もっとも、同図書館には『戰線文庫』も『陣中倶樂部』の現物も存在せず、後者はいま、 途中から引き継いだ分が講談社に所蔵されている。竹添氏の論文にめぐり合わなければ、戦後も60年を過ぎようとする今日、 旧陸海軍両省の監修になるこの2誌の存在を"同時に知る"ことはほとんど誰にも不可能であったろう。
写真は、「講談社版第1号(第42号)」(社史『クロニック講談社の90年』平成13年4月発行より)。
かくいう私自身、いま、前者については池田浩士著『「海外進出文学」論 序説』の「第[章 大衆文学も勇躍ご奉公する」で、 後者は竹添論文の他に高崎隆治著『「一億特攻」を煽った雑誌たち』の「時局に悪乗りした"大衆総合誌"『現代』」で言及されているのを知るに過ぎない (両書の発行元はインパクト出版会1997および第三文明社1984)。
この陸軍の慰問雑誌『陣中倶樂部』(非売品、B6判232ページ)について、竹添氏は「当時でも流通が極めて限定されていて、 一般には知られておらず、多くの人々が触れる機会がなかった」とし、さらに「国内で制作されたものの、 主な配布先が満州を中心とした中国大陸の前線であったらしいことは重要である。 しかも個人雑誌ではなかったので、敗戦後、兵士がこれを携えて帰還したとは考えにくい。 敗戦の混乱期、大陸で散逸してしまったというのが実際ではなかったか」と推察する。
"個人雑誌ではない"とは、部隊ごとに配布された雑誌というほどの意味であろう。
つまり、市販されない、外地向け、"戦意高揚"に資するこの雑誌は敗戦後持ち帰るわけにも行かず、
人々の目に触れることはなかった、わけである。
同じことは、やはり無償の『戰線文庫』(昭和13年9月の創刊号のみ有料〈40銭〉。
当初238ページ、第22号より200ページに減)にもいえるが、ややこしいのは途中から、内地向けの『銃後讀物 戰線文庫』
という有料(40銭、200ページ)の雑誌が同時に出ていたことである。
これら戦地版と内地版は国内の図書館等にわずかに保管されている以外、発行者の子息の手元に合本として、 辛うじて残っているだけである(拙稿「『戰線文庫』について」『日本出版史料 8』日本出版学会・出版教育研究所共編、 日本エディタースクール出版部発行2003年5月・所収)。
両誌を比較すると、「『恤兵』誌中に広告は一切なく、四六版でおよそ200ページ、大半が講談、落語を中心に構成」され、 全体の印象は「機関紙を拡大したようなもので、地味であり、前線の写真なども添えられ」、 「いかにも陣中誌のイメージ」である。一方、「『陣中倶樂部』になったとたんに、カラー写真や広告が入り」、 「サイズも当時の講談社出版物と同じ菊版」となり、「外見上は商業誌とほとんど変わら」なく、 「〈倶樂部〉と冠したあたり、完全に講談社ペース」の印象だと、竹添氏は比較分析する。
編集を民間に委託した理由として、第42号の目次折り返しに「本雑誌は国民の熱誠なる恤兵金を以て調整、
従軍将兵慰安のため配布するものであります 陸軍恤兵部」とうたい、次のようにいう。
「恤兵部と致しては、(中略)今年〈昭和14年〉に入っては現地の実況及び、その熱烈なる希望により、
其の発行部数も倍加し、非常な好評を博して来たのでありますが、当事者として更にその内容を刷新し、
清新の気を充実せしめ、以て将兵各位の慰安を拡充せしめ度く、色々考究を続けて来たので有りますが、愈々其機熟し、
今回斯界の権威たる講談社に依嘱し、内容体裁ともに一大刷新し、誌名も其の目的に相応しく」改めたのだという
(同号冒頭の「改纂の辞」、陸軍恤兵監 佐々真之助)。
奥付をみると、「陣中倶樂部 第四十二号(非賣品)/昭和十四年四月二十五日印刷 昭和十四年五月一日發行/
東京市麹町區永田町 陸軍恤兵部發行/編輯兼印刷者 東京市小石川區音鋳ャ三ノ一九 大日本雄辯會講談社/
印刷所 東京市下谷區二長町一番地 凸版印刷株式會社」とある。
