”書くこと”*遠敷小から岡崎小へ(一部)
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〔「忘れないための自叙伝」…私が19歳の大学浪人時代、母トワに聞いて記録した、大連や引揚げ後に経験した数年間の情景より3項目と。
その小学1〜3年生のころに書いた作文など。ついで《 》内に、説明を付した(2008・05・06 橋本健午)〕
1、入学前、ほとんど文字を知らなかった
私も小学校へ上がる年齢になった。1949(昭和24)年4月に入学するのだが、その2,3か月前に、父や長兄は私に一所懸命に字を覚えさせようとするが、
私は頑強に拒んで少しも覚えようとしなかった。
強制されるのが嫌いで、少しも言うことを聞かなかった。そのため、自分の名前さえ書くことができなかった。
漢字、平仮名、片仮名などほとんど知らなかった……。
【作文「オマツリ」…遠敷小学校2年B組「綴方」ノートより…トモダチト、オマツリニイキマシタ。
一バンハジメニ、トケイヲカイマシタ、トモダチガ、五エンノトケイヲカイマシタ、ボクハ、十エンノトケイヲカイマシタ。
十エンノトケイハ。ネジガアリマス。五エンノトケイハ、ウデニハメテフルト、ハリガ、ウゴキマス。
ツギニ、オニイサンガホシイトイッテイタボウエンキョウヲカイマシタ。ネダンハ、一五エンデス。二十エンダシマシタ。
ソシテ五エンツリヲモライマシタ。トモダチハ、ニエン五十センノ、エンショウヲ五エンデ、ニマイカッタガ、ボクハカイマセンデシタ。
オニイサンガゴムヲ、ホシイトイッテイタカラ一エンデ、五ホンカイマシタ。マダ五エンダケノコッテイマシタ。
ナニカイイモノヲサガシマシタガミツカリマセンノデ五エンノアメヲ一ポンカイマシタ。二十プンホドナガクナメテイマシタ。
トチュウデアメカフッテキタノデチョットシテカエリマシタ。カアエルトキハシッテカエリマシタ。
アメハ、フッタリヤンダリシテイマス。ナガイアイダカカッテトウトウ、オウチニツキマシタ。
オニイサンニ、ボウエンキョウトゴムヲワタシタラ、アリガトウトイッテイマシタ。ゴムヲホドイテミタラ、六ポンアリマシタノデ、
三ボンヅツニシマシタ。オニイサンノゴムガ一ポンキレタノデクレトイッタカラ一ポンアゲマシタ、
マタボクノゴムガキレタカラ一ポンモライマシタ、ソウシテナカヨクシマシタ。アクルヒ、
イッショニオマツリニイッタトモダチトイッショニガッコウニユキマシタ。(1950・10・13)
《思うに、「イッショ懸命に書いているようですが、言葉のダブリが多いですねえ」。このノートは"セイワ"製のA5判16枚つづり、
表の1行目は「評」「文題」「姓名(学年組)」の欄で、次から7行と裏の8行(1行15文字)、225字詰めの原稿用紙である。
本文の字数は改行がなく605字であった。ちなみに、10・24「ウンドウカイ」、11・15「ゆきふり」、51・01・15「そりあそび」、
01・19ふたたび「そりあそび」、02・04「せつぶん」とあり、残りの一枚は白紙であった》】
2、夏休み、父の分教場を訪ねる
夏休みはすこぶるよかった。すでに父が勤めていた上根来(かみねごろ)の中学校に遊びに行ったことがある。
そこは分教場で、隅に建てられ家で父は自炊していた。冬、大きな囲炉裏の灰の中に丸ごと埋めておいたニンニクは、
匂いもなくホクホクと美味しかったことを今でも覚えている。
歩いて二時間以上もかかる、ずいぶんな山奥であったが、楽しいところだった。途中の下根来には発電所や鍾乳洞があった。
発電所は機械の面白さや素晴らしさを教えてくれたし、鍾乳洞は自然の偉大さや美しさを見せてくれた。
【遠敷小学校1年B組「繪日記」ノートより…"なつやすみ"1949・7・23「はれ ぼくわ ねごりにいきました。
おとうさんのじうたくができたので おとうさんとぼくと。いしょにとまりました。」/翌24日「…きょうわ かみねごりのひととあそびました。」
