銃後の"戦場"―野球場はどう利用されたか―(『戰線文庫』番外編)

橋本健午(ノンフィクション作家)
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 それまで、他国に負けたことも、本土を侵略されたこともない"神国"日本は、無謀な戦争、 大陸侵略を仕掛けた。大東亜戦争である。
 しかし、戦争は、戦場だけで行われ、また将兵だけが戦うものでもない。 内地すなわち"銃後"の国民や、あらゆる物品、そして建物・施設までも国家総動員法により"従軍"させられた……。
 たとえば、アミューズメント施設として、戦前から野球をはじめ娯楽の中心だった後楽園球場 (いま、東京ドーム)がそれである。

 その歴史を概観すると、戦時下の施設がどのように利用されたか、そして国民はどのような状況下にあったかが、 今だからこそ推察できる。それを、幸せというべきかどうかは別だが……。

1、日中戦争開始後、元軍用地に野球場が誕生

 昭和11(1936)年12月、大蔵省より旧東京砲兵工廠の跡地3万2千uを約87万円で取得した 株式会社後楽園スタヂアムは、翌年9月に後楽園野球場を竣工する。

 この東京砲兵工廠には当初、本部のほか小銃・砲具・鉄砲や火具などの各製造所があったが、 大正12(1923)年の関東大震災で大きな被害を受けたり手狭になったため、都内や小倉などに工場を分散して、 空地になっていた。

 明治44(1911)年にその近くで生まれた、いま92歳、現役の漫画家、杉浦幸雄は回想する。
「ぼくは本郷元町の三軒長屋で生まれました。…現在は東京ドームや後楽園遊園地で賑わっているところですが、 当時は砲兵工廠といって、大砲なんかを作っている兵器工場があったところです。 水道橋から春日町までずっと工場の煉瓦塀がつづいていて、もう味も素っ気もない街でしたね」 (「あの人に聞きたい 私の歩んだ道(第24回)漫画家 杉浦幸雄さん」 月刊『進路指導』〈財団法人日本進路指導協会〉2001年9月号)。

 昭和11年といえば、2月に皇道派青年将校らによる二・二六事件が起こり、 5月には猟奇殺人の阿部定事件も起こった。この間、4月18日に国号が「大日本帝国」に統一されている。
 野球関係をみると、2月5日に全日本職業野球連盟が結成された。プロ野球の誕生である。 参加したのは、東京巨人軍・大東京・東京セネタ―ス・名古屋金鯱・大阪タイガース・阪急・名古屋の7チーム。 さっそく4日後の9日、名古屋鳴海球場で、金鯱軍と巨人軍による最初のプロ野球試合が行われ、 10対3で金鯱軍が勝っている。

 さて、後楽園野球場である。12年5月の西宮球場につづいて、9月にでき上がった。 竣工式のあとプロ野球オールスターによる紅白試合を行い、巨人軍の水原茂が第1号ホームランを打った、 と『後楽園スタヂアム50年史』(平成2年4月発行)にある。
 そして、同日夜には「軍歌10万人の大合唱付軍国花火大会」が催された。 10万人というのは、グラウンドだけでなく、観客席も満員になっていたのであろう。

 この後、プロ野球以外の多くのイベントが行われる。 「…当時の世相を反映した時局的な催し物も多く開催され、プロ野球の殿堂としてのみならず、 また大衆娯楽場として、『後楽園スタヂアム』の名は東京市民に親しまれていった」(同前)。
 しかし、この年7月7日に日本が中国に武力攻撃し、日中戦争が始まっていた。

 しばらく、同社の年表を眺めて見よう。
 12年9月13日…皇軍に感謝の夕/9月21日…軍事映画と軍国花火大会/9月22日…森永音楽献金の夕/ 10月16日…グリコの会/11月3日…戦勝祝賀音楽と花火大会/11月25日…日独伊防共協定成立奉祝国民大会/ 12月13日…南京陥落祝勝の夕、などが開かれたが、巷では2日前に、南京「占領」の祝賀行事が行われている。
 森永やグリコは今でも隆盛を誇る企業であるが、当時はいずこも"戦争協力"しか生きる道はなかった。

 明けて13年2月27、28日、第1回全日本選抜スキージャンプ大会が行われた。
「雪のない東京のまん中に、シャンツェ建設などという、人々の夢想だにしなかった壮大なプランが持ち込まれた。 なにしろ雪を貨物列車で新潟から東京へ輸送するのは国鉄(現JR)始まって以来のこと。 上越線石打駅から13トン積みの貨車で延べ71両の雪が国電飯田町駅に運ばれ、グラウンドいっぱいに高さ38m、 助走路34m、着陸斜面48mの大規模な飛躍台がつくられ、すっかり雪化粧したシャンツェが現われたときは偉観であった。 /運賃を払って雪を運んでくるというので非常に評判になったし、やぐらが高いのでどこからでも見え、 これが人気をあおったが、その半面、当日になると野球場の周囲は人だかりだが、入場者は少なかった。 しかし、東京で初めての催しだっただけに、当社球場の宣伝効果から見れば、まことに大成功であった」 (「スキージャンプ大会」『50年史』)。

