”書くこと”  「東北 一周旅行」(Aug.1〜Aug.11 1962) アルバムより

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〔前説〕
 大学1年の夏(1962年、20歳)、アルバイトで貯めた、なけなしの金(6000円ほど)で、同級のHと東北旅行を行うことにした。
 ところが、4月に知りあって、ワイワイがやがやと、上野駅まで見送りに来た男女のうち、ある教授の息子Bが「俺も行く」と、 入場券(10円)のまま夜行列車に乗り込み、翌朝は仙台駅で、先に下りたわれわれに入場券を買わせ、松島見物などをともにし、 もう一泊同行して帰っていった。後で聞くと、総額30円の旅だったという。
 東京育ちのお坊ちゃんは、こんなことをして粋がっていたが、私には"親切"で、このときも楽しかったが、 三人ではどうしても一人があぶれる。お坊ちゃんが、いざ帰ると、Hはいった。「やっと、二人になれた」。 気持ちは分かるが、誤解を受けそうなセリフだった。
 次に掲げるのは、そのときの写真集にある説明だが、旅の後半になり、東京行きの上り列車のアナウンスで、 実家のある「宇都宮」を告げられると、Hはにわかに里心が起きて、このまま帰るという。
 じつは二人で、天童の同級生(女性)を訪ねる予定だったので、慌てた私は、帰る理由を書いてくれと、 なぜか彼の吸うタバコ1本に書いてもらって、彼女に渡したものである。
 告白すると、彼女に、それとなくホレられていた(と思う)私は、一人で来たのはHを追い返す"策略"ととられては叶わないと思っていたのだ。 さらに、文中にあるように、同時に東京から、別の女性がやってくることになっていたのだが、"2ペア"の予定が狂ったのは事実である。
 しかし、"懐かしい"顔を見たとたん、私は緊張感が緩んだせいか、旅行の話をしながら、どうもHのことをあまりよく言わなかったらしい。
 待ちに待った"恋人"がやってきて、甘いささやきの代わりに、聞きたくもない"悪口"では、百年の恋も冷めるというオソマツだったのではないか。
 ああ、青春とは何と残酷なものであろうか?! (2003・3・21橋本健午)

 ≪日程 1962.8.1〜8.11≫
 8・1東京・・・・・8・2仙台・松島・・・・・8・3平泉・盛岡・・・・・8・4渋民・青森・・・・・8・5十和田湖
・・・・・8・6秋田・・・・・8・7男鹿半島・・・・・8・8天童・・・・・8・9山寺・・・・・8・10蔵王・・・・・8・11東京

 「青葉城趾」
 "城"という言葉からは、どんな素晴らしい想像も浮んで来ない。15才のころは観念も具象も否定したが、しかし依然として、その存在は強固のものであった。

 「傍観者の眼、一体どこについているのか?」
 〈線路工夫〉
 ひところの、プロレタリアの詩にも出て来そうな題材だ。そうでなければ、ロマンチックな少年時代の夢の中にだ――とはいえ、彼らの物言わぬ目を見よ。

 〈かつぎ屋と旅行客〉
 指輪の彼女とメガネの男その他が、私たちの周りに乗り合わせていた。 また、同時に見える二人の疲れたような女、網棚のカゴに注意せよ。 あたりかまわず大声でしゃべり、食い、そして金のカンジョウを忘れない、そういう人生を送っている彼女ら……なんだか、メガネの男も自分の置かれた位置を認識していないようだ。

 〈盛岡〉
 地方都市においては、"駅"の占める位置、はたす役割は決して無視できないもののようだ。都市の画一化に急速の足どりだ。

 〈岩手大学北駆寮〉
 この寮、うす気味悪くて、また少しロマンチックだった。彼らは平然としているようだったが、五感喪失者だった。 私たちの泊まった部屋には(これは学芸学部の寮だったが)、小学生に見せる紙芝居とエロ本が雑居していた。 (先生〈センセ〉もやっぱり人間なんだ!)

