(1964年10月9日〜19日)
〔解説〕大学3年だった昭和39年10月、東京オリンピック開催で、校舎の一部(早稲田大学記念会堂)がフェンシング会場に使われ、その間休校になった。
その機会を利用して、政経学部のS君と"東京脱出"を図ったのが、この旅行である。
原稿は147枚にのぼるが、われながら、よくぞ書いたものと思う。とにかく"書くことが目的"となっていた時代といえる。
いま読み返してみると、粋がっていた"青春時代"を懐かしむというより、今日の私自身でもあるとの感を深くし、
このたび"身辺整理"のつもりで、その抜粋を行った。
なお、斜体の文章はこのときの、2冊の写真集「北海道 道南地方」(9〜19 October 1964)(1)「秋陽」および(2)「林立」より転記した部分である。
また、文中、いまでは差別的といわれる表現もあるが、時代の記録として、そのままにしてあるが他意はない。
明らかな誤記、分かりにくい表現には若干の修正を加えた。 2003・3・20 橋本健午
<序説>
北海道といえば、ちょっと日本離れした処があるのではないかという印象を持っていた。
日本的なものとは……小さな家々と小さな緑地、一部の隙もないくらい、きっちりと囲まれている土地、
道路が右往左往していて、その上を車がぎっしりと並び、間をぬって人間が行き来している、
何かこまっしゃくれていて、それでいて安定した、つまり年よりじみた感じである。
それに比べると、北海道はのんびりしていて、大陸的で、日本的情緒に無縁で、熊がのそのそ出てきて、 原始林がうっそうとしていて……ちょっと想像しただけで、まるで人間の文明に蝕まれた陸地の、 わずかに取り残されている部分といった感じ、人間が本能的に自由にのびのびとできる最後の楽園の一つみたいな処に思われて、 どうしても訪ねてみたいという気を起こさせるに十分な魅力を思っていた。
今までに、だいたい四国を除いて、その地に暮らしたり、旅行したりしたヾけで表層的に過ぎないが、 日本的というものの観念を自分なりに持っている。そこで、ぜひ北海道へ行ってみたくなったのである。 自分の目で、自分の足で、はたして北海道とは、地理的に文化的にどういう位置にあるのかを知りたくなったのである。
<プラン>
オリンピックのため、学校が特別の休暇になるというので、それを利用して北海道へ行こうと、
友だちのS君(函館出身)、O君と6月ごろ話をする(その後、O君は行くのが面倒だと言ってやめた)。
<上野に行くまで−10月9日>
このころは、様々な気分で頭の中がいっぱいだった。というのは、オリンピックの騒がしさやら、
東海道新幹線が開通したばかりで、事故が起こりやしないかということなど、(中略)オリンピックというものを、
日本で、東京でどうしてやらなければならないのかという気持があったから、事故でも起こればいいと本気で思ったものだ。
だから、北海道などという遠い処へ、海を渡っていくのにある程度の覚悟をしていたように、
帰ってくる処がないかもしれないぞとも思った。全く、決意なぞ人知れず、秘かにするものである。
下宿を出てから、都電の雑司が谷停留所まで歩くほんのわずかな間で、後から走ってきた車の中から、 男が小声で何か言っている。よく聞いてみると、(売り損なった背広を持っていたらしく)レディメイドの背広を着るかどうか、 もし着るならやってもいいというのである。私も少々急いでいたが、どんなものかちょっと見てやれと立ち止まると、 その代わり少し酒代をくれという。それならいやだ、いま急いでいるんでねと言うと、タダでなんか、 誰がやるもんかと捨てゼリフを残していってしまった。もっともな話だと思って、苦笑させられたが、 そんなことにかまけていたら、列車に遅れてしまうところだった。
<一路青森へ>
午後6時半発の特急「はくつる」は、案外空いているが、換気が悪くて息苦しい。私はすぐ室内の空気にやられてしまう質だ。
それに、寒かったりすると、途端に首筋が冷たくなり、頭痛がしてくるのである。このときは、むしろ暑い方であった。