 もっとも、ジャンプ大会は阪神甲子園球場のほうが早かった。
 大正13年8月、甲子(きのえね)の年に竣工した同球場でのジャンプ大会は、後楽園で行われる直前、 同じ年の1月に、全日本スキージャンプ甲子園大会が開かれたと、同球場のHP「阪神甲子園球場史」に写真付で掲載されている。

2、何でも動員できる「国家総動員法」の公布

 後楽園野球場では、同年3月27日に「伊太利親善使節歓迎国民大会」が開かれたが、 その直後の4月1日には国家総動員法が公布された。
 これは『50年史』にも特筆されており、「同法は、『人的物的資源』をあげて戦時の『国防目的達成』のため動員できるよう、 政府に広範な権限を与えるものであった。/総動員物資には軍需品をはじめ、航空機、船舶、車両、 土木建築資材、燃料、電力、食糧などすべての物資が網羅され、また需要に応じて国民を徴用し、 労働争議を制約し、言論統制まで一片の勅令で左右できる内容だった」。

 今年(2003)は、この昭和13年から数えて65年目である。 小泉内閣は個人情報保護法や有事法制・イラク特措法などをむりやり成立させた。 これらは、言論の自由を封じる一方で、"有事"の際には強大な権限が首相に独占・集中する、 国家総動員法の"平成版"といっても過言ではない。すなわち、平和憲法の精神を踏みにじり、 自衛隊をイラクなど戦地に派遣するだけでなく、"銃後"国民にも再びその苦しみを味わわせる可能性が大なのである。 《「有事法制シミュレーション」は、本HP「似非エッセイ」2003年6月下旬号に掲載》

 話をもどそう。その後の後楽園での催し物を見ると、
 13年4月16、17日…春の舞踊祭り/4月17日…関東全映画俳優野球大会/5月14日…軍事野外劇 /7月6日…支那事変勃発1周年記念・軍国仕掛花火大会/7月23日…野外浪曲大会 /10月10日…米国アマチュア女子野球/12月11日…東京学生米式蹴球リーグ決勝戦、などとなっている。
 この女子野球は、「…当時はまだ日米間の緊張もさほどではなく、6畳ほどもある大きな日の丸の旗とアメリカの国旗を、 アメリカの金髪女子選手が持って入場式を行った。試合はソフトボールを用いて行われた」という(『50年史』)。

 なぜ、このようにさまざまな催し物があったのか。また、その成果は?
「当初の企画では、昼も夜もたくさん人の集まる一大歓楽郷を実現したいということで、 野球以外にも各種の催し物を開催したが、当時の情勢では、所期の目的を達成することは困難であった」(同前)。

 14年1月28、29日にも、第2回全日本選抜スキージャンプ大会が開かれ、 3月5日には「巨人軍マニラ遠征帰国歓迎野球試合」で、同球場は初めて満員の客を集め、 4月29日には「少国民大会」が行われ、5月4日には「第8回学童歯磨教練体育大会」となっている。

 いま、少国民はパソコンでは「小国民」としか出ず、広辞苑などにも「(第二次大戦中の言葉)年少の国民の意で、 少年少女のこと」とあるだけである。しかし、そんな生易しいものではなかったのは、 当事者だった方たちの談話に多く見られる。
 つまり、16年4月1日に尋常小学校が国民学校と改称され、子どもたちは軍事教練や宮城遥拝などを課せられ、 小さな皇国民=少国民と呼ばれるようになり、大人の期待を浴びながら、天皇への忠誠を誓うよう教育させられる子どもたち、 を指していた(HP「少国民」より)。
 のち、17年2月11日には、日本少国民文化協会が発足している。

 さて、当時のプロ野球はどのような状況にあったか。なぜ、マニラ遠征をしたのか。 元巨人軍捕手の楠安夫は、次のように回想する。
「戦前のプロ野球界というものは、学生野球に押されて、観客動員もままならず、 看板ゲームの巨人―阪神戦にしても、1万5千人も入れば、『今日はよう入ったなあ!』と、いった有様であった。 /それだから全球団赤字経営である。…(球団経営者の市岡忠雄さんも)何とか黒字にしたいということから、 14年、15年と2度にわたってマニラ遠征をして、シーズン・オフに出稼ぎに行くなど経営努力をしていたのである」(「沢村さん 今こそプロ野球を見守ってほしい〈戦前から戦後まで〉」『別冊1億人の昭和史 日本プロ野球史』毎日新聞社1980・4)。