余談だが、裏表紙下段に「MADE IN NIPPON(JAPAN)」と印刷する同誌は、すでに進取の精神を発揮していたといえよう。
ともあれ、完全に"外注"の形をとっていた『戰線文庫』とは、かなり様子がちがうようだ(後述)。
社史『講談社の歩んだ五十年 昭和編』(講談社1959)には、当時の関係者の座談会が載っている。
第2代編集長だった木村喜市氏はいう。
「最初のうちは、ことあるごとにいやな気持ちでした。一応編集案が出来ると、それを持って行って見せる。
説明もする。編集案についてはそう掣肘はなかった。矢部靖利君は表紙を担当していたが、
表紙は一目見れば素人も文句がいえるから随分苦労したようです。向こうでよくないといわれると、
こっちの雑誌じゃないから、こっちもそう強く主張できない。(中略)ただ向こうの要望に添う雑誌を作るだけで、
いくらいい物を作ってもそれで部数が増えていくわけでなく、その点張り合いのないことでしたが、
ただ戦線の兵隊の慰問になるということだけにやり甲斐を感じました」(「昭和十四年 『陣中倶楽部』の依嘱発刊」)。
一方、『戰線文庫』に対する海軍の"介入"、つまり上記に類するケースはつまびらかではないが、配慮はかなり具体的である。
戦地に関する記事など、たとえば海軍大佐廣瀬彦太の「対日侵攻作戦の裏を行く」の文末には"(海軍省軍務局第四課検閲済)"とあり
(『戰線文庫 銃後讀物』昭和16年5月特別号)、また「現地特報 ジャワ宝島物語 大東亜一周の手紙 その3」
(筆者は大島敬司〈戰線文庫主幹・海軍報道班員〉)の場合は、やはり文末に、なんと"(陸軍省検閲済)"と入っている
(『戰線文庫』昭和18年1月第51号)。とうぜん、読者(戦地の兵士)からの投書などにある、
海外の基地や艦名はいずれも"○○"と伏せられている。
その第1号(上の図版)の編集後記「編輯部より」は、次のように述べる(原文は総ルビ付、送り仮名以外は現代表記。以下同じ)。
◆桜も過ぎて、清新溌剌の五月となりました。戦已に一年有半、遠く征途にある皇軍将兵各位の御辛労に対して、
同人一同衷心より感謝の意を表すると同時に、武運いよいよ長久ならむことを祈つて止みません。
◆巻頭陸軍恤兵監のお言葉にもある通り雑誌『恤兵』は、今月から誌名を『陣中倶樂部』と改め、御覧の通り体裁内容共に、
全く一変したものとなりました。とりも直さずこれは陸軍恤兵部の方々が、何とかして少しでも多く、
皇軍慰問の目的を徹底させたいと云ふ、真心の現れであります。我々編集の大任を引受けた一同も、
この意を体して最善の努力を傾注いたしました。
◆口絵に特集した人気スターの誌上慰問は、定めし皆様に喜んで頂けるものと思ひます。写真は総て本誌の為に特写した、
最近のもので、このスター諸嬢は、誰も彼も口を揃へて、本誌を通じ、くれぐれも皆様に宜しくお伝へ戴きたいと申して居ります。
次号も引続き、各方面の一流を動員して、誌上慰問に出動して貰ふことになって居ます。
◆加藤武雄氏の『三吉帰る』、下村悦夫氏の『女装の剣士』は共に近来の快心作であり、甲賀三郎氏の『殺人画像』
大倉桃郎氏の『彫金浅妻船』は何れも苦心の力作であります。
之等の小説は一流の大雑誌と肩を並べて少しの遜色も無いものばかりであります。
畢竟之も作者諸先生が、皆様へ感謝の熱情から奮って筆を執られた賜であります。
◆遠く家郷を離れて一年二年、少しでも多く皆様のお耳に達したいのは銃後の消息であります。
此の意味から、本誌には力めて国内の出来事、皆様の郷里に起った新しい話の種をお伝えしやうと、特別に意を払い、
各地方の材料を集めましたが、紙面の都合で本号に洩れた地方は順次掲載いたすことヽしました。
◆皆様が陣中で折にふれての文芸作品も是非沢山御投書下さるやうお願ひいたします。これも順を追ふて誌上に発表いたします。