――「このころの私は、絵日記とは絵の説明をする日記のことと解していた。そのため私は下手な絵ばかり描いて、
"きょうは・・・・・・をかきました"をあきもせず続けていた。それでも中には例外もあって、そんなのはたいてい評価がよかった。K Hashimoto Jul.28'61」ようである。
/同1年の作文…「おとうさんのことはかみねごりの中学校のせんせいをしています。そしてどよう日かにちよう日に そしてときどきおみやげをもらいます
おとうさんがぼくにべんきょうをしなさいとおとうさんがいいます そしてどよう日にぼくのちょうめんを どよう日づつみてもらいます」
《入学した年の2学期ころであろうか。「ぼくわ」などと、平気で書いていたり、言葉がダブっていたり、
句読点があったりなかったりの一方で"日"はやさしいが"中学校"を漢字で書いているのは、どうしたことか。
なお、原稿用紙は中央に「*年生 遠敷小学校」と印刷してあるのを使っていた》】
3、静岡県に引っ越すことに
三年生になると、私たちは家を売って、静岡県に引っ越すことになった。引っ越しは"母の病気のためを思って"というのが表向きの理由で、
"都会へ!"移ったのである。実に大した都会だった。相対的にみるならば、神宮寺よりもはるかに都会化しているが、
東海道本線の沿線で、近くに豊橋や浜松があるというだけで、田舎田舎しいところであることに変わりはない。
三番目の兄が勤めているT会社新所原工場の社宅に一時入った。社宅は二家族一家屋の平屋で、そんなのが五つ六つ、
だだっ広い工場の敷地の片隅に一列にならんでいた。そのまわりは夏になれば草がぼうぼうと生える原っぱがあった。
【岡崎小学校3年1組「作文帳」ノートより…"せつぶん"1952・2・4「きょうは せつぶんの日です 二月四日の日曜日午後六時五十分にまめをまきました。
ラジオでは 名古屋のほうそうで 六時四十五分からはじめました ぼくは ほうそうをききながら まめを たべたり
ちょいちょいなげたりしました それからずっとまきはじめました。「おにわそと」「ふくわうち」といっていえの中や 外にまきました
まきおわってごはんを たべはじめました いろいろな話をしているうちにこんなことがでてきました
「ふくいではまめをまく前に自分のとしより 一ツ大くたべるけど、こっちでは まいてから じぶんのほしいだけたべるそうです」
ぼくが外にまめをまいていたら「アンリ」が かけてきたので ぼくが まめをいっぱいにぎって「アンリ」をよんでちかよってきたので
「アンリ」に「犬は外」と 大声でまめをなげたら 「アンリ」が キャンキャンとないてとんでかいりました お わ り」
《母トワの手記に、引っ越しは昭和26年5月19日とある。この作文は翌年2月に書いたものである。
文字遣い(「大く」など)をはじめ文章がかなりひどい上に、犬(アンリ=工場長の家で飼われていた犬)に豆を投げつけるなんて、
ずい分"動物愛護"の精神に欠けるものではないか?!》】
《追記:画像の説明…上から順に、(1)「ハイドン像」(1950年、遠敷小学校2年B組)、(2)「にわとり」(1949年、遠敷小学校1年B組)、
(3)「"嘯天"の印影」(1952・2・4、岡崎小学校3年B組「せつぶん」に対し、保護者として、父が「橋本」だけでは物足らなかったのか、
"確認した"旨の印として捺していたようだ。
最近になって、父の唯一の編著書『満洲より母国へ』(1922大連)で"橋本嘯天"と記していることを知った。いま、この印の所在は不明)、
(4)「私の家族」(1949年制作、遠敷小学校1年B組。上段の兄は、シベリアから帰ってきた長兄であろう)。
絵はまったく苦手である。4年生の時だったか、校外に写生に出た。東海道線を下に見る両側の松林を描いて、クレヨンで色を塗っていると、
担任の先生から「松はみんな青色か」と言われ、ああ、そうかと思っただけでなく、こりゃだめだと悟ったものである。2008・06・03》