 〈渋民村〉
 出口を出ようとした時、人の良さそうな駅員が「ちょっと待ってください」と言って、中に引っ込んだ。 そして、次に現われたとき、彼は手に啄木案内図を持っていた。

 台風が無事通過したあくる日、私たちは渋民に立寄った。日は照らず、外界の空気は冷たく、まことにわびしい日で、 北上の水は泥でにごり、空には雨雲が走り、足どりは重く……。だが、やがてすべてが晴れる時が来た。 そこには、まだ自然が残っていたからだ。
 中央に小さく見える彼女とは以後、青森まで同行。次の日、奥入瀬で会い、十和田で会い、三日目には秋田で夜、 竿灯の後に会うという奇縁を持った。だがしょせん、私には関係のないことだった。

 〈奥入瀬>
 本来なら、自らの足を信じて歩くべき処を、愚かにも文明の利器をたよったので、喜びもなく、また感激もうすく、 ただ小さくなるより仕方がなかった。一刻も早く十和田湖へ近づきたいという欲望のために……

 〈十和田湖〉
 水のひどくきれいな処だ。それは神秘で、荘厳な色をしていた。何も語りかけては来なかったけれど、無限に、すい込まれるような不思議な気持を味わった。
 そこは、まだ自然の方が大きかった。人間が自然に勝てないという真理も、ここにおいては当然のことのように思われ、少々日本を愛したくなった。

 〈S家の庭〉
 十和田湖畔では、始めからヤドのあてはなく、当ってくだけろと思ったが、意外にうまくいった。 この付近では年中ストーブをたいている。部屋の中はあつく、少々面くらったが、それ以上に面くらったのは、 彼らと私たちの間に何の意思疎通もなかったことだ。

 〈三戸の彼女〉
 S家に居たので、当然そこの子供だと思ったが、親類の娘さんで、次の日、私たちと同じバスで、三戸へ帰って行った。
 神杜の処で、この娘と親しくなって、S家に遊びにいった。お茶とお菓子を出してくれたが、その時、頭をかすめたことは、 インド原住民とイギリス人提督のことだった。

 〈男鹿半島〉
 予定にないコースだったが、しきりにすすめられて行って見た。日本海は初めてではないが、小さな船で、 嵐の前の荒波にゆられては"観光"どころではなかった。

 〈"跡見"のお嬢さん(3人)達〉
 船で一緒になり、"美談"を運びながら、戸賀まで一時間半。皆さん、船には苦しんだが、少し休めば、ご覧の通りの元気さ。
 中央の彼女は、勤めている。帰りのバスの中や喫茶店で、音楽の話などしていたら、隣の彼女が、「共通の話をしましょう」とおっしゃった。

 〈秋田駅ホーム〉
 彼女らも東北旅行中であったが、秋田大学の啓明寮の近くに自宅があって、そこが根拠地のよう。 男鹿半島の後、一たん別れた後、待合せをして竿灯のおつき合いをして(おまけに迷子になって)、 次の日には、ごていねいにも駅までお見送りにきてくれた。
 実をいうと、東京の彼女はスネちゃっている。後ろを向いて、新聞を見ながら、「また、巨人負けた」となげいていた。

 〈花札と好本〉
 目の前の左右の座席で、やっていた。こちらは老人だったが、いかにも田舎のボスってなタイプだった。 金額は小さかったが、テンポは早かった。手前の雑誌を持っているのは、女である。 彼らは私たちの存在を全く無視していたが、反対側の若者たちの方は、カメラを向けもしないのに、なにか悪いことをやっているという意識が強く、哀れだった。 共に、北海道からのようだった。

 〈天童〉
 天童を訪れる客は、相手に不親切だった。一方は予定より遅く来て、もう一方は東京から早く来るという有様だ。 それでも、"宿屋の主人"は寛容だったので、何だか申訳ない気がした。