そのため、大きな駅に停車するたびに、S君と二人で表に飛び出し、新鮮な冷たい空気を思う存分吸い込むのであった。
それが、だんだんと冷たく、おいしくなって来ると、やっと東北の寒い処へ来ているのだなということが判る。
吐く息が白くなって来た。
途中で買った週刊誌を開いて見ると、ご丁寧にも"北海道で山親父、大いに暴れる"なんて記事が載っている。 これから、いさヽかロマンチックな期待を抱いて、行こうというその北海道で、冷害のため熊どもが、 人間や家畜を襲うということを、こと細かに書いてあるのだから、こりゃ大変なことになるぞと思った。 しかし、今さら後に戻ることもできず、出会ったら、とっ捉まえてやれなんて考えていた。 それにしても、熊は人間の腸をえぐって喰べ、一度人間の味を覚えると、人間ばかり襲うというから、恐ろしい話である。
<10月10日 津軽海峡>
S君は、「眠たいし、見慣れた景色」なので、余り興味を示さず、すぐ船室へ戻って横になる。
私のほうは全く逆で、少しも眠たくなく、船からの眺めも好きだから、一人飽かずに見ている。
下北半島の上空あたり、切れた雲間から、海に落ちた一条の光の帯がとても印象的で、ここで最初のカラーのシャッターを切った。
これはN君に借りたソ連製のゼニット(絶好とか絶頂という意味)というカメラで、初めて使うので少々不安だったが、
うまく撮れる場合もあるという言葉を頼りに、持って来たのだった。
「カモメ 青森から函館へ」
どこからやって来るのか、いつの間にか頭上を飛んでいる。船の速さも相当だろうに、彼らは少しも羽を動かす様子もなく、
しかも同じ調子でついて来る。どうしてだろうなどと考えていると、なかなかかわいいやつだと思うようになる。
ところが、彼らは私のことなど知らぬ気に、いつの間にか視界から消えてしまうのである。
<函館>
(まず、私は親戚Eさんの家に)その日、私たちの留守にして来た東京では、オリンピックの開会式が行われたのだった。
ずっとずっとオリンピックは、私には無関係のものだと思い、またそれが当然のこととして考えていた。
そして、東京を離れて北海道まで来れば、その騒がしさから逃れられるものと考えていた。
ところが、いざ開会式だといって、みんながテレビにかじりついて見始めると、故障であまりはっきりとは写らなくとも、
刻々と時間が過ぎてゆくにしたがって、私の心も興奮の度を増すのであった。
私は、どちらかというと、感激性の人間だった。
各国の選手団の入場が始まると、まるで私自身が参加しているかのような気持になり、胸がつまってくる。
そして、一人しか来ていない国だとか、若い国の選手団が目の前に現われると、何とはなしに、目頭が熱くなって来るのだった。
そして、遂に最後まで見とヾけてしまった。
その後、S君の家が経営する、Sレコード店へ向う。
(さらに、彼の実家へ)途中、五稜郭という、珍しい西洋式築城法による城へ寄った。
(中略)日中は、観光客などでうるさいそうだが、夕暮れ時には、遊び疲れた子供たちが帰り仕度をしていたり、
犬を散歩させる娘さんたちの姿以外、静かで、たヾ日の暮れるのを待つばかりのようであった。
そこからは、遠くに小さな家々が見えるだけ。空がとても大きかった。
が、すぐ近くに北大の設計による五稜郭タワーともいうべく塔が建設されていたのは、いさヽか苦笑させられた。
ここにも、うれしがり屋がいるのかと思った。横へ延びるよりも、上下へ動く方が人間には魅力的なのかもしれない。 上へ高く上れば、すべてのものが見下ろせる。まさに高みの見物である。そして、オレはこんな高い処から、 オマエたちを見下ろしているんだゾ―という、明日には、その位置が逆転していることさえ気がつかない、 小人のつまらない欲望を満足させる単純なカラクリかもしれない。
だが、それはどこでもそうであるように、あたりの景観を損ねることは間違いない。 時代の要請がどうであろうとも、好いものを台無しにしてまで、金をかける必要はない。 とくに、北海道には高層建築が少ない。地理的気候的条件によるのだろうが、第一に広々とした土地を、 わざわざ縦に利用する必要はなかったのである。今でもスペースは十分にある。それ故に、日光も多く吸収でき、 自然のよさを十分利用しているのである。人間の知恵が、近代文明を最高度に生かすことにのみ使われていたのでは、 人間そのものの夢がなくなる。人間らしさが蝕まれてしまう。(中略)