◆皆様の御骨折を思へば我々の努力は物の数でもありません。是非次号は更に更に大車輪を以て一粒選の名記事を満載して、
愈々皆様の大喝采を博する意気込であります。(記者)
事変下第三年、再び意義深き海軍記念日を迎へました。興亜の春のこの日、
国を挙げて海軍一色に包まれ海国日本の栄光に光り輝いてゐます。
世界戦史に栄えある記録をとどめた日本海大海戦を偲ぶにつけ、東亜新秩序の建設のため、
第一線に在られる勇士皆様の御自重と御武運長久を切にお祈り申し上げます。
本号は特に海軍記念日特集として、海軍軍事普及部委員長金沢少将閣下の「日本海海戦の回顧と将来の覚悟」 なる有益な講話を始め、松島中佐の「陸戦隊万歳」、今井邦子氏の「海軍記念日の歌」、 海軍大臣賞受賞の「太平洋行進曲」等の発表のほか、色頁を記念日祝賀余興大会とするなど、楽しい読物の満載であります。
小説陣は内容を刷新し、大家中堅色とりどりの新傑作を得た堂々の大豪華陣、 先づ土師清二氏の「追手部隊」は哀恋極はまりなき傑作、南達彦氏の「食気の仲」はユーモアたつぷり、 北林透馬氏の「花ある路」は、銃後青年の悩みを描いた名作、連載の「上海X27号」は、 水島洋氏の筆力いよいよ冴えて最高潮の場面を展開しつヽあります。
急迫せる欧州の情勢につき、外務省情報部の長谷川進一氏に「新国際情報」を発表して頂き、
「懐かしの銃後・桜(はな)ちる便り」では充分に故郷を偲んで頂きたいと存じます。
長期戦下のよき教養と娯楽のため、今後は益々実益趣味の頁を増加して行く予定であります。
読後の御感想や御希望を続続お送りのほどをお願ひ申し上げます。
このように、海軍記念日(5月27日)特集号と、3月10日を陸軍記念日とする陸軍では、
発行時期は同じでも"創刊"の意気込みは比較できない。
そこで、『戰線文庫』の創刊号の編集〔後記〕を見てみよう(昭和13年9月5日印刷、同9月10日発行)。
冒頭、坐る武士の絵に「勝って兜の緒を締めよ」と添えたカットがある。
×
真に海の荒鷲部隊の縦横無尽の活躍ぶり、壮烈無比の陸戦隊の戦闘ぶり、豪胆無敵の江上遡航部隊の進攻ぶり、
さては堅忍不抜の航行遮断部隊の監視ぶり等、いづれもその目覚しき活躍ぶりは、銃後国民のひとしく感謝感激の的であります。
×
その炎熱苦や艱苦を、聊かたりとも忘れ得るやうに、戦線のよき伴侶となり、長期陣営下の最上の娯楽と実益の読物であり、
銃後のあらゆる消息を網羅すべく苦心したのがこの「戦線文庫」第1号であります。
ポケットに入れて、いつでも読んで頂けるやうに、特別四六版にしたり、グラビアにスタアを総動員して、慰問文を掲載し、
二色刷オフセットに、銃後各地の美人絵姿を一斉に発表するなど、戦線にゐる海軍将士の皆様にどうしたら喜ばれるかと実に苦戦の編纂であります。
×
読物陣は、当代一流の人気作家をずらりと登場させた誇るべき豪華版であります。
文壇の大御所菊池寛氏の「兄と妹」、つヾく加藤武雄氏の「魔力」、又名匠子母沢寛氏の「無敵の秋太郎」等々、
いづれも一世を風靡した名作ですので、特に本誌が乞ひうけたもの。
更に現下に取材せる防諜小説「上海X27号」は、某大家の苦心惨憺になる長編小説で、その他一流作家の名作の映画化を期に、
逸早く誌上封切をし、名浪曲、名講談、名落語まであまさず網羅するなど、全くこれでもかといひ度い大内容と信じます。
×
本誌に挟み込みのハガキに、四六頁発表のテストの解答なり、何かお好きな事をいろいろと委しく書いて、
今すぐハガキの御返事を書き送られるやうに御願ひ申上げます。(定価 金四十銭)
その『陣中倶樂部』の制作編集関係に、個人名はほとんど出てこない。一方、『恤兵』よりは遅いが、
『陣中倶樂部』より早い昭和13年9月創刊の『戰線文庫』の監修は「海軍省恤兵係」だが、制作をはじめから民間に委託した。
当初「戰線文庫編纂所」、ついで「興亞日本社 戰線文庫編纂所」と最後まで同一で、
創刊号の奥付には「發行兼印刷兼編輯人 笠倉寧之」と個人名がある。