 天童――素晴らしい処である。四方が山に囲まれている、まさにそのことが心を楽しませてくれる。 私は自然が好きだ。しかし、今までそれ程、それが愛されるべきところまで、愛していないということを空しくも悟った。
 "自然主義者"は自然を賛美する。それはちょうど"目黒のサンマ"に類する要素が多分にある。本来なら、そうあるべきではない。 人為以前に、自然は存在するのだから。
 そこにおいて、私の感じたことは、山のある風景の美しさである。私は今まで何度も山というものを見て来たが、 ここから見る四囲の山ほど、私に対し、山としての存在を誇ったものはない。
 私はもっと"自然主義者"になろうと思う。そして、自然に対するとき、できるだけ虚心になろうと思う。

 〈蔵王〉
 {スナップ1}頂上に後数十メートルの処(1750m位)、すごいガスで、風もひどく、何も見えなかった。
 {スナップ2}他所見していて済みません!? でも別に、彼女以上に惹かれた人がいたわけじゃありません。

 幾重にも山にかこまれ…"遠景"は遠くから見るに限る。現実なんて、自分にせまって来ない限り、人は愛しも憎みもしないものだ。

 アルバムに貼った写真の説明は、ここまでである。(※写真はいずれ掲載予定)

 そのアルバムのお終いに「旅行記or編集後記」があり、次のような次第である。
 別紙に記そうと思い、メモを頼りに書き始めたが、不得要領でちょっと収拾がつかなくなり、途中で放棄したため、未完に終っている。 根気のなさと、ヒマのないことは残念だが、時には悲観しないことも身の為だろうと思って、代わりにこんなものを作った。
 旅行は、一体成功したのか、失敗したのか判然としない。それは考慮するほどのものではないかも知れない。 とにかく、楽しかったか、楽しくなかったか、面白かったかなかったかによって、評価を下すべきものかも知れない。
 しかし、どんなつもりで旅行したのやら、どうしてそこへ行ったのやら、自分でも判っていないようだ。
 それは、このアルバムを一見しても判るだろう。とに角、首尾一貫したものはないのであるから。
 目で見るときと、カメラで見るときと、さらに心で見るときは、いずれも常に同じであるべきはずだ。 その眼がどこについていてもいいようなものだが、落ちつきがないというのは悲しいことだ。
 あまりにも当然のことが、少し重荷になりすぎているようだ。
 だれが何と言おうと、別に自分の尊厳が傷つきはしない。時々、自分をホウキして、荊ク現実に別れを告げたいのだが、 それも容易なことじゃないらしい。他人と関わりを持つということは、わずらわしいことだ。 ただ表面的には、そして快楽はやはり人間の根本に訴えるのだが、それがいつまでも続くと、面倒くさくなる。
 他人はいつも同じ状態を望むであろうが、そんなことはとても請け負えない。
 しかし、"貴族"にとっては他人が関わりを保ってくれなければ、自己の存在はあやしくなるというのだから、哀れむべしである。
 しかし、精神において、堕落するなら身を亡ぼした方がどれ程安全か知れない。
 誰にとっても当てはまるからといって、すべてが承認されるとは限らないのだ。何事においても下らないのは事実である。K.]. 10/7

 さて、冒頭の「文中にあるように」とは、次のような推敲をしていない"書きかけ"の文章を指す。 あるノート(B5ケイあり)に記したもので、ページ番号は15〜39とあり、全部で25枚ある。(2008・01・20 橋本健午)