日本は、小さな島国でありながら、四季があり、南から北に列しているため、風土的な違い、変化に富んでいる。 そういう恵まれた自然を有しながら、みんな、どこでも同じものを造り、同じものを売り、同じものを押しつけようとしている。
<夜景見物>
私は、初対面の人を別に苦手とはしていない。しかし、話を通じさせるまで、だいぶ時間がかヽるのは事実である。
相手がどういう人であるかを知るのは早くても、こちらがどういう種類の人間であるかを、相手に理解してもらうのには、
絶望を感じることさえある。
私は単純な人間ではない。至極単純な処もあるが、全くそうでない部分も多いから、単純ではない。 しかし、他人と一緒のときは、単純な面しか出て来ない。別に仮面を被っているというのではなく、 そういう面が顔を出す余地がないのである。だから、大抵は違った風にとられ、そういうものであると、 相手の経験から割り出した一つのタイプを与えられ、そういうものとして扱われることになる。 そこで、そうではないんですという弁明を入れる余地もないから、私自身がそういうものあるかのように行動しなければならず、 したがって、苦痛を感じるようになるのである。
それから、親切心の余り、押し売りをさせるのも閉口である。相手は全く自慢である。
おらが国さという言葉があるが、自分の住んでいる土地や地方の、産物とか自然とか因縁について、
大抵の人は全く自分に無関係でも、他の地にはなく、全くすばらしいもので、それに対して、異邦人は、すべからく頭を下げ、
ただただ神妙にすべきものだと思っている。それに関して、何か好からぬことを言われると、気分を害し、その相手を悪く思い、
まるで自分の尊厳まで傷つけられたように錯覚する。
こういう人たちに対しては、もう大人しくしている他に方法がなく、とくにその人たちの世話を受けているときは、
惨めな気持を抱いているより他ない。
私は、他人と話をする時、二人でも、三人以上でも、皆を退屈させてはいけないと思うから、共通する話題を提供し、 共にその時だけでも会話を楽しもうと思う気持が強い。だが、それは疲れ、労多くして功少ない仕事である。 しかし、大切なことだと思う。何故なら、それだけ集まって、しかも話題がないとしたら、集まっている意味がないからである。 (中略)意志の疎通なくして、人間関係は成り立たないわけだが、そういう場合、疎通どころの騒ぎではない。 むしろ黙っている方が得策である。
(函館山で、ビールの代わりにホットカルピスを飲む)何人かのウエイトレスがいたが、ひとり、 何にするか相談している私たちに応対して、笑顔でもって応えてくれた。それは熱いカルピス以上に、私の心を温めてくれた。 帰りがけにサヨナラをいうと、また笑ってサヨナラと答えた。たヾ、それだけのことなのだが、 これは非常に意味のあることだった。私が北海道旅行中、接した人の中で、何の引っかかりも感じさせなかったのは、 この人が最初で最後だった。
<にぎり寿司>
(S君の店の隣の寿司屋に案内される)新しいエビやウニを堪能すれば、私の役目は済むのだった。
新鮮ということが、それだけですばらしいという、一つの発見をした。
エビといっても、私は今まで赤くなったものしか食べたことがなく、おどりなどは、気味が悪くてまだ口にしたことがなかった。
こヽのは小さな種類で、口に含むと、甘味があり、とろけるように美味しい。これには全く驚いてしまった。それにウニもうまかった。
東京では、こんなうまいものは食えないだろうという、例の押し売りにも抵抗を感ずる暇なく
(私は東京のそんな状態を弁護する気は少しもないから)、私はじっくり味わいながら食べていた。
でも、あヽだろう、こうだろうと言われると、美味しいものを食べていても、うまくなくなる。