 ついで、15年の後楽園をみよう。  3月8日…紀元2600年奉祝第1回東京市長杯争奪野球大会/4月20日…征戦愛馬の夕「暁に祈る実演大会」4万名の合唱 /5月26日…日本海海戦大ページェント/7月6日…聖戦3周年記念「皇軍感謝の夕」 /7月20日…紀元2600年記念「演芸と花火大会」/8月13日…海軍渡洋爆撃記念の夕/9月14日…傷病兵野球大会 /10月11日…銃後奉公芸能大会/11月10日…紀元2600年奉祝映画大会「民族の祭典」 /11月28日…航空感謝祭と大行進、などとある(「民族の祭典」に関して後に触れる)。

 この年、神武天皇即位の年を元年とする皇紀2600年の節目の年として、 一般公募の「紀元2600年」という奉祝国民歌が街中に流れ、11月10日には政府主催の奉祝式典が行われた。 提灯行列などを伴った式典は、外地を含め14日まで続けられたという。 そして、この年以降生まれた子どもには、「紀」の字のつく名前が流行った。

3、隣組などの整備、そして大政翼賛会の結成

 一方、戦争に反対する動きも含め政治や経済、国民生活は? そして欧州では?
 2月2日、民政党の斎藤隆夫が衆院で軍部の戦争政策を批判して問題化 (反軍演説事件。3月7日、衆院除名を決議)/同11日、紀元2600年を祝い減刑令・復権令の発令 /5月13日、第1回報国債券発売。国策協力のためと1等1万円の夢が人気となる (1枚10円で、総額2500万円。1日で売切れ)/6月11日、聖戦貫徹議員連盟が各党首に解党を進言するなど、 "挙国一致"の動きが加速する。
 さて、"1等1万円の夢"とは、国民はよほどお金を持っていたというべきか、 あるいは神国(深刻)日本に賭けたというべきか。

 そして、キナ臭くなった欧州では6月10日、ムッソリーニのイタリアが英・仏に宣戦布告し、 14日ドイツ軍がパリに無血入城する。一方、18日フランスのドゴール将軍がロンドンから対独抗戦を呼びかけ、 自由フランス委員会が設立された。
 これらに関し、日本では6月21日、陸軍省と参謀本部がヨーロッパ情勢の展開に対応する戦争計画を討議。 事務当局案として「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を作成した。 そして、24日に近衛文麿は枢密院議長を辞任し、新体制運動推進の決意を表明する。 これを契機に陸軍と「革新」右翼が米内内閣打倒と近衛内閣樹立に向け運動を活発化させるのだった。

 そんな中、6月22日に文部省は修学旅行の制限に関する通達を出し、18年には全面中止となった。 また、7月6日には奢侈品等製造販売制限規則が公布、翌7日に実施された。 これを7・7禁令といい、絹織物・指輪・ネクタイなどの製造が禁止された。

 7月22日には第2次近衛内閣が成立し、26日に政府は「基本国策要綱」を決定し、 大東亜新秩序建設と国防国家体制の確立を明記した。翌27日、大本営政府連絡会議を開き、 「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定。すなわち、日中戦争の処理、日独伊枢軸の強化、 仏印の基地強化、南印の重要資源確保などの主張を明記する。 なかでも対英米戦争を想定した南進政策を公式に打ち出すのだった。

 8月15日に民政党が解党し、これで全政党が解党されるという事態に至った。 9月11日内務省は、「部落会・町内会・隣保班・市町村常会整備要綱」という訓令を出し、 部落会・町内会・隣組のそれぞれに常会の設置を決定したのである。
 トントン、トンカラリと隣組…と歌われた隣組とは、「政府―知事―市町村長―町内会・部落会―隣組 という上意下達機構の末端組織」であった。 その隣組の常会は、「カタ苦しい常会やら、のんびり世間話型とか、それぞれ地域差があって、 (東京)下町では物々交換の場になるなど、さまざまなパターンがあった」という (漫画集団編著『漫画昭和史 漫画集団の50年』河出書房新社1982より)。
 もっとも、これは世の中を素直に見ず、風刺を旨とする漫画家の表現であろう。 多くは、小ボスが威張る"組織"ではなかったか。