 上野 <8月1日、水>
 旅行は、ここから始まる。私たち二人のHは、高田馬場駅で待ち合わせ、東京駅を経て上野駅に向かう。 私自身、非常に楽しみにしていた(まるで小学生が遠足に行くときのように)旅行―この種のものは私にとって初めてのものであった―のスタート、 彼も喜びに満ちており、二人は少なからず興奮している。
 上野から仙台に向うのであるが、日中、クラスメイトのY嬢に会見する。私たちは彼女に上野の案内を乞うつもりであったが、 夏向き(姿の)西郷像の近くの茶店に座り込むや、三者三様のアルバイト経験を語り合って、話尽きず、だんだんと面白くなってくる。
 (彼女自身は、私たちを見送りに来てくれたそうだが、会見の意図は演出上全くふせていた。 そしてまた"現実"は意図以上に愉快に進展していった。)
 私たちはアルバイトすることによって、単に報シュウ〔酬〕を得るだけでなく、色々な社会勉強もすることができた。 その受けた印象が、ショック同然のものであったり、また認識を実際に確かめる種類のものであったり、それは様々なものであったが、 いかなる職場においても、私たちはアルバイトで、実際に働いて生活している人とは違うのだということを、 皆何らかのかたちで自覚させられている。
 更に、私たち学生は自分の思っていることを自由に発言できる"特権階級"であるということ、 この認識こそ重大な意味を持つものであった。また、一般の多くの人々が労働している最中に、 私たちは旅行という"一つの自由に選択したところの行為"を、誰にも妨害されずに遂行できる身分にある。
 この懸隔は、しかし、私たちにはどうすることもできないもののように思われた。 そこで、私はたびたび"貴族"ということを口にした。この言葉については後に述べるとして、実際の行動を記していくことにしよう。

 その後、私たちは東京文化会館を見学に行く。音楽の殿堂、期待に反せず私たちの誇るべきものであった。 私たちは音楽を鑑賞することはできても、それを口で表現することはできない。しかし、何かを、それがどんなちっぽけなものであっても感ずることができる。 それによって喜怒哀楽を表わす、いや自然にそれを感ずる。それで充分である。知識の多いことと、判ることとは別である。 美術においても、また他の芸術においても、私たちは感覚によって鑑賞する。生命の躍動をも美をも善をも、それは単に名付けられたものであって、 美そのものは単一ではない。
 芸術への参加、それは現時点における、私たちの最も希求するところである。 私たちが"現代"において、真に人間的に個性的に生きんと欲すれば、それは芸術にたずさわる以外に道はない。 しかし、それはまた非常に困難なことである。
 ◎大学
 バッジを購入のため、大学へ寄る。これは私の思いつきであったが、行く先々で何らかの親切やお世話になったとき、 あるいは好印象を受けたとき、記念に残して行こうと思ったものである。最も学生らしい行為であると考えたからである。 2種10個を持って行く。
 更に文学部にも行って見ようということで、しばらくミルクホールに立ち寄る。 そこでもまた"階級論"や"傍観者的態度"について話しあう。
 ◎渋谷
 まだ時間が充分にあるので、渋谷の「ライオン」というクラシック音楽専門の喫茶店に行くことにて、バスに乗ると、 偶然にもクラスメイトのB、W、T嬢に出会う。≪ココまで8/13記、田無寮にて≫
 《冒頭から、記述が前後しているようだ。時間順にいえば(1)バッジを買いに大学へ、(2)バスで渋谷に出る、(3)男女6人で上野へ行く、であろう。2008・01・21橋本健午》
 中心が二つであるが故に、多少のイザコザがあったが、やがて「ライオン」に落ちつく。
 喫茶店と一口に言っても色々ある。同じ音楽をやるにしても、クラシック音楽があったり、タンゴがあったり、 ジャズがあったり、また単純に感じがよいとかムードがあるとか、居心地がいいとか感ずることによっても区別はされうる。 さらに、その時の心理状態によっても、外的条件によっても違いが出て来る。
 単に、このコーヒーは高くてソンだなどと考えている輩には無用のものであろう。 そこに沈没することによって、何を考えても構わないが、あながち不健康とも断定できないだろう。私は喫茶店を愛する。 あの深々かとした椅子に好きなだけ座っておれるなんて、なんと素晴らしい休息の場であろう。 ……なんとしても"貴族"がチラチラして来る。
 私にとりついて離れないこの言葉、私が露文にいて、こんな考え・思想・態度を身につけるようになれば、 左翼的露文クラスの大勢から見て、多分に"反動的"であろうし、"後ろ向き"であろう。 だが、私は現在、いかなる政治的活動に対しても大した意思表示もしなければ、行動もしないからといって、 私がそれらに無関心でもなく、また反動的なのでもなく、ただ態度決定をしぶっているだけである。
 私自身、強いて分類すれば左翼だし、革新的であることを肯定する方だが、また如何なる左翼的団体にも属していない。 属する場合は、必ずしもその団体の方向なり、理想を100パーセント信奉できるからというのでもない。 私はあくまでも私一個そのものである。(横道にそれたが、別の機会に論を進めよう。)