両誌のちがいは、誕生のいきさつからか、軍部関与の度合いの差というべきか。前者の監修が陸軍恤兵"部"であるのに対し、
後者は海軍省恤兵"係"であり、「恤兵部」に"昇格"したのは第63号(昭和19年1月1日発行)あたりからである。
創刊についてはどうか。『陣中倶樂部』には陸軍恤兵監による「改纂の辞」があるためか素っ気ないが、
『戰線文庫』は勇ましく、目次ウラに「われらの戰線文庫」として、次のように記す。
「武勲赫々たる帝國海軍將兵の御奮闘は世界戰史に不朽の聲名をとヾめておりますが、
この惡戰苦闘大進撃をつヾけられる海のつはものに對する感謝感激の念の結晶がこの『戰線文庫』でございます。
/時局下の銃後の國民大衆向きの雑誌は數へ切れぬ程澤山ありますが、特に前線將士を鼓舞し時には消閑の良友となり、
陣中餘興大會に利用できるやうな特別考慮に編纂された雑誌は、この『戰線文庫』以外には絶對にございません。
/どうぞ心安く戰闘の餘暇に御愛讀の上、續々と何かと御注文を下さるやうに御願ひ申し上げます。/戰線文庫編纂部」。
ついで、広告を見よう。『陣中倶樂部』の第1号は「エビオス」、「錠剤 わかもと」、「三共 オリザニン」 「灘の生一本 進軍」、「赤玉ポートワイン」、「ライトインキ(篠崎インキ)」などに、自社広告「講談社の英雄偉人伝記書!」 (武者小路実篤による二宮尊徳・西郷隆盛ら8人・6点、鶴見祐輔のナポレオン・ビスマーク2点、 澤田謙のヒットラー伝・ムッソリニ伝(新訂版)2点に、吉川英治の宮本武蔵・親鸞2点)があり、 「キングレコード軍国流行歌」は見開き2ページをとり、「別れの君が代」ほか3曲の歌詞が紹介され、 その下段には軍歌30曲の"御紹介"が歌手名付である。
広告の掲載は『戰線文庫』も同様であるが、初期の主な広告主はヘチマコロン・薬用クラブ歯磨・東宝映画「忠臣蔵」 ・資生堂石鹸・トンボ鉛筆・宇津救命丸・コロムビアレコード・明治製菓・ビオフェルミン・サントリーウヰスキー・三共製薬 ・わかもと等で、興亞日本社の自社広告(書籍)は、それほど大きなスペースをとっていない。
とはいえ、『戰線文庫』の成立に、文藝春秋社の菊池寛の"関与"を無視するわけにはいかない (前出「『戰線文庫』について」)。ということは、この2誌の刊行には、海軍対陸軍ばかりでなく、 文藝春秋社対講談社という図式も考えられる。もっとも、作家や画家の起用を、文春系か音羽系かと忖度しても、 あまり差はないと思われるが、いずれも今ここで論ずる暇はない。
その「編集後記」は、"慈母"のように、ソフトな調子ではじまるが……。
「今晩で校正が終るさうです。
師走14日の風が、夜更けて強く吹いてをります。その音をきいて、海を越えた遠いそちらからの、
ものヽ響きを伝へてきてくれるやうに思はれます。わたくしたちは、これだけの人数(注:60名以上)で、
みんな揃つて御慰問にいけないものかなあ、などと空想します。いけないものではありますまいと誰もがいひます。
でも、それはすぐに実行出来さうもなひので、互ひに、心のうちで自分が鳥になって――『本』といふ鳥になつて、
パタパタと翼をひろげて飛んでゆくことを想像してをります。
心の飛行機――そんなふうにいつたらよいでせうか、本鳥は、自由自在、御訪問申したいところへは、
何処へでも行けるでせう。真白い、雪よりほかの色もないところへいつたらば、どうかそこに、梅の花、桜、山吹、
牡丹といふふうな花を咲かせて、鶯のやうな声でお話かけたいものです。
南の熱いところへは、サッと、俄雨(スコール)のやうな涼しさをもつていつて、露をころがす唄声で、
今日はと御挨拶したいものです。
わたくしたちは、いま、眼をあけてゐて夢を見てゐます。女は山の神にはなりますが、こんな時は、風の神になるのも好い。
いヽえ風邪の神などではありません。それこそ、そちらさまでも真ッ平ときらはれます。
