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「ミニ自分史」(95)中元・歳暮、贈り物など その2

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橋本健午09・05・19

 わがカミさんは、結婚した年(1973)から家計簿をつけている。日記代わりというが、私のような無精者には、昔の記録として、ありがたいものである。
 “お付き合い”というのは、なかなか難しいものである。たとえば、手紙を出したりメールを打つ、内容にもよるが、 返事をもらいたいとき、(相手の都合は見通せないため)ある程度予測した日時に来ればよいが、そうでないときはヤキモキするものである(それは、逆の場合も同じ)。
 物を送る、というのはさらに気を使う。
 先の家計簿には毎年、中元と歳暮が数件ずつあり、我ながら律儀だなあとつぶやくと、「何言ってるの、お兄さんたちからいただいてるじゃないの」と、 カミさんに叱られてしまった。
 目上は親戚ばかりではない。世話になった人たちは多い。
 収入の不安定だったときは(しょっちゅうだが)、分相応のもの(と金額)をと思うが、見栄も張らなければならない。 冬のイチゴなぞ、わが家では絶対といっていいほど口に入らないよいものを届けていた。 特産物でもあればよいが、東京ではデパートでの品選びがせいぜいであり、似たり寄ったりのものになる。なぜか、むなしい。
 2年目(1974)の中元はミート缶、歳暮は貝柱の粕漬などとある。この年9月、仲人の事務所開きにはサントリー・オールドを持っていった。
 昭和50(1975)年1月に長女が生まれ、お祝を頂いているが、お返しもある。5月わが師梶山季之が香港で客死という予期せぬ事態が起こる。 そのころ友人ら3組の結婚式があったが、みな欠席するも、お祝いは贈っている。7月には中元をしたほか、暑中見舞いとしての贈り物もある。
 しかし、カミさんの親戚に甲州ブドウの生産者がいることを知り、現地にぶどう狩りを敢行、素朴な種類があるのを幸い、この秋初めて数軒に詰め合わせを送った。
 そのとき、定職のない時期であるが、義理は欠かせないと考えたのは“日本の常識”である盆暮れの付届けの一本化である。 相手に意識を変えてもらうためには、自ら実践しなければ、などと悲壮になったわけではないが、ない袖は触れない?! これは何年も続いた。
 盆暮れをもらっても、ブドウ一本であった。変わったやつだと思われても、仕方がない!(分相応、が私の身上ではないか、などと勝手に理屈をつけて)今日までやってきた、のである。 黙っているが、不平不満の方々もおられたに違いない?!

 一方の、年賀状のやり取りという虚礼の廃止、これまた難しい。
 現今、パソコン制作による裏も表も機械によるものが多いが、年号だけ変えて、毎年、内容も同じというのでは返事の出しようもない。
 私はメール利用の方、手書きの方、年配の方など、礼を失しない程度に“分類”し、お送りしているが、そんなに年賀状のやり取りが大事なのかどうか、 と考えているところでもある。「便りのないのはよい知らせ」(No news is good news)というではないか?!
 欠礼して、縁が切れれば、それまでの付き合いだった、と考えればよいではないか。そう、普段からの付き合いが大事なのである。
 同じく、年末が近づくと“喪中につき”というハガキも舞い込む。事前に“通知する”というのは、遺族として親切ではあるが、同じ出すなら、 年賀状をもらった人に、お礼を兼ねて、その旨を知らせるだけで十分ではないかと思う。
 なにごとも、人と同じでは印象が薄くなる。虚礼を廃止して、新生活運動にまい進するべきではないか。 世の中、国会議員の数と同じように、無駄が多すぎるのでは!!


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