 その後、9月26日、アメリカが日本の北部仏印武力進攻に対抗して対日屑鉄全面禁輸を断行すると、 翌27日には日独伊三国同盟が締結された。これにより、日本は米英仏蘭支等連合国との対立激化となり、 国内では10月12日、近衛文麿を総裁とする大政翼賛会が結成された。 その綱領は「大政翼賛の臣道実践」であるが、政治組織化には失敗したとされる。
 しかし、11月13日の御前会議で、「支那事変処理要綱」を決定したのは、 期限付きで重慶政権との和平交渉を意図したものであった。

 ところで、娯楽がなくなることで、国民生活はますます窮屈になる。
 9月13日、講談落語協会は艶笑物・博徒物・毒婦物・白浪物の口演を禁止し、 10月31日には東京のダンスホールが閉鎖され、その日、各ホールはラストダンスを楽しむ人で満員となったという。 一方で、国民体力法の実施(9月26日)により、17〜19歳男子の身体検査が義務化され、 体力手帳を交付されるのだった。

 スポーツ用語の日本語化が進む、この年に流行ったコトバは、新体制/大政翼賛/臣道実践/八紘一宇 /バスに乗りおくれるな/ぜいたくは敵だ/祝ひ終った、さあ働かう/あのねーおっさん、わしゃかなわんよー、 などであった。

4、時局下、イベントも戦時色一色に染まる野球場

 日本で、先述のドイツ宣伝映画「民族の祭典」が上映されたのはこの15年。 4年前の11年8月にベルリンで開かれた第11回オリンピック大会の記録映画である。 マラソンで優勝した孫基禎は韓国人だが、当時は植民地化されていたため"日本人"で出場し、 「日の丸」に「君が代」で表彰されたため、民族感情を刺激したという。

 少し話は飛ぶが、『李陵』『山月記』などの作品を残し、若くして死んだ作家の中島敦は大変な子煩悩で、 南方群島(いまのミクロネシア)に赴任していた当時(16年6月〜17年3月)、 東京の留守宅にいる小学生だった長男桓あてに数十通のハガキを出していた (川村湊編『中島敦 父から子への南洋だより』集英社2002・11)。

 そのうちの一枚に、こうある。「君は、『みんぞく の/さいてん』といふ えいぐわ/を見たんだってね。 /よかつたらう?/日本の せんしゅ が/マラソン に 勝つ/ところなんか、とても/いいね。 /(16年)十一月二十八日(4)サイパンにて」
 反軍国主義・反植民地主義者であったという中島でも、わが子に対しては"愛国者"であったのだろうか。

 もう一人、映画解説者の淀川長治の回想がある。 当時、ドイツ映画「民族の祭典」(および同「美の祭典」)と同じころに封切られた、 アメリカ映画「駅馬車」の宣伝担当だった淀川は、宣伝力で圧倒的に負けて、それら映画を恨んでいたという。
 がしかし、「この『民族の祭典』と『美の祭典』は、見事な、もう、今日までのスポーツ映画の最高ですね」と認めつつ、 「で、日本の、日本に送るフィルムに、その日本の旗を、掲げるところを入れてるなんて、というのが、 いかにも、ヒットラーでしたね。というわけで、この映画で、どんなに、日本人が、全部、 ドイツびいきになった。それだけでも恐いと思いましたよ」と(HP「淀川長治」より。発言時期不明)。

 ところで、中島敦は妻あての手紙に次のように記す(16年11月9日付)。 中島の職種は南洋庁編修書記といい、現地人向けの日本語教科書を作るのが任務であった。
「さて、今度旅行して見て、土人の教科書編纂という仕事の、無意味さがはっきり判って来た。 土人を幸福にしてやるためには、もっともっと大事なことが沢山ある。 教科書なんか、末の末の、実に小さなことだ。所で、その土人達を幸福にしてやるということは、 今の時勢では、出来ないことなのだ。今の南洋の事情では、彼等に住居と食物を十分与えることが、 段々出来なくなって行くんだ。そういう時に、今更、教科書などを、ホンノ少し上等にして見た所で始まらないじゃないか。 なまじっか教育をほどこすことが、土人達を不幸にするかも知れないんだ。 オレはもう、すっかり、編纂の仕事に熱が持てなくなって了った。土人が嫌いだからではない。 土人を愛するからだよ。ボクは島民(土人)が好きだよ」(『中島敦 父から子への南洋だより』)。

 教科書といえば、日本国内の状況はどうだったか。少し時代はズレるが、昭和19年か20年ごろの、 ある母親の証言である。
「わたしたちは大同印刷や日本印刷へも徴用で行かされてね、 占領した外国にいる日本人の子どもたちの使う教科書を作るわけですよ。 こちらにいる子どもは粗末な本を使ってるのに外国に送るのはとても立派なもので、 この一冊でももって帰って子どもに見せてやりたいと思って製本しながら泣きました」 (「私たちの東京大空襲」『多摩市民の戦争体験』多摩市民の戦争体験を記録する会編、彩流社1982)。