 「ライオン」における対話は、それはどこでやろうと同じなのだが、各人がきわめて個性的でかつ自尊心があり、 負けん気が強いので、ケンカ腰になる場面さえあった。私自身、その中にいて、しかも考える。 私たちの議論は、底が浅くて、しかも受け売り的要素が強いだけに、更に肝心なことは私たち自身が未熟なので、 往々にして平行線をたどったり、論点をはずしたり、はては感情的なもつれをも生み出す結果をもたらす。 では、そういう結果にならないために、議論などせずに、もっと単純な日常茶飯の罪のない話をしておればよいかといえば、 それは私たちには許されないことだと思う。私たちはそんな話題で満足するほど単純な身分ではないし、また年を取ってもいない。
 私は"人生は試行錯誤だ"と思っている。(何々は何々だなどという道学者的表現は余りしたくないが…)これは私が今まであまりに無経験主義者だったので、 そんな結論を生み出したのかも知れない。
 "試行錯誤"は"やってみなければ判らない"思想であるといえよう。何事をするにも、この考えはあてはまる。 人格を造る(なんていうことはキザな言い方だが)ためにも、教養を身につけるためにも、あらゆる機会が動員され得る。 そして議論することも―私たちの場合、それがまったくの時間の浪費と徒労にしか過ぎず、 何の有効なものを生み出さないとしても―一つの機会である。私たちが知っているからではなく、知らないから議論をするのである。 それは意図してではなくて、自然に。

 周遊券を買いに行った。WとT嬢が後から入って来た。それからは、皆どこかに旅行するので、その話に花が咲く。 テーブル2個とイス8ツを占領して、勝手なことばかりをしゃべっている。WがパガニーニのバイオリンコンチェルトNo.1をリクエストしている。 Bもショパンのピアノ曲をリクエストしたが、レコードがないという。彼はそれを覚悟の上で頼んでいるので、別段同情も起こらない。 T嬢とWは能登半島へ(別行動)、Kはアルプスへ。そして、Y嬢は合宿の前は天童のN嬢の家へ。 私たち二人は東北地方と、あっちこっちにチラばることになる。HはT嬢にプランを紙に書いて説明している。
 だいぶ経ってから、Bが上野まで送りに行くと言う。ところが、私たちの旅行がうらやましくなったと見えて(いかにも彼らしい行動なのだが)、 平まで行くと言い出し、次には仙台、松島、そこまで行けば一泊をともにし、次の日に帰京すると、だんだんと遠くまで行くことになった。
 私はそれを歓迎したが(調子に乗りすぎたので)、もう一人のHが面食らったこととは少しも気がつかず、彼に悪いことをしてしまった。 何しろ、彼にとって、その日に会ったクラスの連中と今までほとんど口を利いたことがないという有様。 私は気を利かしたつもりで、"対話"する機会を作ったような考えでいたが(彼もそのことには喜んでいた)、どうも得手勝手で相手を尊重しなさすぎたのだった。
 また、体力が私以上にあると思っていた彼が、喫茶店にいるときからバテ出して、余計私がおかしくなってきた。 私自身が無責任なのかも知れないが、6人集まれば6人皆が楽しく過ごせるように持って行きたい(別に"主催者気取り"でも何でもない)という気持と、 Hには悪いなという気持が(なぜなら、旅行するのは他の人とではなく、彼となのだから)交錯していたからだった。 しかし、これもどうすることもできなかった。≪ココまで8/19記、茨木で≫

