”書くこと”−学園新聞"論説"

"書くこと"目次へ     


灘中学の流れを汲む中高一環の進学校で、中学3年から高校2年まで新聞部に属していた。 その「高槻学園新聞」に記事のほか、論説を2本書いている(とうぜん、無署名)。

1、「人間形成と学校生活」

(第70号、昭和34(1959)年5月25日付。2年・16歳、のちのコメント…「余の得意とするところなり」)

 現在の社会状勢の下での高等学校は、その大半が大学入試を目的とする予備校的な存在となってしまっている。 そのため、学ぶ者は勉強に追われてしまい、他の方面で自由に活動しようとする力がそれに費やされ、 その期間が単色化されてしまう傾向が多い。これは余り良いことではない。

 だが、一度志した以上は最後まで闘うのが当然で、使命ともいうべきものを途中で放棄してはならないのである。 現実は、その「環境」に順応する以外に見込みがないのであるから、大いにやらなければならないが、 我々はここに一つの問題点があると思う。

 いわゆる詰込み主義で、我々の方は多くの学科を授けられるのであるが、年が年中こんなことばかりしているのでは、 人間が片寄ってしまうのではないかと思われる。 つまり、我々の方は常に受身で先生の言われるままを、理解?暗記?するのである。 そのままウノミするだけでは、それはたやすいかも知れないが、味もそっけもなくなってしまう。

 自分で考えなければ、何が真理で何が真理でないかが分からない。 先生の言う事が総て絶対的に正しいとしても、個人によって考え方の相違があるのだから、 それと異なった自分の意見も発表すべきだ。そうすることによって、自分の間違いをなおし、改めるのである。

 以上のようなことから、目を本校に転じてみると、御多分にもれず、その良くない傾向があるようだ。 良く勉強する(と思われる)者は、授業が終ればすぐ帰ってしまう。 後に残る者と言えば、少数の部員だけだ。そこで我々が問題にするのが、「クラブ活動と学業は両立しないか」ということである。

 高等学校に限らず、日本の現在においては、学校生活以外に、我々の「社交の場」が存在しない。 ところが、不可欠なものである(何も、これは八方美人になれというものではない)。 いかに秀才であっても、世間知らずでは何もならない。また社会もそういう融通の聞かない人間は歓迎しないであろう。

 また、いわゆる「遊ぶ」余裕のない者は、利己的な人間になりやすいのではないか。 誰でもより良くなりたいと思うのは当然であるが、憲法の条文にもあるように、 その行動は「公共の福祉に反しない」限りである。利己的な人間は、ひどくならないうちに矯正すべきだ。 いかに頭が良いとはいえ多数を顧みないような人間は排すべきである。

 もう一つ、友人関係にしても、小中学校の場合は、ただの遊び友達として終ることが多いようだし、 真の友を得るには少し無理があるようだ。とすると、ますます高校での対人関係が重要になってくる。 だが、学校が一時的に集まる「群集」の場であってはならない。

 それで、そういった場にならないように、欠点を補ってくれるものに、クラブ活動という我々の自立的に行うものがある。 これはいわゆる学問とちがって、他に得るものが多い。例えば、自分の好きなことが自由にできるし、 学年を超越して物事に当ることが可能となる。

 クラブにおいて、お互いに話し合い、自己を磨き上げるのだ(これは、利己主義のようなそんなちっぽけなものではない)。 意見を異にし、議論をしてこそ始めて価値があるのだ。運動にしても、実践ばかりが能ではないのは当然である。
 こういうものは、学問のように試験制度がないから、はっきりとは表面に現われてこない。 だからといって、おろそかにはできない。

 前者は途中(人生の)で止め(余り好ましくない)てもいいが、人格などは生きていり間は永久にまつわりつくものである。 大きく言えば、常に相手によって試験されているのである。ところが、こういうことは教科書にも書いていないし、 授業も勿論ない。しかも大いに必要なのであるから、どうしても自力で獲得しなければならないのである。

 また、良き指導者も必要だ。学校の場合は先生だが、生徒との間がより緊密になろうというものだ。 先生方は我々の大先輩として人生経験などを話されてこそ、将来のためにプラスになるのだ。 本校の大部分が、この一見非学問的に見えるものに気付かないはずがない。 とすると、どういうわけでクラブ活動の参加者が少ないのだろうか。各自大いに考えて見る必要がありはしないだろうか。

