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「ミニ自分史」(22)「遅刻・早退・欠席(欠勤)」

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 小学校は福井県と静岡県の2か所に通った。3年生の5月はじめに引っ越した。遅刻・早退・欠席はいずれもあったと思うが、 ひょっとしたら、4年生では皆勤だったか。根は小心者、午年生まれだから慎重派などとうそぶいているが、 どちらかといえば真面目に通った。苦手の科目はあったが、学校は好きなほうであった。
 中高一貫の大阪時代は、ドイツ"仕込み"の校長先生によるスパルタ教育で、6年間、通学の電車内では座らない、 駅から学校まで駆け足、冬は風邪でも引かないかぎりオーバー、マフラー、手袋はご法度という毎日、ほぼこれらを守った。 いや、駆け足は高校3年のころには級友とズルを決め込んで、駅から1キロ半ほどの学校までの、目立つ地点で走っただけだったか。
 ともあれ、体はあまり丈夫なほうではなかったが、中学は精勤賞(欠席が3日以内?)、高校は皆勤賞だったと思う。 しかし、大学は国立を1つしか受けなくて浪人という、長い"不在"となった。予備校にも行かず、あまり勉強もせず、 午後には運動不足の解消と称して、町外れのゴルフ場近くまで散歩するという日々を送っていた。
 1年後に入った私立大学では、必修であれ選択科目であれ、適当に出席したり、遅刻したり、早退したりという按配だった。 専攻のロシア語(=ロシア文学)よりも、中国語(=麻雀)に熱心だったのは、そういう仲間が多かったからだ。 しかし、私は点数も数えられず、あまり勝ったこともなく、上達しなかったのはギャンブルに向いていないせいか。
 こんな調子で、4年生の3月(学園闘争激しく、その年初めて卒業式がなかった)には無事卒業したけれど、就職先はなかった。 しかし、3月31日の夕方、販売関係のアルバイトを冬2シーズンやったおかげで、ある出版社から明日、 身体検査を受けに来いという連絡があり、翌日から出版部でアルバイトをすることになった。
 さあ、"社会人"としての出勤である。在学中のアルバイトで知り合った社員とさらに親しくなり、文学を語りあい? よく飲屋に連れて行かれた。たまに午前様もあったが、アルバイトとはいえ遅刻はご法度と思い、駅から会社までわずかな距離に、 タクシーを飛ばしたことがなんどもあった。
 その仕事は、しかし半年と続かず、いちど大阪に戻ったが働くところがなく、いつ日の目を見るか分からない原稿を書いたりしていた。 やがて、ある作家が助手を求めているという話がきて、11月に上京し、その自宅兼事務所に通いだした。
 ここはもう、遅刻・早退・欠勤がどうのこうのという世界ではなく、慣れない仕事での緊張と先輩たちの"いじめ"に、 毎日ふところに辞表を忍ばせているつもりで通いはじめたが、なんと8年半も続いた。・・・・・・
 やや時代をとんで、(当時は脱サラする年齢だった)40歳のとき、ある出版関連団体の事務局に勤める月給取りとなり、 13年3か月の長期滞在となったが、95年12月末で辞職した。
 途中で、タイムカードが導入されたが、私にはあまり用がなかった。生来、パンクチュアルな(時間を守る)ほうであったが、 私が遅刻しないのは(時刻通りに走る)私鉄のせいだと、またうそぶいていた。今年、辞めてから10年が経つ。〈05・12・21記〉


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