 遂には、皆が送りに来てくれることになった。これは全く想像もしなかったことだっただけに、何か一種特別の感情におそわれた。 上野駅近くに行き、また少時を喫茶店で過ごし、異常なようで正常な時を持った。
 N嬢宅を訪問(8/8予定)する際、お土産が要か不要かを話し合ったとき、賛否は半々だったが(私自身の考えは、学生であるという身分と、 形式的なことをしたくないから別段する必要はないが、受けた恩恵に対しては充分に感謝の気持を持てばそれでよいという考えであった)、 結局クラスの申し合せもなかったので、持って行くことにして、ノリを買った。もっとも、これらも愛すべき友と相談したもので、 ちょっとばかり味わいのあるものと自負した次第である。
 こういう"筋の運び方"は、アルバイトの疲れからか、沈んでしまっているHに対しては申し訳なかったが…、 10時近くに駅に行った。私たちが乗るのは、常磐線の急行"おいらせ"23:00発である。
 Bと私は先に入って並ぶことにしたが、時すでに遅く、ホームは一杯の客で、まっすぐに歩くことも不可能なぐらいであった。 また夏の臨時便が増発されていて、"おいらせ"は12番線から出るところが、6番線に変更されていた。
 私たちは、とても座れないと覚悟したが、ホームを行ったり来たりしているうちに、Bが一策を思いついて、 列車が入ってきたら、それを実行することにした。そのようにして、座れる可能性は出てきたが、肝心のHが何分経ってもやって来ない。 呼び出しを何度もやってもらったり、私たちも走りまわって探したが、見つからない。ホーム変更に気がついただろうか、 それとももう違う列車に乗って行ってしまったのだろうか。
 しかし、列車の名前の発時刻も知っているのだし、Y嬢も一緒なのだから、やがて来るだろうと思っていたところへ(列車はすでにホームに入っており、 私たちも無事座席を確保して、ただHを待つばかりになっていた)、人込みの中から背の高い見覚えのある顔が現われて、 私は思わず口から何かでかかったが、それはHではなくて、見送りに来てくれたWだった。
 T嬢もその時来てくれたが、折角送りに来てくれたが、感激することも喜ぶこともできず、≪ココまで8/20記、茨木で≫少々間の悪い羽目になった。
 発車まで15分もなくなったころ、12番線まで走って行って探そうとしたが、このホームの混み様はまったく足の踏み場もないくらいで、 座っている人や立って元気にはしゃいでいる娘たち、思うように行かずにイライラしている私は、なんて勝手なことをしているのだろうと文句がいいたくなる。 おまけにその長いホームは、どこまで行っても尽きないと思われ、似たり寄ったりの顔を―Hが心配そうにこちらを見て見つけたと単にヤアッとでも元気な声を挙げてくれないかと―見まわしていたが、 暗くて目がかすんできて、その上汗がたらたらホオをつたって来る時のなんともいえないわびしさ、見つからなかったらどうなるのだろうという不安、 ここで再度呼び出しをしてもらおうと思って、駅長室へ行くと、只いま放送中止中と泣き面にハチの立て看板…、 そんなところに何時までもいたら、私自身が遅れてしまうので、引き返す。もどってみても、Hはやはりいない。
 仕方なく、私たちは予定通り仙台まで行くことにして、あとはWに頼むことにした。 何しろ推理小説を地で行くような痛快な部分もあったが、始めからこんなことになって、旅行がはたしてできるだろうかという見通しの暗さの方が不安を募った。

 列車が動き出した。Hは遂に現われなかった。
 さて、初日もあと1時間を残すばかりとなった。学校で偶然に会った級友たちがわざわざ送りに来てくれたのは感激ものであった。 更に、急に私たちの旅行が重大なものであるかと思われてきた。それが"何故か"は判らなかったけれども、 何だか私たち二人のHだけの旅行ではないという風に思われたからだ。

 Bは座席を確保したが、4つのうちの残る1つに、何と女性が4人もいた。 そして私たちは2人しかいず、結局定員4人のところへ6人となった。彼女らは―中年の図々しいオバサン連中だったら、 おそらく私たちの八つ当たりの対象となったであろうが―まだ若くて、それがいずれも可愛かったり、きれいだったりで、 Hのいないのが幸いなのか不幸なのか判らなくなった。


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