 本校生が6年間、朝登校し何時間かの授業を受け、終ればさっさと帰ってしまう、 それは試験に良い成績をおさめるかも知れないが、それだけで充分だと言えるだろうか。
 本校が「自己」を持たないような、すべて受動的・消極的な人間を作るような、 一種の便宜的な機関になってはならないのである。

 だから、二三年のクラブ経験はもって、学問と共に、一層幅のある人間に成長したいものである。 やり方によっては、いくらでも効果の上がるものと信ずる。


2、「認められる矛盾」

(第74号、昭和35(1960)年6月6日付。3年・17歳、のちのコメント…「必要にせまられて、走り書きせしものなり」)

 高校生は奇妙な存在である。
 一方では大学入試に追われ、一方では就職あるいは第3の道と、それぞれの進路?がある。 我々も高校生の一員であり、一応第一の部に属する。たいていの者は最も経費のかからない大学で、 有名なところをねらう(その目的は千差万別とは思うが)。 しかも、必然的に就職も、楽に一流の会社に入れる(彼の望むところはそこかもしれない)。

 現在我々のとっている学問の方法は大学入試の為の手段と化し、ひいては、その卒業後にも影響する (中には教養のための学問と力説する貴重な存在の先生もいるが、それをまともに聞いている生徒はいない)。 だが、秀才が必ずしも人格者であるとは限らないので、卑近な例で言えば、岸首相がそうで、 何の為に東大を首席で出たのか分からない。

 我々の中にも、岸首相のようなとまでは言わないが(人間が幼稚でありかつ経験に乏しいのであるから当然)、 そんな人物が少なからずいるように思う。彼にとっては、現在の日本的資本主義社会に於いて、 いかにすれば自己が繁栄するかだけを考えればよいわけで、他人の事を考えるなど、極言すれば、 むしろ越権行為とみなすのかも知れない。

 目指す一流大学を目標に日夜学問? に励んでいる彼は、自己に最適かどうかの考慮をわずかにして、 例えば、経済学部にしようとか、法学部にしようとか、うまくいった場合の大学卒業後のことも考えて、 一流どころに落ち着き、これまたうまく行けば重役ぐらいになろうという心算らしい。 これ即ち、他人の犠牲の上に基づく自己満足あるいは繁栄の姿ではないか。

 その彼が、中学時代ぐらいに"天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず"という、きわめて明白なことを学び、 かつ何を意味しているかも理解している。しかし、それだけでは何もならないので、空念仏に等しい。 実行にうつすまでも(なかなか困難なことなのだが)、心構えだけでも持ち続けたいものである。

 くり返すが、彼は一流大学に入り、首尾よく卒業し、また有名会社に入って安定した生活を得、 きれいな奥さんでももらって、それで事足れり、とするような、一般的で、現実的で、消極的な生き方を望んでいるように見える。
 確かに、これが実現すれば、彼と彼の周囲だけな、明るいとは言えなくても暗くはないだろう。 それはMoney is everythingの世の中なのだから仕方がないともいえる。 現代は、そのような人を望んでいるというのが本当かもしれない。

 彼は経済学をやり、法律を研究し、しかも日本の現実は、どうであるかを究明しようとはしない。 それは彼の本来の方針に反するのかもしれない。最近の彼は、本を読み、あるいは新聞を読み研究?し尽くして、 安保反対を盛んに唱える。あれは、日本支配者層の安全保障だと言い、彼は安保には絶対反対するけれども、 依然として経済学をやめない。そして所期の目標通り、大会社の重要ポストを望んでいる。

 彼は、知ってか知らでか、このようなジキル博士とハイド氏を平気でやってのける。 これが日本の現実ではないか。また彼の父兄は彼が進んで社会に尽くす人物になるよりも、高給取りになることを望む。 しかも彼らは反自民党で、反安保で……。いや、彼らは政治に無関心で、その息子は父兄に極力忠実なのかも知れない。
 我々の周囲にはこういうのがたくさんいる。それに対して君は何とも思わないのだろうか。


ご意見・ご感想はこのアドレスへ・・・ kenha@wj8.so-net.ne.jp