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「ミニ自分史」(75)「"社長業"失格のてんまつ…」

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 いろんな書類の整理をしていると、思いがけないものが出てくる。題して「"社長業"失格の顛末」。 今から、30年ほど前、35,6歳ごろの話である。

 ついに、オーナーYさんに対し、私はこんな手紙を出していた。

 前略 お忙しい処、恐縮です。手紙の方がよいかと思いましたので。
 会社も七月三十一日で第一期が終了しましたので、目下決算報告を作成中です。 法律の規定により、取締役ならびに監査役の任期が切れますので、新たに株主総会を開いて選任しなければなりません。
 今までの経過により、監査役K――不適格、取締役F――辞任ということでしたが、私も代表取締役ならびに取締役を辞任いたしますので、 新たに取締役二名以上、監査役一名以上を選任の上、印鑑証明をそろえて下さい。手続きの方はいたします。

 一年間というお約束でしたし(まだ少し精算が済んでいませんが)、これ以上ご迷惑をおかけしても申訳ありませんので、 目下のところ、原稿書きを精一杯やるつもりです。
 会社組織とか、私のような扱いにくい、不向きな人間のいない方が、Yさん《オーナー》も色々と動きやすいだろうということは、 以前から痛感しておりましたので、決算を迎えたこの際を一区切りとした方がよいように思います。

 私事ですが、まがりなりにも妻子を抱えている以上、「お話」だけでは、誰も納得させえず、家庭も破壊されかねず、 いくらご好意でも、いつまでも依存していてはいけませんので、何とかやっていくつもりです。
 また折角いい材料を与えて頂いたのですから、これを何とか出版までこぎつけようと頑張っておりますので、 どうかお見守り下さい。

 いつもうるさく言って申訳ないのですが、マスコミの世界は狭くて、口うるさく、足の引っぱり合いです。 (Yさんの向く世界ではありません)
 そのよい例が、昨年夏の一件であり、まだまだHさん《有力出版社の元編集者》などは影響力を持っております。

 また、身内だと思うような人に、前宣伝のように連絡するというのは、決してうまいやり方ではなく、つぶされるのがオチです。 なぜなら、表面は仲がよさそうでも裏へまわって悪口の言い合い、足の引っぱり合いだからです。
 そして、"作家を育てる"のは出版社か編集者であって、門外漢が口を出すほど、きらわれるものはありません。 また、ヒモツキだということも、きらわれます。いずれも、よくご存じのことと思いますが。
 今まで折角、静かに来たのですから、これ以上騒ぎを起こしたら、完全に抹殺されます。物笑いのタネです。 Yさんは失うものはないでしょうが、私は完全に抹殺され、生きて行く道がありません。 どうか今まで通り、静かにしておいて下さい。

 私が何とか頑張って出版でもされれば、Yさんへのご恩返しも出来るし、Yさんの顔も立つのですから、お願いします。 それまでの辛抱です。
 いずれにしても、他の人に言えないことですので、よろしくお願いします。
 一方的に書いて、意をつくせない処があるかも知れませんが、お許し下さい。
 また、顔を出します。お体には充分気をつけて下さい。
           昭和五十三年八月十一日     橋本健午
  Y(フルネーム)様

 《ほとんど読み返していないような文面だが、年配者に対し言いたいことは言い切っているか感じではある。
 文中にある「原稿書き」として「いい材料」をもとに「出版までこぎつけ」ようと頑張っていたのは、 4年のち1982年7月に日本経済評論社から上梓された『父は祖国を売ったか―もう一つの日韓関係―』をさす。
 この会社に在職中(1977・10〜78・07)、3月末に事務所で紹介されたのが当時70歳の大東国男(本名:李碩奎)さんである。 その父李容九は明治43(1910)年の日韓併合に関して、母国で"売国奴"呼ばわりされた人物。
 お宅に近かった私は、大東さんに何十回もお会いし(録音テープは20巻ぐらいになった)、かつ梶山家から借りた多くの資料にあたり、 上記の出版にこぎつけた。当時の日記(78・04・01)に「第2回打合せ 異色のものを作りたい。歴史と/将来の日韓の若者に与えるもの」と記した私は35歳であった》