自然に、心理的にそうなるのである。
先ほど、(仲間に加われない話題に囲まれて)違和感を感ずると書いたが、ひょっとすると、相手は、 私のことを他人としてではなく、家族の一員かあるいは、よく知った人として扱っているので、 少しも卑下したりすることはないのかもしれないなどと考えたくもなる。 人間など様々だから、そうとでも考えないと、人生はつまらなくなるのかもしれない。これは教訓的だった。
<10月11日 いよいよ道内旅行・苫小牧>
テレビは、相変わらずオリンピックをやっており、夫婦喧嘩も恋のささやきも、まずはオリンピックが済んでからと、
万事休戦の格好である。不思議なもので、日本の選手が出てくると大いに気になる。
こういう感情が未だ、残っているのは尊重すべきなのか、悲しむべきことなのか。
北海道的な写真をとろうと願った。どういうものがそうなのか少し考えた。サイロ、レンガ造り、馬、広漠たる原野、 そういうものはきっと私の心を満たしてくれるにちがいないと思った。うまくとれるかどうかが心配だったが…。
バスは正味30分も乗れば支笏湖へ着く。(中略)火山灰地で、細かな土壌だから、でこぼこがなく、 その上をバスはゆっくりと滑って行く。もっとも印象的なのは、この真っ直ぐということだ。 途中の国鉄(いまJR)の線路でもそうであったが、どこまでも続くかと思われるくらい、それは果てしない。 遠くに見えた山が、だんだん大きくなって来る、そしてその裾野をちょっと回ったかと思うと、湖に出るのだ。 憎らしいくらいの演出である。
<支笏湖から札幌へ>
樹々の間に、垣間見える湖が、傾きかけた陽の光を反射して、鏡のようにキラキラしている。
導入部としては、文句のない交響曲の始まりである。
だが、湖畔まで下りて行くと、さすがに涼しく、水はきれいで冷たく感じられる。山や小高い丘の樹々は、
みな黄葉していて、私の心を落ち着かせない。大騒ぎをしている人間が、よけい小さく醜く見える。悲しいことだ。
私は写真を撮るとき、出来るだけ人物を入れない。つまり、人間は邪魔なのだ。 たヾ、より効果的にするために利用することはある。しかし、それもまれなことだ。 だから、私の写真は、現実には人が沢山いた処でも、全然写っていないか、ほんの小さく見つけることができるくらいである。
要するに、私はあるがまヽを撮ってはいない、ウソを承知で撮る。それでは、ウソの写真かといわれヽば、
すべて真実だと答える。なぜなら、私の眼にはある風景を見て、そこに水とボートと黄葉と人が沢山いても、
水と黄葉しか写らない場合がある。そこで、水と黄葉の写真ができても、それはウソにはならない。
芸術はウソを容れて、より真実なものにすることであるから……。
だから、他人(ひと)は私の写真を見て、すばらしいと思っていたヾければ、私の目的は達成されたのである。
疲れていては、人間何ごとも面倒くさく感じるものらしい。私といえば、普段はちょっとしたことでも疲れ、 実際毎日が面白くもないのだが、何か特別の、たとえばこんな旅行のときだと、睡眠不足でもなんでも、 疲れるということを知らないのである。全く好き勝手である。そして、そういうことは、よく他人を驚かす。
今度は札幌へ向う。(中略)バスの中でも、ラジオがオリンピックをやっている。これには腹が立ってきた。 旅行して、すばらしい印象を得た後、まだその余韻が残っている処に、誰か客の希望によってスイッチが入れられたことは、 とても許しがたかった。四、五十人の人間が乗っているのに、全く一個人の欲求だからといって、他人の迷惑も考えず、 また諒解を得ることもせずに、勝手に振る舞う日本人の特性には、全く腹が立ってくる。 彼には自分のことだけで、他人のことはどうでもいいのだ。彼は、どうやら北海道の人間だった。
私は、東京もオリンピックもそれからすべてのものと、ほんの少時でも訣別するために旅に出たのだ。 それ以外の何ものでもなかった。そういう気分でいるときに、オリンピックという、全く異質の、 全く場違いのものを押し付けられたのでは、私の尊厳も何もあったものではない。