風の神になって、神さまですから、打出の槌といふ世にない宝をもって、そしてそちらへ飛んでゆきたいのです。
思ひのまヽのものをザクザクと振り出して皆さんをおよろこばせしたいのですが――まあまあ仕方がない、
本鳥の1頁1頁になって御訪問しておきませう。そこで、皆さま、わたくしども一同、みんな揃って、
万歳! と、心のかぎり申します。どうか御元気で、御武運長久、景気よくお声をお合わせ下さい。
万歳!万歳! (輝ク部隊一同)」
何だか、言葉とはウラハラに、おばさん連中(といってもそれほどの年ではない)が、
若い兵士たちの心をもてあそんでいるような印象を受ける……。
同じ時期、輝ク部隊から海軍にも送られていた。誌名は『海の銃後』で、表紙に「輝ク部隊・慰問文集」とある。 両誌の異同をみると、ページ数こそ256と230で陸軍側が勝るのは、後者に掲載を見合わせただけのようで、 小説など主なものは同一の筆者が並んでおり、なかにはタイトルだけ変えたり、別の作品にしているものもあった。 もっとも、両軍のどちらが先行したか確かめる手立てはないが。
海軍側には上記「編集後記」とちがって、表紙ウラに海軍省恤兵係 海軍主計少佐 茶谷東海のあいさつ文と、
その次のページ(目次ウラ)に海軍軍事普及部 海軍中佐 高瀬五郎の「序」が並び、
グラビアのあとの"扉"に「輝ク部隊慰問文集について」がある。海軍旗を模したバックの中心に大きく「輝ク」の文字を配し、
次のようにいう。
「皇紀二千六百年(注:昭和15年)を祈念する、輝かしき新春の第一声として、聖戦のつはものみなさんに、
万歳とともにこの小冊をお贈りすることは、申しきれない悦びであります。どうかみなさん、私どもの熱意を集めました、
この慰問文集をお開きくださいまし。
「輝ク部隊」と申しますのは、日本の知性層の若き女性によって結成され、
銃後の赤誠をつくさうといたしてをる集まりであります。その中の芸術部の会員の、作品による御慰問をいたします。
表紙、口絵にいたるまで、みな部隊員であります。幸いに、海軍当局の御援助をいただき、
みなさんに読みものを御送りしたいといふ、私たちの望みを達しましたのは、なんとも有難いことでございます。
どうかみなさん、いよいよ、ますますお元気で、またこの次の慰問文集を、お待ちくださるやう祈りあげます」
対陸軍との、この表現のちがいは、なにに由来するのであろう。たしかに、翌16年1月にも彼女らによる『海の勇士慰問文集』
が出されていた。
それはさておき、この女性陣による"慰問"は時節柄、特記すべき事項であったらしく、朝日毎日両年鑑の昭和16年版にそれぞれ、
次のようにある。
朝日「長谷川時雨女史が主宰している女流ばかりの『輝く会』では別働隊として、
『輝く部隊』を編成して皇軍兵士の慰問にいろいろ尽くしてきたが、15年の正月のお年玉の意味で、
前線将兵に慰問文集を贈ることとし、陸海軍からの賛成を得て、14年11月協議した結果、陸軍は恤兵部発行の『陣中倶樂部』に、
又海軍は同じく『戦線文庫』に、正月号付録とし、それら慰問文集を付することにした」とあり、
執筆人が17名ほど列挙され、「女流画家甲斐仁代、長谷川春子氏らも参加して、表紙や挿絵に腕をふるった」とある
(『朝日年鑑』「文芸」)。
同様のものでも、陸軍は"本誌"扱いに、海軍では付録としている点に、対応のちがいが感じられる。
毎日は「『輝く部隊』活躍す」として、次のように詳しい。
「長谷川時雨女子の主宰する「輝く部隊」では前線将兵や白衣慰問のため、このほど小説や随筆類の原稿を陸軍省へ献納、
当局でも大いに喜び恤兵部で雑誌に編集、総数11万部を印刷して14年12月26日前線へ発送した。
また海軍将兵慰問に「海の銃後」を出版し軍事普及部を経て戦線へ贈った。
この慰問雑誌の表紙は長谷川春子女史が絵筆を揮ったほか吉屋信子、林芙美子、窪川稲子、ささきふさ、村岡花子、森田たま、