 たぶん、日本は豊な国であると、"敵国"に見せつけたかったのであろう。 それを裏づける旧内務省役人の談話がある。このころより、かなり前で、 すでに物資が乏しかったことを物語っている。
「(綜合雑誌について)要望はいろいろあるが、執筆者も編集者もしっかりした国策的見地を持ってもらいたい。 たとえば、革の統制で、靴を履かない女学生の足がズラリと並んだ写真と記事が出ると (国民に節約と貯蓄を奨励する上で効果はあるが)、支那に行くと日本はこんなに貧乏して困っているという宣伝になり、 支那兵の士気を鼓舞することになる」 (「二、当局は雑誌に斯く望む 内務省、陸海軍省雑誌研究会の速記抄録」昭和13年3月。 昭和14年版『雑誌年鑑』所収)。

 さて、『50年史』にもどろう。
「昭和15年から16年にかけて戦時色は一段と濃厚になり、世相は暗くなった。 銀座街頭では婦人会の人たちがタスキ掛けで、パーマネントや長袖和服姿の女性を呼びとめて、 「パーマネントはやめましょう」「お袖を短くいたしましょう」などと注意した。 街には「ぜいたく品は敵だ」の看板が立った。 15年10月には大政翼賛会が誕生、11月には紀元2600年の式典が挙行された。 そして16年12月8日、真珠湾攻撃によってわが国は太平洋戦争に突入した。 こうした時局下、イベントも戦時色一色に染まった」。

 16年の後楽園では、2月18日…消火弾による消火実験/3月9日…軍用犬鍛錬競走大会 /5月14日…軍国歌謡「さうだその意気」発表会/5月26日…海軍記念日を迎える夕 /7月7日…銃後奉公愛国大会/8月2日…銃後後援の集い、とつづき"臨戦体制"が露骨になってくる。

5、大東亜戦争が始まり、"反軍国主義者"中島敦でさえも…

 そして、この年12月8日、日本軍のマレー半島や真珠湾攻撃で、ついに太平洋戦争に突入する。 長年、閉塞感を味わっていた日本人のなかには、やっと始まったかと快哉を叫んだ者が多かった。 これを「15年戦争」という所以であろう。

 ふたたび、中島敦の手紙を見よう。同年12月11日付息子あてハガキは「桓!/日本の海軍は強いねえ。 /海軍の飛行機は/すごい ねえ。」と単純明快である。
 ついで、同14日付妻あての手紙にはこうある。 「いよいよ来るべきものが来たね。どうだい、日本の海軍機のすばらしさは。 ラヂオの自由に聞けるそちらがうらやましいな。(中略) /戦争が始まって、そちらでは、さぞ、南方のことを心配してくれてゐることと思ふ。 しかし、このサイパン・テニアン地方は、全く平静だ。実際の所、グァムは他愛なく、つぶれるし、 この辺は空襲を受ける心配もまづ無いからね。パラオの方は、フィリッピンに近いので、 幾分の危険があることは確かだが、それも、大したことはあるまい。(中略)」 (『中島敦 父から子への南洋だより』)。

 17年に入ると、後楽園では3月1〜4日の第1回巨人対大洋定期戦後にアトラクションとして軍服を着用し、 手榴弾投げを行うなど、"銃後"に手抜かりはなかった。
 しかし、4月18日の白昼、ドウ・リットルの指揮する米軍艦載機が東京地方を襲ったことから、 にわかに"戦争"が身近に迫ってきた。この日、巨人対黒鷲の試合が予定されていた。 選手がグラウンドに出て練習を始めたとき、とつぜん警視庁からの指令で、 「今日は空気が険悪だとの軍部からの注意があった。野球は中止せよ」といってきた。 さっそく中止を決定し、観客に半券を返し終ったとき、頭上を低くかすめるように、米軍艦載機が飛んでいった。 これが当社の戦争との最初の出会いであった、と『50年史』は記録する。

 こういう証言もある。プロ野球以前から、あらゆる野球を見てきたという福室正之助(福室野球博物館館主)によると、
「17年になると戦時色が強くなり、たしか開幕の日、3月29日には後楽園と西宮球場にナベやカマなど鉄類を持っていくと無料で入れました。 いまはプラチナペーパーなどといわれるのに。そして試合前には手榴弾投げが行われたり、 (選手らの)抗議は一切なし、したがって退場もなしという時代になりました」 (「潮の香りの須崎球場」『日本プロ野球史』)。

