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「ミニ自分史」(76)「悩み――全くのところ  Oct.19/20 '61」

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 いろいろ古いものを整理していると、とんでもないモノがでてくる。ここに掲げるのは、茨木での大学浪人時代、HATAの便箋に横書きした"感想"である。

 初めての浪人生活を、六ヵ月以上やった今、こんなことを考えている。
 浪人は、少なくとも1年ぐらいはやっても、《私の》価値がまだ残っているだろうと考えて始めた。 世の中には、予備校という便利なものがあるが、私にとってそれは大して利益にならないだろうと考えて、行かなかった。 自分一人でやっていても、そんなに不利ではないだろうという考えが心を支えた。それはしばらく続いた。 それに一人でいても、大して孤独を感じないだろうと安心していた。
 ところが、すべてが最初思っていたときに比べて、全く変化していた。
 まず、1年が365日あって、しかも12ヵ月もあるということを深く認識していなかったために、ときに長い期間だと感じたり、短いとも感じた。
 勉強の方は、順調に行くだろうという予想が、少なからず狂い始めた。スランプなどやってこないと安心していたのに、 それに似たことが度々あった。いずれも短いものだったが、その度に勉強を中断した。
 人は感情の動物であって、吾も彼も同様に泣いたり、笑ったり、おこったりするという普遍の真理を無視していた。(Oct.19 '61)

 それから、存在は自分一人ではないということが、大分後まで分からなかった。 社会の他の成員が、私に影響を及ぼし、私の邪魔をするだろうとは考えてもいなかった。しかし、それは現実になった。
 私が人一倍気むずかし屋であるから、余計シャクにさわった。ときどき外出した。外出といっても、そこらを気ままに歩くだけだ。 空気はあまりおいしくなかった。
 このあたりの静かなところは、そこへ行くまでに、交通の激しいところを通らなければならず、これが面白くなかった。 あの自動車の騒音と排気ガスは、私の頭を痛め、気分をいっそう悪くした。気分転換など思いも及ばなかった。
 私には、その生活が単純であろうということもあまり深くは考えていなかった。何とかうまく過ごせるだろうと安心していたからだ。
 私の今までの浪人生活は、次のようなものだ。
 4月 落第《不合格》したショックも感じずに、明るく過ごした。勉強の方もあまりせず、その意慾を待っているような状態だった。 Xが来た。私は彼とよく話した。しかし、月末から母といっしょに新潟へ帰った。
 5月 この月も順調だった。相変わらずXと話をした。二人でテニスでもやろうかとも考えたが、即決しなかったために熱がさめて、中止してしまった。
 6月 Xにガールフレンドができた。話は主にそのこととなり、私はあまり面白くなかった。
 なお、5月だったかに、ひどく勉強がスムーズにいって、これなら大丈夫だと思うと、母校のH教師に語ったことがある。
 7月 だんだん暑くなって来たり、母がいよいよ私たちと住むことになったり、二週間もいた病院から帰って来たりで、 これらとともに私の勉強もおルスになり、ラジオ講座も聞かず、高校英語もやめてしまって、全く不勉強になってしまった。 Xは相変わらずやってきた。
 8月 全く勉強なぞできなかった。私は暑さにホントによわいのだ。しかし、本は7月下旬から、たくさん読み始めた。 そして、月末には小説を書こうと思って、書き始めた。自叙伝は7月下旬から書いていた。 この月に、Xに会ったのは9日、10日で、それが最後の会見となった。
 9月 少しは涼しくなるだろうと思ったが、相変わらずの暑さだった。しかし、いつまでもノンビリしていてはどうにもならないので、 世界史を正式にやり始めた。どうやって覚えたらいいのだろうかと色々考えたが、妙案浮ばず、ノートに立体的に写すことにしたが、 一ヵ月かかってやっても結局何ら効果が上がらず、理解しながら覚えようと試みた。この月に、模擬試験を二つ受けた。
 Xに会った一ヵ月後に、私は突然彼から絶交といわれた。考えてみれば、極くつまらないことだったが、 私はそんなに重要なことではないと考えて、"快く受諾する"と返事した。そして、この月もいつの間にか過ぎてしまった。
 病院から退院して、父が出て行った。10月、ああ、なんといまわしい月だろう。(Oct.20 '61)


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