 では、そのてんまつを簡単に記しておこう。

1、株式会社***(総合ライフ企画)(本店…東京都渋谷区)に関して

 設立手続きを依頼した弁護士や関与税理士はいずれも年輩の知人であり(78年12月にもお歳暮@2千円を送っている)、 社判等の作製は三越本店印章売場という"豪華版"であった。とにかく、きちんとした株式会社として設立されていた……。
 私の月給は20万円で在職10か月分を受取り、源泉税は渋谷税務署に納めていた。 ところが、辞めた年の8月から12月分の源泉所得税が未納という往復ハガキが自宅に舞い込む。 この年7月31日休業のため、給与の支払いなし、との回答をした(3月30日投函)。
 銀行口座(普通預金)は、77年8月23日に1,000円で開設、9月24日に資本金3百万円を調達し、同年12月初旬には残高201,000円、 そして53年8月21日の残高1,953円で終わっている。しばらく飛んで、81年6月30日付で、渋谷税務署長(大蔵事務官)より、 「青色申告の承認の取消通知書」なる書類も送られて来た。
 昭和53,54事業年度の確定申告をしなかったことによる、青色申告の取り消しの通告であった。 さきに掲げたように、私は一期限りで退任していたが、書類上そのまま名義が残っていたからであろう。
 そもそもコンサルタント業的な、他人の金を当てにした会社である。オーナーの"力""コネ"にあやかりたい各地の企業家が出資を行い、 名目的に"代表"にさせられた私は、オーナーの決めた"事業"目的にしたがいプランも立てたが、ほとんど活動することなく終わった。

 「定款」昭和52年9月9日公証人認証(設立52年10月4日)
  第2条(事業)
  1、出版、書籍の販売 2、講演会、講習会の企画、斡旋 3、日用雑貨、建築資材の売買の仲立、取次 4、建築工事請負の仲立、取次 5、上記に附帯する一切の事業

 ついで、「設立趣意書」昭和52年10月には、次のようにある。
  現代は不況の時代といわれながら、様々な商品や情報の氾濫という様相を呈しております。
  その中で、企業も個人も、何が本当に必要なのか、の判断に迷うという矛盾の時代でもあります。
  したがいまして、当社では氾濫する情報の整理と、集約・方向づけを行い、かつ企業間の、 主として日用雑貨や建築資材関係の売買、工事請負に関するジョイントを行い、新製品・企業の紹介などに関する出版や、 講演会・講習会の企画等を通じて、省エネルギー政策の一助としたい所存であります。

 一目でお分かりのことと思うが、私にできる事業は辛うじて1と2だけである。
 そこで、何がしかのプランを立てなければならないと思い、次のようなことを考えていた。 もちろん、私一人の考えではなかったはずだ。以下、"メモ"は数枚のB5判の紙に書かれたものである。

2、メモ(1)文化講演会について(第一案)   S52・10・19付

 こんな時に、あなたの手で、文化講演会を開いてみたら、いかがでしょう。
  ・町の制定(創立)記念日を祝って
  ・町の文化祭(春あるいは秋)
  ・郷土色豊かなお祭りをするとき
  ・記念式典のとき(個人または団体の)
  ・いちばん季節のよいとき(味覚など)
  ・その他、ゆかりの文学、歴史、人物を語るために
  ・東京(あるいは中央の)文化人に接したい
  ・出版記念会(パーティ)のときにど
  ・大きな事業を完成させたとき
 などの機会に、行事の一環として講演会を催されると、いちだんと充実した式典となり、かつ主催者としてのあなたの名声も上がるものと思われます。
 ご希望の講師の先生方への折衝・派遣などの一切は、当社でお引き受けします。
 当社はあくまでも縁の下の力持ちとしてご協力できれば幸いですので、是非ご利用下さい。

 なお、協賛企業は**や○○で、事前あるいは事後に、少々お時間を頂いて企業の説明会をさせていただきます。

 一部の講師陣は別表のとおり(省略)。
 《さらに、チラシのひな型や講師の略歴・当日のスケジュール表のひな型も作っていた。 オーナーの"人脈"は各界にわたり、かなりのもので、作家・評論家、代議士やその秘書、"建築資材関係"の会社役員など「事業」に関連する関係企業などの有力者が並んでいる。 もっとも、私は作家や編集者などしか分からず、名刺の肩書だけ見てもピンと来ない人が多かった。》