 上記のような、"空襲で試合中止"は世界の野球史上ただ一つの珍記録だそうだが、福室によると、 「東京はもちろん最初からやらなかったのですが、4月18日の土曜日で六大学も中止、甲子園はやりました」。 しかし、変則ダブルヘッダーの2試合目(阪神対名古屋戦)は、「試合開始2時44分、空襲警報発令で2時48分」 で中止となった(観客は3500人)。
 18年からは入場券の裏に、「空襲によって中止のときは払い戻しはいたしません。国防献金にいたします」 と印刷されるようになったという(同上)。

6、慌てた軍部、球場に高射砲陣地を設置

 つづきを、そのまま引用しよう。
「太平洋戦争突入と同時に夜間演芸は防空上の見地から一切中止していたが、 昼間の各種催し物はつづけていた。そこへこの東京初空襲で、これは軍部にも相当のショックを与えたらしく、 今後の空襲を予測し、防空上必要だという理由で、東部軍から当社の土地全部を使用すると申入れてきた。 高射砲陣地を設置するというのである。/軍の高射砲設置のねらいは、 皇居を中心に外苑・日比谷公園・新宿御苑・芝公園・晴海・ドイツ大使館(現・国会図書館)前 ・後楽園などから集中的に砲弾が敵機に届くように考慮されたものであった。
 したがって、野球場そのものは観測の死角にはいるので、最初から重要視されていなかった。 必要なのはその周辺の空地だった。(中略)/最初は2階の一部に囲いをして機関銃を設置し、 東部第1900部隊指揮下の1個中隊が派遣されていたが、その後スタンド下の一部も軍部に貸すことになった。 高射砲は現在の遊園地付近の地点に据えられ、高射砲陣地は塀で囲われた」(『50年史』)。
 しかし、その高射砲も、編隊で飛来するB29には、ほとんど当らずというより、 射程距離が短く届かなかったという。

 当時について、元プロ野球選手だった苅田久徳は回想する。
「戦時中の思い出ねえ、ヨーシ1本とか戦闘帽をかぶって試合をしたことはよく知られていますね。 後楽園の2階は高射砲陣地なって、観測兵がいつもいたものですよ。 おまけに入口のところには土嚢が積まれて2基の高射砲が置いてありましたっけ。 今、遊園地のジェットコースターのあるところですよ。/選手もどんどん兵隊にとられていく。 私のいた大和軍も最低のときは13人でやったものです。守備に出るとベンチはもうガラガラのもぬけのカラ。 だから交替など思いもよらなかったものです。例の延長28回の名古屋対太洋戦なんかも、 7回に私が山川の代打で出てそのまま2塁を守ったのがただ一人の交代選手、 両軍計19人の選手でプレイしたものです。昭和17年のことでした」(「戦闘帽と野球」『日本プロ野球史』)。

 軍部との関係はどうだったか。苅田はつづける。
「…選手もいつ応召されるかわからない、というのは何ともいえない気持でしたね。 そのため、軍部、特に陸軍には協力する。ということで、いろいろ気を使いました。 /橿原神宮に参拝したのも、満州遠征のときには神戸から船に乗って大連につくまでの3日間、 毎朝、宮城遥拝をしたのも、聖戦に協力する態度を示したものです」(同前)。

7、戦時一色となり、球場で航空機献納も

 この17年の9月20日には、海軍への「報国」機の献納(命名式)がこの後楽園球場で大々的に行なわれている。 第1号神道・仏教・基督号(1式陸攻)や、岩波号(零戦)・東京私立学校号(99爆撃)など 37団体・会社などの50機ほどである。
 海軍への航空機献納式は東京では羽田が多く使われたが、九段、神田、日比谷や築地でも行われた。 翌年9月20日に日比谷で献納命名されたのは、40団体・会社などの74機ほどに上り、 文藝春秋号(戦闘機)や全国煙草小売人による陸攻25機を含んでいる (横井忠俊「報国号海軍機の全容を追う」『航空情報』1984年2、3、12月号)。
 ちなみに、陸軍の場合は「愛国」号という。陸海両軍に対する献納も、 国民は相譲らずの"一生懸命"さであった。

 ちなみに、「新日本号」の名で、多数の献納をしていた朝日新聞は、東京・大阪の両紙で大々的に 「軍用機献納資金」を集めていた。13年9月16日〜20日の献金状況を見ると(合計は累計)、
 9/16…東朝2844円61銭/大朝1万162円15銭/合計534万993円20銭
 9/17…東朝2796円09銭/大朝1万3520円16銭/合計535万7309円75銭
 9/18…東朝5008円64銭/大朝5022円35銭/合計536万7340円74銭
 9/19…東朝432円61銭/大朝7024円09銭/合計537万4797円44銭
 9/20…東朝5181円75銭/大朝4227円75銭/合計538万4213円92銭
個人で500円という例もあるが、多くは小さな金額であったことだろう。 それにしても、大阪朝日のほうに集金力があったのか、関西に金持ちが多かったのか。

