? そやないか、お客さん。脚のほう持ったら、パンティ丸見えやし、頭のほうやと、オッパイ触らにゃいかん。 どっちにしたかって、おっさんに悪いやないか。な、そうでっしゃろ、わしも、人がええなあ、思いましたわ」
「ま、それで、脚のほうなら、そんなに悪うないやろ、思うて、持ったんやが、そのおっさん、悲しいかな、二号は持てても、 その体までは持てへん。なんせ、正体なしやからね、重たいわ」
「おっさん、代わってくれて、言うもんやから、しゃない、覚悟して、頭のほうを持つことにしましたわ。 頭いうたかて、持つとこは、両方のオッパイや」
「頼むいうから、手伝うてんのや思うて、これも何かの縁やら、役得やらしらんけど、オッパイのところを抱きながら、 つい揉んでしまいましたがな」
「おっさんは、危なっかしい、急な階段を、脚のほうを持って、先に、必死になって上ろうとしとるわ。そら、そやな。 こんなとこ、他人に見られたら、格好悪いがな」
「そやから、わしがオッパイ少々弄んだかて、知りよらへん。それでも、眼覚まさへん女て、大したもんでんな。 あの後、どうしたやろか」
「重たかったけど、グラマーで、ええ女でしたわ」
 男の話は、そこで一段落した。

 いろんなことを澱みなく喋るのだが、時々どこかピントがずれている。 人が悪いわけでもなさそうだが、いささか持て余して、しばらく黙っていると、
「商売は、繁盛してまっか?」と訊く。
「まあまあ、だね」「そうでっか、それはよろしいなあぁ」。また、語尾を長くして言った。  私が、何者で、何をやっているか知っているはずもない。
 以前に、東京で同じように、タクシー運転手に訊かれたことがある。
 暮の二十九日で、官庁は、前の日で御用納めである。夜も大分更けていた。
「今日で、御用納め?」「そう」「いいですなあ。わしらには、暮も正月もないんですから。ご商売は?」
 私は、そう言われて、一瞬、返事に困った。というのは、"作家助手"という職業名が、非常に珍しいからである。 いや、珍しいというより、耳慣れない言葉で、変に興味を持たれると、五月蠅いからである。
「会社ですか? 個人の店ですか?」「個人」「へえ、どんなご商売?」
 この男は、よほど暇人(ひまじん)と見えて、かなり執拗である。
「……物書きの助手」「物描き? はあ、どんなものを描くのですか」
「そうねえ、いろんなもの」「看板とか何か?」
「ええ、まあそんなところかな」「ああ、ペンキ屋ですか」
 とうとう私は、ペンキ屋の助手にさせられてしまった。
 尤も、個人で、物かきなら、ペンキ屋だって不思議ではない。助手を持つとしたら、ペンキ屋のほうが、より必要だろう。

 今日は、ペンキ屋にはされなかったが、「学校出てから何年目?」という問いから、話は、思わぬ方向へ行ってしまった。
「三年目」「大学では、何を専攻されました?」
「文学……」「先生の免状は、取らはらへんかった?」
「ええ、怠け者ですからね」「ほう、それで何文学でっか」
 このときも、当たり障りなく、言えばよかったものを、つい、「ロシア文学」と答えてしまったから、いけなかった。
「ロシア文学でっか。あの何とか言いましたな。ええと、ショローホフ、何とかドンちゅうのを書いた……」
「ああ、ショーロホフね。『静かなドン』のことでしょ」
「そうでっか。ショローホフの『静かなドン』ですか。あれは、よろしおましたな」
 私は、正直言って、ギョッとしてしまった。まさか、タクシーの運転手から、文学の話を持ち出されようとは思ってもいなかったからである。
「あれは、あれを思い出しますなあ。ええと、女の人の、何とかミッチェル……」
「マーガレット・ミッチェルは、『風と共に去りぬ』ですか」
「そうそう、それ。お客さんは、どう思われました、あの二つの作品を読んで……」
 恥ずかしい話だが、私は『ドン』を読んでいないので、まともに答えられなかった。 しかし、話は、だんだん難しくなり、男は、ますます熱を帯びてくるようである。

