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「ミニ自分史」(96)大学は出たけれど・・・ その1

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2009・05・15

 昭和41年ごろは就職難の時代であり、あと一つ“優”があれば“優等生”(つまり九つだけ)などと嘯きながら卒業した私は、 3月31日の電話で呼び出され、ともかくS出版社(出版部)にアルバイトで入った。《以下、「ミニ自分史」(9)「アルバイト」その2 で触れていない部分を記します》
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 大通りに面した側を占めていたその10人ほどのグループの仕事は現代日本文学が主だった。 当時、三島由紀夫の『複雑な彼』や石原慎太郎の『青い殺人者』の単行本化を進めていたが、私はそれらには加わらず、 小さなことわざ事典を作る仕事のアシスタントであった。編者は名のある人だが、実際の作成者は匿名、すなわち文部省(当時)の役人がアルバイトをしていた。 時折、彼のところへ原稿をもらいに行ったり、ゲラを届けたりというのが私の役目で、何だか、役人がこんなことをしてもいいのかなと思いつつ、 仕事ゆえ忠実にやっていた。
 6月上旬にあった嘱託試験の顛末は、やはり上述の(9)で触れたが、当時の日記にこうある。
 ……大方の期待に反して、不合格に終った。私にとって、願ってもないチャンスで、いくらか運がまわって来たかのかと、内心喜んでいたが、 試験というものに、通ってみたいという気持だけで、さして、入りたいという望みはなかった。確かに、3万1千円という月給は一つの魅力ではあったけれど…。
 ところで、私の落ちた原因を、後で色々聞かされた。簡単に言って、同じ社の古いアルバイト生から入社させるのが順序だということ、 それに私が大人しすぎるということ、もう一つ仕事中の態度が悪いということであった。
 どれをとっても、私には一言の弁解もないし、尤もな話だと思っている。しかし、これは表向きの原因で、大事なのは眼に見えない処にある。 それは、私の直接の唯一の(お互いに)であるSSが邪魔したことであった。邪魔というより、これはもうあからさまな、いやみであり、嫉妬である。
 どういうことかというと、彼は人格的に全く失格しており、劣等感が裏返しになって、他人に嫌味を言う、全く救い難い人間であるということだ。
 私という人間が、何でも彼の言うことは、いちいちはいはいときいて、言われた通りのことしか出来ない人間ならば、彼は大いに満足したのである。 つまり、彼の手足の如き働きをすればよかったのである。処が私は、そうすべてを他人の言う通りになる人間ではない。 仕事の上では上司であっても、その他の点では全く対等である。
 それがまず、彼のよく思わぬ処であった。次にたまたま行われた試験を、いかにも自信なげに受けた処、成績がよく、 しかも英語は入社試験始まって以来の優秀さというので、彼は余計、まるで自分が辱められたように思ったのではないか。
 そういうことがある以前から、彼と接して二三日で、彼の人となりを見ぬくことはできたが、それで、ある程度注意をしていたのだが、 彼は私をいじめるのに、あらゆることをした。また、それに私がいちいちショックを受ければいいのだが、柳に風とばかり受け流していたので、 彼の面白かろうはずがない。
 それで、試験に、どうせ始めに落ちると思っていた私が落ちなくて、調子よくなってから、彼はあからさまになった。 たいがいの人は喜んでくれるのだが、彼だけはそうではなかった。第二次に合格したとき、第三次の面接をする、同室の重役にあいさつに行っておいた方がいいのじゃないかと、 うかゞいを立てると、そんなことはしなくてもよいというので、キッカケを失った私は、ついに最後まで、こちらから重役の処にいくことはできず、 何となくいやな気持で、第三次を受けた。それは、自分でも予想していた結果だったのだ。
 私がもし、本当にS社に入りたいという気持だったならば、そのときあらゆる手段を用いたゞろう。 だが、それほど執着心がなかったので、実力で、ありのまゝで入ってやろうと考えていた。 それが結果的には、(上から見れば)生意気な人間に写ってしまったのだ。
 もはや、会社には未練もないが、いつでも飛び出せる態勢を整えようと思っている。 他人がいうほど、私には余り勉強にならなかったのは、どうしても“老成”のわざわいであろう。もう少し若くならなければと思う。


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