 再び、後楽園。10月8日に第1回傷痍軍人錬成大運動会が行われるが、 『50年史』はのちのちまで語り草になっているものとして、「ハワイ・マレー沖海戦」上映と サーカス興行を上げている。
 「17年12月1日には、評判をとった『ハワイ・マレー沖海戦』映画大会が開かれた。 東宝の制作になるもので、開戦当初の日本海軍の威力を100%生かした輝かしい戦果の映画化であったため、 国民の関心も強烈で、戦意高揚のためにも絶好の映画であった。 映画のスクリーンはセカンドベース付近に張られ、横43mの大きな画面であった」。

 さらに、同球場では「12月5日から14日まで、海軍省の後援で、大東亜戦争1周年記念 「映画報国米英撃滅大展覧会」が開催された。 『ハワイ・マレー沖海戦』の映画撮影に使用した真珠湾の模型をそのままグラウンドに移し、 市民に見せたのである。山あり海ありの大模型が内外野を埋めつくし」た。 入場料がタダだったせいか、入場者は毎日1万名から2万名に達し、好評だったという(同前)。

 ついで、「翌18年1月1日から40日間にわたって木下サーカスを開催した。これも大きな人気を呼び、 戦時中の当社の催し物のなかでは最高のヒットとなった。(中略)仮設興行としては空前の大がかりなもので、 4000名収容できる大天幕を張った。これは歩合興行で、当社は木下サーカス団に対して10万円の最低保証をした。 この頃になると、戦局の悪化により、紙も印刷能力も不足し、手書きビラを従業員が手分けして電柱に貼って歩くなど、 ひとかたならぬ苦労をしながら、団体動員に主力を傾注した」という(同前)。
サーカスは、今でも人気があるのは何故だろう。

8、ついに、スタンドの金属製椅子も供出

 後楽園は18年2月1日に東部軍と土地建物の一部賃貸契約を締結するが、その後の催し物を列挙しよう。
 2月27日…「撃ちてし止まむ」米英撃滅少国民大会/3月4日…女子中等学校武道錬成大会 /3月10日…第38回陸軍記念日行事・芸能報国大会/3月27日…産業戦士激励慰問野球大会 /4月1日…皇国生産者全国大会/5月25日…帝国海軍に感謝を捧げる女性大会 /6月6日…東京青少年団指導者大会/6月12日…空の戦力増強推進野球大会 /10月7日…第2回傷痍軍人錬成大運動会/11月14日…学徒空の進軍大会と、目白押しである。
 ままならぬ事態というか、ヒマを持て余してよけいなこと(「日本は大丈夫か」など) を考えぬようにという配慮からか、国民各層が"総動員"されていたことがわかる。

 この間、10月31日、ついに「金属回収の指令にもとづいて、スタンドの金属製取付け椅子1万8,000個を取り外して供出した。 その後、2階のスタンドには機関砲のほか電波探知器や観測器などが据え付けられ、 電波キャッチを容易にするためとして、付近を通る市電も速度を落とした。 またバックネットの網は電波を吸収するので、網を上げ下げできるよう工夫し、さらにのちには、 ネットに大きな布をはったりし」て、同球場はますます軍事施設化していったという (「菜園となったグラウンド」『50年史』)。

 これらの状況は、甲子園球場も例外ではなく、「18年8月6日にはアルプススタンドの大鉄傘が供出され」 ている(HP「阪神甲子園球場史」)。

 上野動物園の動物たちも、戦争の犠牲者で、この年8月末までに殺処分された。他の動物園への移送も検討されたが、 どこにいても動物たちが驚いて暴れ出すなど空襲時の混乱に備えての毒殺で、 象3頭、豹4頭、虎1頭など計25頭と毒蛇が対象となった。
 中でも、毒の入って餌を食べず、餓死するまで約1か月も芸をして餌をねだる象たちの様子を描いて、 この悲話を伝えたのは土家由岐雄作/武部本一郎絵の絵本『かわいそうなぞう』(金の星社1970年)である。

 19年に入ると、後楽園は1月7日に後楽園運動場と社名を変更し、5月7日〜23日には大相撲夏場所を招致し (10戦全勝の横綱羽黒山が優勝)、9月6日には東部軍が運動場全部を接収し、高射砲陣地とした。 もっとも、9月20日には日本野球総進軍東京大会という戦前最後の公式戦が行われ、 11月10日〜21日には再び大相撲秋場所が行われている(9勝1敗の大関前田山が優勝)。