小寺菊子等十数名の女流作家が小説に詩に随筆に慰問文集を綴っている」とあり、
「さらに15年5月『輝く部隊』では大田洋子、黒田米子等女流作家、琵琶の鶴田桜玉、
舞踊の藤間勘素娥さん等を動員して慰問隊を組織、現地の海軍を慰問するため渡支、
また活花の家元草月流の勅使河原蒼風氏は白井喬二夫人井上つる子さん並びに令嬢とし子さんを伴い海軍省の斡旋で
中・南支方面の慰問を行った」ともある(『毎日年鑑』「図書と新聞」)。
なお、通常は「輝ク…」と表記するようだが、両年鑑とも「輝く…」となっている。
定期的に発行する、これら雑誌の経費はどれぐらいだったか。 竹添氏は、制作(調整)費の「内容はどのようなものか不明」で、「これだけの誌面と配布をまかなうには膨大な制作費が必要であったと思われる。 兵士数の増加、戦況の拡大とともに負担はますます増えたであろうし、一切合財が恤兵金、国防献金だけでまかなわれたものかどうか、 判断は容易ではない」という。
先の木村喜市氏によると、『陣中倶樂部』の「編集費は3千円、毎号の原稿料は千円」だったそうで、 また同じく堀江常吉氏は「部数は最初7万7千部刷ったが、その後は増えることもなかった」という。 そして、「終戦の年になると、作っても、前線に送れない。恤兵部の倉庫、本社の倉庫に何号分も積み込まれたままで、 とうとう前線には送れずじまいでした」と証言する(『講談社の歩んだ五十年 昭和編』)。
海外に送り出された陸軍の将兵は、何十万人もいたであろうから、最大でも7万部前後の部数では、
回し読みをするにも不十分だったことだろう。
前身の『恤兵』について、慰問袋に入っていたものを読んだとか、
購読したい旨の手紙が編集部に来たりしていることについて、竹添氏は「戦況の拡大による配送の費用や手間を考えると、
各部隊ごとに1冊、もしくは複数冊届けられていた」と考えるのが現実的であろうといい、昭和史研究家の保阪正康氏も、
「(海軍に比べ)数が少ないのは、部隊の"図書室"に送られていたからではないか」と推測する。
ということは、先に紹介した「輝ク部隊」の作品集を、陸軍で11万部印刷したというのは、かなりの増刷ということになる。
この作品集には、原稿料が要らなかったのであろう。
第11号(昭和14年9月1日発行)の編集後記〔銃後余録〕に、「戰線文庫」頒布が何かの都合で充分行き渡らぬ方面の方々は、
海軍省恤兵部宛その旨を御申出の程願ひ上げます」とあり、次の12号(同年10月1日発行)では、
「お願ひ――本誌の頒布が充分に行き渡らぬ方面の方々は、……恤兵係宛御申越し下さい。また多数頒布された方面は、
読後は郷里へ御送付下さいますやう御願ひ申上げます」と記す。
さらに、13号の後段では「尚、本誌を読了の上は、お捨てにならずに、内地の知人へお送り願ひ上げます」と求め、
14、15で号も"充分に""うまく"行き渡らぬ方面への呼びかけがなされているように、
数万部だった陸軍の配布状況とは大いに異なるところである。
購読を求める声は国内からもあった。「当編纂所宛本誌御購読の御希望を寄せらるヽ方が多数居られますが、 当方にては販売致して居りませず、御希望の方は東京市麹町区霞ヶ関海軍省恤兵部宛、 「戰線文庫」頒布の御申込をなさいますやう御願ひ申上げます」 (『戰線文庫』第10号編集後記〔銃後餘録〕昭和14年7月1日発行)と呼びかけている。
それだけではない。「銃後の読物献納運動が白熱化し、今回、大阪地方海軍人事部へ、 『戰線文庫』献納の申込み」をした人の名前がある。申込み順に50部、500部、1000部(商店主)、250部、5000部(宗教団体)、 500部、10,000部(個人)、500部、150部、500部となっており、「頒布の中、右の部数は、銃後の赤誠ある献納に依るものであることを御承知下さいまして、 501部陣中より表紙記入の献納者殿へ、何かとお便りでも、お寄せくださるようにお願ひ申し上げます」とは、 502部編纂所からのお願いである(「銃後赤誠譜/戰線文庫献納一覧表/献納者芳名録その一」 503部(『戰線文庫 慰問讀物號』昭和14年12月1日発行)。