 私も、負けてはならじと、
「運転手さんは、前に先生でもやってらしたんですか?」と訊いてみた。
「わてでっか? わてが、何の先生やれますねん?」と、それ来たか、というジェスチャーで、大きな声を出した。
「いや、その、人生の教師とか……」「へへ、そんな柄やおまへん」
 道のりは、ようやく半分を過ぎたぐらいである。
 苦し紛れの私は、いい加減逃げ出したいところだが、男は一向に早く走ってくれない。悠然としている。
 ハンドルを握りながら、文学の話だから、ずいぶん優雅な運転手である。
「日本のものは、だれが好きですか」「現代のは、あまり読まないねえ」
 私は、あくまでも"流行作家とは無縁"の顔をしているから、辛いところである。
「すると、明治か、そこらの」「そうですね。漱石が好きだった」
「『三四郎』というのが、おましたな。あれは中学の頃やった。てっきり柔道の小説やと思うて読んだんやが、 さっぱり姿三四郎は出て来えへん。出て来るのは、池ばっかりや」
 この男、真面目なのか、惚けているのか分からないところがある。
「それから、『虞美人草』は、読まはりましたか」「中学時代に読んだので、よく覚えていないんだけど……」
「みな中学時代に? えらいませてたんやなあ……。しかし、何で自殺したんやろ」「……。『こころ』の先生は?」
「あれは、友達の奥さんをとった話、殉死ですな。漱石といえば、鴎外を忘れられませんな」「鴎外も、いいですね」
「この辺の話がありますなあ、何とか舟。わても、よう度忘れするわ」「『高瀬舟』ですか」
「鴎外ちゅう人も、偉い人やったなあ」「随分本を読んでるんですね」「好きなんやな、結局は」
「しかし、文学なんて、一種の遊びでしょう。書くほうは、書くだけの余裕があるわけだけど、 読むほうは、読んだからといって、直ぐに腹が膨れるわけではないし……」
 私は、意識的に、話を逸らしてみた。
「そんなこと、おまへんやろ。文学は、わしが思うには、読んだら、その人のヒストリーになると思うね。歴史や。 読むことによってヒストリーがでける、それで、ええんとちゃうか」
 ヒストリーなどという言葉が、こういうところで、ひょいひょいと出てくるのは、まったくの驚きである。

 この男について、まだ一つ特異な話がある。
 タクシーの運転手は、一日中走っているのだが、誰でも食事と、小用を足さないわけにはいかない。
「わしの好きなところは、大阪城ですねん。案外きれいなトイレで。そこで、まず大をするわけですな。 そしておもむろに、飯を食いにいく。最後に、歯を磨く……」
「ええ? すると、出して、入れて、きれいにする。まったく合理的ですね」
「そう、アメリカ的、かいな」「それを、何年も?」「何年も。気持ちええでっせ」
 これには、返す言葉もなかった。

 目的地まで、もう少しとなった。降りるまでに、何とか一泡吹かせてやりたいものだと考えていると、男は、また口を開いた。
「お客さん、まだ独身者(ひとり)でっか?」「ええ、まだ」
「そろそろやな。結婚かて、ヒストリーでっせ、二人の……」「はあ、なるほど。今は、幸せですか?」
「わてでっか? そりゃもう……」「いいですねえ。あ、そこのところを左に曲って真っ直ぐ行ってください」
「それから?」「もう少し行ったところで止めてください」
「どうも、おおきに。お疲れさま。こんど縁があったら、また乗ってやってください。ゆっくり文学の話をしましょう」

 釣り銭もそこそこに、私は車を降りた。いつの間にか、空は晴れて、星が輝いている。なぜか、この四十分間は、私にとって、実に長いヒストリーであった。 (了)


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