9、敗戦で球場も接収され、日本軍の兵器が山積みに

 20年4月14日、東京空襲で後楽園球場の一部も被爆した。8月15日の終戦を迎えたものの、 11月14日には進駐軍に接収された。
「昭和20年8月15日の終戦とともに、平和がもどってきた。だが、あまりにも無残な戦いの後で、 東京は見渡す限りの焼け野原であった。当社球場も例外ではなかった。グラウンドは野菜畑で、 スタンド下の兵舎から、兵隊たちは復員していたが、そのあとは文字通り台風一過の惨憺たるものだった」 (「無残な球場」『50年史』)。

 これはどこでも見られた光景で、たとえば、ある女性の手記にはこうある。 「四年生の頃(昭和19年)…(台東区の国民学校の)ひろい校庭もすっかり耕され、 さつまいもなどが植えられていたが、結局は小ゆびほどのいもしかできなかった」 (「私たちの戦中・戦後」『多摩市民の戦争体験』)。
 それだけではない。学校へ行くが弁当を持って来れず、「忘れた」といって食事の時間を外で過ごす子どもも多かった。

 先の「無残な球場」は、さらにつづく。「やがて当社球場は、敗戦日本軍の兵器の集積場にされた。 各地から機関砲や高射砲などが集められ、グラウンドの畑の周囲にうす高く積み上げられた。 進駐軍に引き渡すためである」(『50年史』)。

 この光景は、他の球場でも同じであった。
「敗戦とともに各地の野球場は一時、日本軍の兵器の集積場に指定され、各地から集められた機関銃、小銃、 高射砲などがグラウンドに山積みされ、占領軍に引渡された。 そして、昭和20年11月23日神宮でのプロ野球東西対抗戦で球音は復活した (入場料は6円均一、有料入場者は5878人)」と、毎日新聞記者(当時)の鳥井守幸は記す (「日本野球場物語」『日本プロ野球史』)。

 甲子園球場は、「20年8月の西宮大空襲を受けた後、10月3日にはアメリカ軍により球場を接収された。 /グラウンドとスタンドの接収が解除されたのは22年1月のことで、 その3月には選抜大会が復活し今日に到っている」(前掲、HP「阪神甲子園球場史」)。
 今年も間もなく、第85回の全国高校野球選手権大会が始まる。

 ちなみに、戦後の後楽園は、どのように展開し始めたか。
 21年1月1日〜31日…第3回後楽園大サーカス/2月6日…進駐軍による接収解除 /4月6日…野球再開第1戦(全早慶戦)/4月20日…プロ野球再開(第8回読売旗争奪戦) /5月5日…後楽園軽音楽の夕/5月23日…フィリピン独立記念祝賀ボクシング大会 /6月8日〜17日…粉食加工実演会/6月18日…海外同胞引揚者基金募集ボクシング大試合 /6月29日…野球クジ発売/7月14日…ピストン堀口兄弟出場ボクシング試合 /9月11日…国際親善ボクシング試合/10月20日…芸術復興際、野外ページェント……。

10、おわりに

 敗戦後の日本を生き返らせたのは「朝鮮特需」のほかに、占領軍(アメリカ)が "野球"をキーワードにしたことがあげられる。 そこには、日本人の、"鬼畜米英"に躍らされたものとはちがう要素も伺えるが、 今また、さらに異なる親米気分が横溢?している日本人には危惧の念を抱かされる……。
 野球に殴り合いのボクシングが加わり、平和な戦いの場と化した後楽園だが、今の政治状況を見るかぎり、 再び国と国の戦いに借り出されないという保証はない。

 戦時中、娯楽の"殿堂"後楽園を例に、戦争が"銃後"国民生活に与えたさまざまな材料を列挙してきた。 しかし、催し物がどのようなものであったか、国民はどう受け止めていたかなどを調べる必要も痛感している。 本稿をとりあえずの中間報告とする次第である。
 なお、本文中の出来事などは、神田文人編『昭和史年表』(小学館1986)などを参考にした。

【付記 本稿は、『戰線文庫』研究のさなか、同誌を発行していた興亜出版社が戦前、 後楽園球場に広告(看板)を出していたという事実を確かめるうち、副産物として生まれたものです。
 未だ、その広告(看板)を確かめるに至っておりませんが、海軍を後ろ盾にするとはいえ、一出版社が、 なぜあの球場に広告を出せたのかという興味は尽きません。
 ご感想・ご意見ならびにご教示をお願いする次第です。   2003・8・6 橋本健午】


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