また「海軍報国献金美談(関西版)」によると、昭和12年の事変以後、総額3712万7406円46銭の献金があり、
内訳は国防献金・学芸技術奨励金、その他として下士官兵家族病院建設資金があった(前出『戰線文庫 慰問讀物號』)。
単純に引算すると、恤兵金は2166万9605円9銭となり、実に6割近くを占めることになる。
そんな巨額な金が雑誌すべてに利用されるわけはないが、どれぐらいの金額が『戰線文庫』につぎ込まれたのかは分からない。
とはいえ、部数の差からいって、その額は陸軍とは相当の開きがあったといえよう。 たとえば、海軍側は昭和16年1月1日付で『戰線文庫』と『銃後讀物 戰線文庫』のほかに、 ふたたび輝ク部隊の寄稿による『海の勇士慰問文集』が出されている。
ちなみに、海軍軍人の数は、「(第二次世界大戦の)開戦時、約32万人のよく訓練された軍人を擁したが、 (中略)終戦時には海軍だけでも約242万人(うち士官約9万人)の軍人・軍属を擁するに至っていた」とある (『日本海軍史』第四巻 通史 第五、第六編「第六章 新生日本の中へ 第一部 終戦時の人的軍備」 (財団法人海軍歴史保存会編・平成7年11月刊)。
出版を取り巻く状況は、『毎日年鑑』昭和20年版(昭和19年12月20日印刷、同12月25日発行)の「文化、芸能」の「出版」に、
次のようにある。
「戦ひの灼熱さに伴い出版用紙の供給はさらにさらに制約を受けて来たが、それとは逆に読書購買意欲は異常な躍進を示し、
日本出版会はこの事態に対処するため18年7月21日からの『売切買切制』を実施、総ての出版物は予約制とし、
新刊の予約案内のため日配が『新刊弘報』を創刊したが、これまた読者の要求に応じきれず、遂に新刊弘報も廃止、
刊行書予告は読書新聞に掲載することとし、予約購入制も廃止、19年5月21日から全国的に計画配給を行うとともに、
他方6月21日から新刊雑誌購入には古雑誌交換を全国市街(沖縄県を除く)で実施することになった」という。
古雑誌との交換でしか新しいものが手に入らないとは、モノあふれる今日では想像もできない。 しかし、その前年には「皇軍慰問書籍百万冊献納」が行われていた。 「本社主催、陸軍省、放送協会後援、皇軍慰問書籍百万冊献納式は18年3月10日神田共立講堂で開催、第1回陸軍へ177万5千冊、 海軍へ8万冊を献納、なお、300万冊の申込があり、集荷中との経過報告後、目録を献納、これに対し陸海軍側からの謝辞があって、 献納式を終了した」と『毎日年鑑』昭和19年版の「図書、新聞」は記す。
では、講談社と『陣中倶樂部』について、同社の別の社史にある「陸軍省から委託の『陣中倶楽部』を発行」に、
その実情をみよう。
「…陸軍からの委託発行だけに制約はあったが、まずまずの内容だった。苦労させられたのは用紙問題である。
すでに昭和13年(1938)9月には新聞用紙供給制限令にもとづき、雑誌用紙も約20%の節約を命じられていた。
『陣中倶楽部』の発行で他の雑誌に響くのは困ると商工省と交渉をかさね、何とか別枠で確保した」
(社史『クロニック講談社の90年(1909−1999)』平成13年4月発行)。
ついで、減ページについて、「戦争末期になって他の雑誌が48ページくらいの薄っぺらなものになったさいも、 『陣中倶楽部』は、昭和19年(1944)11月の廃刊まで同じページ数をつづけた。 こうしたことが、講談社は軍と結託して紙を使ったという戦後の講談社批判の原因のひとつとなった」という (『クロニック講談社の90年』)。