3、メモ(2)自費出版について(主として町長)(第一案)   S52・10・20付

 貴方様には、日ごろから町や町民のために、骨身を惜しまずご活躍のことと拝察しております。
 突然で恐縮ですが、ご自分で出版をされたら、いかがかと思いまして、ご案内申し上げます。
 永年の住民に密着した自治行政に対して、国から顕彰(表彰)されたり、大きな事業を完成されたときや、 勤続○十年を記念して、あるいは還暦(古希)を祝い、人生の一区切りに、今後ますますご発展をされるようなときに、 貴方の実りある、波乱に富んだ半生を一冊の本にして、後世に残しておくことは、大変意義のあることだと思われますし、 町民にとっても誇りであり宝であると信じます。

 どのような善政も、またどのような輝かしい業績も、このめまぐるしい世の中では残念ながら、 どんどん人の記憶から忘れられ、過去のものとなって行きます。
 世のため、人のための業績というものは、そのように人知れず忘れられて行くものかも知れませんが、 数十年の人生の重み、また地方行政に尽くされたことは、子々孫々の代まで記録として残しておくことが、 公人として、また一日本人として必要なことであると思われます。

 原稿を書いて頂くのもよし、ご多忙であれば、テープに吹き込んで頂いたものを原稿になおして、 それに目を通して頂くのもよし、どちらでも結構です。
 ・半生記 ・主義・主張(政治思想・信条) ・随筆(随想) ・講演集(対談・座談会記録) ・小説 ほか
 どのようなジャンルのものでも、記念として残されることは、大変意義のあることですし、立派な「事業」であると思います。

  本の大きさ B6判(ヨコ128ミリ×タテ182ミリ)
  原稿枚数(400字詰め) 300枚(約200ページ)
  部数 500部(1,000部)限定
  製作日数 早くて2か月
  著者校正 初校の後に、一回
  予算 約200万円(多色刷りや写真・図版の多い場合、表紙・カバー等、豪華本にする場合、少し余分にかかります)

  ・略年譜・業績 15〜20ページ
  ・写真・自筆の書画 2〜4ページ
  ・本文
  ・序文 著名な作家などにお願いします

 さらに、3月26日付のメモには、町長向けの企画が並んでいる。
  郷土自慢(酒、料理、民謡・踊、神社仏閣、名所旧跡)
  名士紹介(名誉町民、○○職人の町、知られざる業績の持主)
  町の話題(建設・土木関係)
  地方自治と世界情勢(論文)
  政治の動き(手記)…選挙 住民への貢献とは何か?
           ・私は過疎対策をこう講じた
           ・工場誘致に成功した
           ・町長奮戦記 いかに活躍したか
  重要文化財・人間国宝 県指定/町指定
  学校(旧い小学校の紹介、100年ぐらい前、出身者名簿)
  *わが町出身の有名人 政界・財界、スポーツ・芸能、作家・文化人 など

 《このプランは真剣に検討した。後年(2001年)、あるところから「自分史講座」の講師役を依頼され、 そのテキストを作成した際、ここにあるような文言を用いて、"勧誘"のチラシなどを作っていたことを思い出した。 思えば、その発想は既にこの段階で浮んでいたということになる。なお、講座の話は2カ所からあったが、いずれも不成立。》

4、補足など

 6月15日付には、*編集制作費、*調査費、さらにテープ起こしに関する試算数字が並んでおり、 K社、T社の場合を参考にした書籍製作の標準価格あるいは校正料についても調べていたことが分かる。
 52・9・22付のメモには「自費出版について 資料」とある。

 メモはさらにある。これが、一連の流れのはじまりであり、その中途半端で終わったいきさつ、ともいえる。
 「株式会社 企画集団 S・B」(仮称)というのは、そもそもS社の編集者Mさんが発案したもので、 若いSさんや私に編集プロダクションを作らせ、下請けとして仕事を回す、という構想であった。
 これに前記Yさんが場所と資金を提供しようとなり、話が進んでいたのだが、どういういきさつからか実力者Hさんの耳に入って、 「まかりならぬ」ということになり、一頓挫したのである。
 そこで、新たに考え出されたのが、株式会社***の設立であったという次第。
 《2008・05・23記す 橋本健午》


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