オリンピックを耳にすることは、私を現実に、東京の片隅のみじめったらしい下宿の一室に、寒く空腹でいる、
いつもの私に否応なしに引き戻すことなのだ。
私が、まさに逃れてきた元の生活に、正確に呼び戻されることなのだ。私は旅行中、全く別の私でありたかった。
誰に気兼ねするでもなく、誰にあいさつするでもなく、ただそういう自由な人間でありたかった。
このような干渉は、たとえばフランス料理を食べているときに、ごてごてした中華料理を出されるようなものだ。
クラシックを聴いているときに、突然歌謡曲をがなり立てるのと一般だ。
私が、今度の旅行中、大自然のすばらしさに接しながら、何か北海道にいるんだという気がしなかったのは、
概ね上のような事情による。
<札幌>
(S君の親戚の家に着き)私は、彼についで皆にあいさつをした。それはありきたりの線を出ず、私は落ちつけなかった。
ここでも、私はアウトサイダーであることを余儀なくされた。自分が仲間に入っていないこと、
しかも確実に私を無視して会話がなされていること、そういう中で、やはり私は来るべきではなかったという気持が、
私を責め続けた。
それは人間にはよくあることで、当たり前のことだったかも知れぬ。だが、しかし、私を直感か一瞥によって、
無害な人間だとか、大人しいやつだというふうに判断を下しているのだろうか。だから、無視できるのだろうか。
その家、その人によって、しきたり、主観はあるだろう、だからそれに従うのが当然かもしれないが、
その手がかりもつかめないままでは、どうすることもできない。要するに、黙っているより仕方がない。
しかし、黙っていても、目のやり場に困るのである。
わが友S君について、少し述べよう。
彼は、こよなく函館を、北海道を愛するが、住みにくい処だという。
小さな町だから、女の子と一緒に歩いているだけで、変な噂が立ち、ダメにさせされるから、
うっかり友だちにもなれないという。そういうわけで、彼には確固たる友だちがいない。
彼自身はもはや、それを運命の如く、仕方がないとあきらめているらしい。
もう一つ、緊張が解けず彼を悩ませるのは、同じ道内に親類がいくつかあって (今度も、それを泊り歩くわけで経費節約になるが)好都合なのだが、表面ではいい顔をしていても、 後でどんなことを言われるか判らないという。そういうまるで動物園の檻の中に入って行って、 しかも無傷かそれに近い状態で出て来ようというのだから、彼の気の使いようといったら、全く気の毒なくらいである。(中略)
だが、それで得た結論は、私はむしろ無作法に、まるで何も気がつかない振りをしておればよいのだということだった。
しかし私は、気分が落ちつかなくなり、どこでどうやって、体の中のうっ積した黒いかたまりのようなものをぶちまけたものかと考えた。
それは苦痛だった。そして、もっと痛切に感じたことは、わずかな予算で無理に飛び出したことだった。
もっと余裕があれば、少々経費がかヽっても、安楽が得られるならば、そのほうがどれだけ安かったか、
逃げ出そうにも逃げられないこの勇気のなさが、しみじみと悲しく思われた。
(サッポロビールを飲みに行く)狸小路。明るいアーケードの下に、東京でも見た万国旗がずらりと垂れ下がっており、 しかも"歓迎'64東京オリンピック"という看板には驚いてしまった。どうして遠く離れた北海道のこの地までも、 "歓迎"しなければならないのだろうか。一つぐらいソッポを向く処があってもいいではないか。 どこもかしこも、なぜ一体感ばかり求めるのか、私には割り切れなかった。
<10月12日 旭川を経て層雲峡へ>
大雪山国立公園の中の層雲峡へ行くのだが、前日、あそこはつまらないし、道もガタガタで、
むしろその近くの天人峡へ行ったほうがいいなどといわれて、S君はそれを信用したようだった。
しかし、私は他人は他人で、その人が何といおうと、私の行きたい処へ行くのだという主張をいさヽかも曲げることはなかった。