"同じページ数"とは232ページをさすのであろう。しかし、最終号(19年11月1日発行第106号)が154ページであったことを私は確認しており、 前出の高崎隆治氏も次のようにいう。「昭和19年4月号といえば、…雑誌統廃合の直後だが、… 『陣中倶楽部』は154ページという当時としては信じられないほどの容量を持っていた。 新たな出発をした文芸雑誌『文藝春秋』はこの時96ページの貧弱さである」(『「一億特攻」を煽った雑誌たち』)。
一方の『戰線文庫』をみると、第56号(昭和18年6月1日発行)〔銃後通信〕に、 「決戦態勢下銃後の雑誌は、殆どみな百頁内外となりましたが、本誌のみ現在の頁(注:200ページ)を以て、 名実とも日本一の雑誌としてみなさまにおおくりすべく、鋭意努力いたす覚悟でございます。 /初夏の青葉眼にしみる故国より、勇士さまがたの御武運長久を心より御祈り申しあげます」などとある。
ふたたび、尾張真之介氏の話を聞こう。「(ストックを生かして作り)苦心の甲斐があって、
とにかくおもしろい雑誌ができたので、恤兵部の方もこれでよろしいというので、案外スムーズに行ったわけです。
こういうものをやったことが、戦後になって、左翼出版社から、講談社は軍と結託して紙をどんどん引っ張り出したんじゃないかといわれた。
事実はそうではないんだが、こういうけしからんことをいわれたのは心外だった」(『講談社の歩んだ五十年 昭和編』)。
さらに、堀江常吉氏も補足する。「用紙の割当では苦労した。 出版文化協会では『陣中倶樂部』を講談社の割当のうちからやれというのだが、そんなことをすると社の用紙が減ってしまう。 『陣中倶樂部』は商売にはならないのだから、紙だけはちゃんと貰いたいというわけで、 何回も何回も商工省に行って随分苦労した」(同上)。
さて、陸軍の要請に対し、かなり努力を払った? 講談社であるが、内務省はどう見ていたか。
同省警保局編『(秘) 出版警察資料』第44号(昭和15年3月号)の「出版物の傾向」にある「大衆娯楽雑誌」の項で、
「講談社発行の雑誌はすべて申合わせたようにこの4月から一斉に、『国策に協力しましょう』の社説を掲げている。
その主旨とするところは結構であり、又斯くあって欲しいものであるが、
その標榜するところのものが出来るだけ速やかに各誌の隅々まで浸透徹底するの日を見たいものである。
娯楽面よりする大衆教化の意図が大衆娯楽雑誌本来の目的として生まれて既に久しく、往々その反対内容に直面することがある。
今回こそはそれが単なる羊頭狗肉の営業性に堕することなきを切望すると共に、斯かる善意の胚芽を大いに助長すべきであろう」と、
歓迎すべきというニュアンスを受け取れないでもないが……。
軍部に"協力"している同社であったが、この『(秘) 出版警察資料』で、
『戰線文庫』は一定の評価を得て何度も言及されているのに対し、『陣中倶樂部』はまったく触れられておらず、
誌名さえ登場しない。当時の制作関係者の"空しさ"も分かろうというものである。
もっとも、戦前の雑誌年鑑や出版年鑑における、講談社の雑誌広告("9大雑誌"など)に、
まったく登場しないのは当然のことか。
このように見てくると、いま改めて戦争とはなにか、軍部とは? そして出版文化、言論・出版の自由とは何か、
を考えざるを得ない。
<2004・4・14 橋本健午>
〔追記〕
『戰線文庫』の"最終巻"は、岐阜県立図書館が所蔵する第77号(昭和20年3月号?)あたりかと推定される。
また、興亞日本社は従来、8月期決算であったが、「情報局並日本出版会ノ指導斡旋ニヨル出版事業ノ企業整備ニヨリ設立セラ」れ、
3月期決算に変じたために、その最初(にして最後の?)決算は19年9月1日より20年3月31日の7か月が対象となった(資本金6万円)。
このときの損益計算書にある、7か月間の雑誌売り上げの数字(289,725.99円)をもとに、
単純に計算すると1月に10万3千部以上となる。『戰線文庫』は、全部買い上げであったから、
これは『銃後讀物』に相当するのであろうか。