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「ミニ自分史」(3)「米寿」

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 これまでに、私の身近で米寿を迎えた人が5人いる。他の人と比べるものではないが、 おかげで、「橋本さんは長生きしますよ」と、若い友人に言われたことがある。
 最初は1965(昭和40)年2月、新潟県十日町市に住んでいた、母方の祖母長野アイさんである。 大学2年(22歳)のとき、カメラマン役を仰せつかったので、友人のKからソ連製のカメラを借りたように思う。 もっとも、私の腕のせいで、赤い頭巾に、赤いちゃんちゃんこを着た祖母は、ご馳走を前に、 今も赤い座布団の上でやや傾いたまま座っている!?

 それから10年経った75年秋、大阪茨木で父八五郎の米寿を祝う会が隣の市の料理屋であった(私33歳)。 多少腰は曲がっていたが元気そうで、家族そろってのまずまずの会だったように思う。 しかし、翌年4月には長兄夫婦の離れにある風呂の中で、生涯を閉じ、兄は「さながら湯灌だ」と電話をかけてきた。
 自宅での葬儀には、健在だった兄の関係もあり、大勢の弔問客があった。 アララギ派の流れを汲む柊(ひいらぎ)同人だった歌詠みの父(号・梧郎)は、一方でペダンチックな人だった。 生前、あまりいい夫婦関係でなかった母(後妻トワ)も、長兄、三兄、名古屋の兄に、私の男4人が黒服で並んださまを見て、 立派な葬儀ができたと、つぶやいていた。

 その後、79年に米寿を迎えたのは、妻さち子の祖母である青木みつさんである(私37歳)。 夫亡き後も、練馬区で長女(まつ子)と同居していた。小柄な人だった。私が結婚前、初めてごあいさつに伺ったとき、 正座してその小さな体をさらに折り曲げて、「よろしくお願いします」といわれ、大いに恐縮したことを覚えている。

 4人目は92年11月、名古屋市内の有料老人施設に住んでいたわが母トワで、その誕生日(3日)のために、 私はお祝いとして新宿伊勢丹でたった一つだけ、母の名を入れて作った朱の盃を届けた。 もちろん、祖母長野アイの名の入った盃も携えていった。二人だけのお祝いの儀式であった(私50歳)。

 なお、その前85年11月、私は母から預かっていた原稿の一部をまとめて、『わが半生の道』(第一部、72頁) として自費出版している。かつて看護婦だった母の元気なうちに、形にして残しておこうと思ったからである。 当初、渋っていた母だが、出来てみると満更でもなかったらしく、友人知人に配っていたようだ。
 しかし、最後の2年ほどは意識もはっきりせず、毎月のように見舞っていた私は延命治療を拒否していた。 91歳10か月で亡くなった母の、何度も食事を拒絶するところを見ていたからだが、 現代の老人医療には功罪あい半ばという印象が強く残ったものである。

 もうひとりは、父方の親族である従姉の橋本定枝さんである。小浜市内の老人施設に住む彼女は昨年の1月にこの日を迎え、 やはり赤い頭巾にちゃんちゃんこ姿で写真に納まっている。私は十数年、お会いしていないが、 さいきん訪問したものによると、相変わらず口達者で、元気とのことであった。

 いま、私の手元には祖母の祝いで貰った盃と、母に贈った盃があるが、やがて米寿を迎える人もいる。 妻さち子の母小田まつ子は85歳の一人住まい、自分でご飯を作るのが楽しみと健在である。
 私は、もうひとつ、盃を作らねばならない、そしてわが身もベージュ色に染め上げようと"決意"したところである。2004・8・16

 ≪追記≫この当時、存命だった小田まつ子さんは、「(56)「ママちゃん(小田まつ子さま)」」で触れたように2年前、86歳で他界した。 もう一人福井県小浜市在住の橋本定枝さんはめでたく米寿を迎えたが、この12月2日に92歳で永眠したとの通知が届いた。
 身近には、まだ80代前半の女性が二人いる。私も、なぜか少しはがんばらないといけない、ように思う。2007・12・18橋本健午


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