他人は他人という考えは、私はあなたとは違うんですという消極的な意味ではない。そういう意味は確かに含まれてはいる。 しかし、私という一個の人格を有するものと、他の諸諸の人格を有するものとは、自ずから異質のものであって、 同じものを見たり聞いたりしたからといって、決して同じ反応を示すとは限らない。むしろ、同じ反応を示すほうがおかしい。 それゆえに、良くも悪くも、私という人格が選んで、かつ実行しようという行動に対して、 他人の差し出口の余地は全くないのである。
北海道は今年、冷害で凶作だという。そのため、熊が人里まで出てきて、その被害は大きいようだ。
旭川から層雲峡まで全長60キロ。そのうち直線道路が18キロも続くのだ。(中略)一台、スポーツ・カーと行き違ったが、 大きな音を立てヽ、ぶっ飛ばしているのが、何か場違いの感じ。私たちの目には、スポーツ・カーは都会の混雑の中で、 のろのろしている車の渦の中で、ひときわ目立つその姿を誇示するもので、 早く走るという観念はとうの昔に失われてしまっているのだ。乗っていて張り合いがあるのは、そういう場合なのだ。
途中、バスは上川駅に立ち寄るといい、道が悪いから注意して下さいということだった。たしかに揺れた、そして何か安心した。
今バスに乗っているのだなということを思い出したので。何かヾ狂っている。これは貧乏人根性かもしれない。
あまりに貧しい生活に慣れてしまって、それ以上の生活はないと錯覚するような具合に。
何か貧しい国、日本に安住している自分がしゃくにさわってきた。何とかしなければならない。
<層雲峡>
層雲峡に着いた。旅の第一の目的は、ここへ来ることだった。
まず、安心のために、宿を決めておこうとS君が電話で交渉を始めた処、一度でこちらの思惑通り、
すべてを含めて1,500円という話がまとまった。彼の腕には感心した。商売人の息子だからといったら、怒られるだろうか。
私は、こういうことは全く苦手なのである。間違わないように、相手を損ねないように、
うまく行くだろうかなどと先に考えてしまうから、駄目である。まるでドストエフスキーの主人公のようだ。
一旦、宿に荷物を置きに行く。安いだけあってあんまり良い部屋ではないが、気兼ねする必要がないからいい。
第27号室だった。北海道らしく、館内には大きな熊の剥製がいくつも置いてある。全く獰猛に見える。
層雲峡でも、そこからまたバスに乗って少し行く、大函、小函という処が本命らしい。 (中略)陽がかげって、だいぶ光が弱くなった中を、 右手に石狩川、左手上空にはそヽり立つような垂直の岩壁が―柱状節理というのだそうだが―幾つも続いて、 今にも頭の上に崩れ落ちてくるかのように、覆い被さっている。驚きと恐れ、それに重たさを感じさせる眺めだ。 全く予想もしていなかった景観だ。岩肌は苔むして黒ずんでおり、ずっと昔からそのまヽの状態であったことを物語る。 途中で折れてひっかかっているようなのも見えた。まるで、物差しで寸法を測ったような見事な柱の行列であった。
<ガイド嬢のおしゃべり>
バス会社か観光屋か役所の人間が考えた文章かどうか知らないが、恐らく親切心のあまり、
そして折角いらしたお客にサービスをしなければという真摯な気持の現れであろうが、
どうもその文句は押しつけがましくていたヾけない。例えば、岩が何々の形をしているからとか、
滝の姿がどうだからといって、何々の岩、何々の滝という名を冠している。
内地でこういうのを聞いている分には、私は何の抵抗も感じなかった(むしろ、聞き流していたといったほうが正しい)。
だが、ここではそうはいかない。名前などはたしかに符号である。分類表の一方便に過ぎない。 だから、何だっていいわけだが、もう少し考えてもよかろうにと思うのである。というのは、それらがあまりにも日本的な、 しかも非常に陳腐な名(羽衣、天女など)が付けられているからだ。
こういう親切心は、往々にして他人の感覚をにぶらせるものだ。たとえそれが名を持っていなくても、 人がすばらしいと感じたら、それで十分ではないか。名前があるばっかりに、人は感動を失ってしまう。 自分を見失ってしまう。観光業者の考えねばならないことは、いかにしたら訪ねて来た人々に、 より多くを感銘づけせるかということなのだ。自然は誰のものでもない。万人のものなのだ。 それを大きな顔をして、こういうふうに見るんですよといったのでは、自然を冒涜するも甚だしい。 だが、もっと悲しむべきは、現代人がそういう安易なことを尊重するような風潮になっていることかもしれない。
