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「ミニ自分史」(97)大学は出たけれど・・・ その2

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2009・05・15

 〔承前〕(昭和41年)九月二十一日
 こゝS森(大阪)に来てから、十日になる。S社を5カ月余りで辞めて、新たな生活に入ろうと決意し、Yとこゝにやって来た。
 ……日々の、目の前のことにとらわれ、またサラリーマン的生活をしていると、一日、一日がコマ切れとなり、積み重ねるということができない。 そういう生活をしているうちは、私のような人間には、一枚もまともなものを書くということができず、かとって、 いつまでもコマ切れ生活をやっておるわけにも行かず、東京を一時後にして、こゝに引っ込んだのである。
 …………
 私が会社を辞めたのは、彼らが考えているように、女の子のためではない。 単に親しく話しているだけで、何か深い関係があると勝手に想像されたのでは堪らない。 私が如何に女性に好かれようと、それで直ぐに関係が出来上がるものではない。
 しかし、いずれにしても、ちょっと親しくしているからといって、何か関係がある。 いやなことがあるから辞めるのだなどと単純に結びつけるのは、どう考えても思慮が浅いのである。
 私がM嬢と親しかったのは確かだが、他の女性や若い連中と全然話をしなかったのは、別に話すことがなかったからだし、その必要を認めなかったからである。 彼女は3年以上そこにいても、決して理解されなかったというが、その人と話をして意見が合った私を理解できないのも、当たり前のことであろう。
 全く、こういう処に長居は無用で、居れば居るだけ、才能をけずりとられる格好である。 何の未練もなく、彼らにとって私が辞めたということが、いくらか衝撃的であったということは、満更、私の存在が無益でもなかったということであろう。
 …………
 私がここ数ヵ月、心身ともに疲れ果てたのは、事実である。 それは一月からだし、いかなるときも全力を傾けていたゞけに、その反動としての疲れも大きいわけだ。
 とに角、限界に来た。会社のつまらなさが極点にまで来た。会社の女の子からは結婚を迫られる処まで行きそうになった。小説を書きたくなった。
 これ以上長く続けることは誰の為にもならないと思ったからこそ、残酷ではあったが、敢えて非情になった。そして、先月末に決心したのである。
 …………
 M君に頼まれて、武者小路実篤の作品評を二三書いた。一万円になるという。
 …………
 ここへ来てからやったことといえば、幼年時代から高校卒業までの写真を整理して、 一冊のアルバムにまとめたことと(この後も、いずれやらなければならない―いまわしい過去をふり切るためにも)。 北海道文化論を推敲したことと“晶子曼荼羅いろいろ”を書き改めたこと。
 これからは創作と読書である。

 しかし、勉強になることもあった。上下が一体となっている作業服(つなぎ)のことを「オーバーオール」というのを知らず、 生意気にも「オーバーホール」(機械などを全部分解し、掃除などして組み立てなおすこと)と修正して、叱られたこともある。
 先に触れた三島はすでに大家で、原稿料は1枚2万円(1マス50円)と聞いてビックリしたが、その文字はマス目一杯に大きく端正に書かれていた。 石原の場合は、ゲラを読まされ、次々に変わった殺人を考えるものだと感心したことを覚えている。 左手で、慣れない人では読めない字を書くと知ったのは、のち、梶山季之責任編集と銘打った月刊「噂」の仕事に携わっていたときである。
 他に、源氏鶏太か石坂洋次郎の名も出ていたように思うが、梶山季之の名前は電話をかけている部長Fさんの口からたびたび出ていたが、 まさかその年11月、その助手になるとは思いも及ばないことだった。


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