<ホテルと名のつく宿で>
S君念願の、温泉につかってご酒を呑むという夢が実現する。私も満更ではない。すべて好調で、酒がとてもうまい。
女中さんが側でお酌をする。土地の人か知らぬが、田舎田舎した感じで、余り気の利いた話はできないようだが、
あっさりしていてまず及第であろう。あんまり調子よく呑んで、おかずがなくなる。後はお茶づけをさらさらといれて、
小一時間で終わる。
まあ、悪くはないと思いながら、うっかりしてお金を落としてしまった。すぐ届けると、取りに来いというが、 一割以上謝礼しなければ返さないというのには、全く開いた口がふさがらなかった。そういう"常識"には初めてお目にかかった。
仕方なく、テレビを見に行く。こんな山奥にもテレビがあるのだから不思議だ。例によってオリンピックだ。 客に交じって宿の女中がだいぶ見ている。何でも、二百人いる女中さんより客の方がだいぶ少ないというのだから、 たいそう暇なわけだ。だが、客と一緒になって見ているというのは、普通では考えられないことだ。 上の人も本人たちも何とも思っていない処に、北海道らしさ、あるいは呑気さがあるのではないか。 この日は、重量挙げで、M選手が始めて金メダルをとるかとらないかという興味ある放送に人気が集まっていた。
私は、前にバスの中でのオリンピック中継について面白くないと言った。そしてここでは、 その反対の態度をとろうとしているのを不思議に思われるかもしれない。たしかに私はNHKの力の前に屈したわけだが、 こういう室内では、もはや北海道も東京も区別がつかなくなったということを思い知らされたのだ。 夜、部屋の中に入ってしまうと、自然から隔絶され何も見えず、何も変わった音もしなければ、 別に確固として北海道の大雪山のふもとの層雲峡にいるのだという考えは、実感として浮んでこない。 不思議なことだというより、もう仕方がないというより他ない。何故なら、今やどこも皆同じ顔になりつヽあるからだ。 異郷に遊ぶなどという感じはないのである。
その上、オリンピックである。これほどまでに、オリンピックが執ように私を追いまわしてくるとは、夢にも思わなかった。 私は何か悪いことでもしたのだろうか。お蔭で、私の北海道に対する気持がだいぶ薄められた格好だ。
北海道の観光地にとって、もう一つ考えなければならない点がある。それは、一般に愛想がないということだ。 土産物屋の売り子でも宿の女の子でもそうであったが、こちらが買い物に行っても、 いらっしゃいませともありがとうございますとも言わない。黙ってすべてをやってしまう。 そして、自分たち仲間同士は、うちとけて話をしている。先程のテレビを見ていた女中と同じように、客の立場からすれば、 甚だ不愉快であり、悪くすると、こちらがそういう人に声をかけるのが、何か間違っているような錯覚さえ覚える。 何か相手に迷惑なのかとさえ思う。それが皆一様に白くてきれいな顔をしているのだから、よけい変な気持だ。 私は、そういうのを新鮮だとも、いいことだとも少しも思わなかった。むしろ、旅の印象がだいぶ悪くなったぐらいだ。
風呂に入って、カード(トランプ)をしてウイスキーの残りをなめて、床に入ったのは一時ごろだった。
だが、二人とも眠れず、四方山話をする。お茶をいれ、旅館が用意してあるクラッカーか何かをぼそぼそと食べ始める。
例によって、どうしてオレはもてないんだろうと彼がこぼす。仕方がないさ、女の子たちはキミの良さに気がつかないのだから、
なんて慰める。
『のぞきの君 聞き耳立てれど ツルの一声』
これは、その夜、モノした私の傑作である。私には、熊か何かが出てきたのだろうと思われたが、
コウモリのような敏感な耳を持っている彼は、間違いないという。私自身も、どんなツルか一目見ておきたかったのだが…。
彼は、人間的な欲望が、素直に表現できて、うらやましく思う。私には、追体験しか許されないのだ。
<再び札幌へ 10月13日>
札幌の街は何か雑然としていて、うるさい感じだ。活気があるというのかもしれないが、私はこういうのは好きになれない。
時計台は、これもクラーク博士に関係があるらしい。時計台が、学問とか大学を象徴的に表わしているのはどういう意味があるのだろうか。
テレビ塔は、高所恐怖症の彼が率先して上る。地上90メートルの処に展望台があるので、
たしか名古屋のテレビ塔と同工異曲のものと思われる。誰そ彼時で、どこに何が見えようと、大して興味がないが、
山の端に陽が沈んで行く様は、写真になると思ってシャッターを切った。塔の下に真っ直ぐに伸びた大通りが、
夕闇にかすんで見えた。ここであの雪祭りが行われるのだという。
「札幌 すヽきのの月」
話のついでに、ここへ来てラーメンを食べた。昔のすヽきの代わりに、今は口紅をつけた熊が出るそうな。
(再び、S君の別の親戚へ)そこで、ちりなべを賞味する。これは実に見事なものであった。
私は、今までちりなべといっても、てっちり(鉄ちり鍋、ふぐが主体)等、一種類のものしか食べたことがないが、
ここのは、エビ、アワビ、カキ、タラ、それに白菜やシュンギク、ミツバに豆腐と、色とりどりのものが入っているのだ。
これには驚いた。こんな料理があるものかと思った。新鮮な魚や野菜が豊富なのだ。
富んでいるということは、人間にとって利益になることだ。こんな美味しいものは初めての経験である。
また、冷たいビールも至極うまかった。
<市内見物(札幌)10月14日>
まず、型の如く北大に向った。車の中で、冗談を飛ばしながら、意志の疎通をはかる。何とかうまく行ったようだ。
かつては憧れたこともある北大の、構内に無断で入って行く。もう全く観光用になっていて、
学生も別段不思議がる様子もなさそうだ。建物の間をぬけて、ちょっと池や芝生を見ただけで、直接ポプラ並木の処まで行く。
天下に名高いこの並木も、もうほんの少ししか残っておらず、まだ黄葉はしていなかった。
厩舎には馬が見える。広々としてのんびりとした学校だ。
他人には判らないのだ、私の気持が。私が何を欲し、何を拒んでいるのかの判断もできないのだ。
どんな人が来ても案内してくれといわれたら、ちゅうちょすることなく、こういうコースをたどるのだろう。
それは別に悪くはない。しかし、人は様ざまなのだ。興味を示す処と、そうでない処がある。
それを十把一からげに扱われたのではたまらない。
そういう意味では、他人を案内するなんて、とても難しいことだ。その人の好みや何やによって、
千差万別の反応を示すはずだ。それを適確に判断して、対処しなければならないのだ。
そうでなければ、決して案内したことにならない。どんな場合でも、往々にして窮屈を感じるのは、
そういう案内者側の立場によった案内をされるからだ。だから、本当ならば、おぼつかない処でも、
自分ひとりで歩いたほうが、精神の健康のためにはよいのである。
植物園に入った。外からではどんなものか判らなかった。ありきたりのものだろうと考えていた。
だが、少し様子が違うようである。私は、ひとり離れて歩きながら、黙って写真をとっていた。
そのうちに、さっきまでの憤懣やる方ない気分は全くなくなってしまった。樹々の緑やきれいな芝生が、
私の心を瞬間に浄化してくれたのだ。私はうれしかった。
これで、当り前の顔にもどるだろうと秘かに喜んだ。(中略)どこかの小学生が、二人、三人とあっちこっちに坐って談笑していた。
静かな雰囲気だった。樹々は黄葉したのもあれば、まだ青いのもあった。種類も沢山あるようだった。
林か、森の中に迷い込んだような錯覚にとらわれそうだった。気持がよかった。包容力が旺盛だった。
<バーベキュー>
陽のよく当る、岩のごつごつ露わになった処で、バーベキューを楽しむ。なかなかうまいものだ。
ご婦人連を相手に、二人の若者、大いに道化役をやる。いささか疲れても、後は宿に行って寝るのみと考えたら、気分が楽だ。
(豊平川まで、婦人4人を交えドライブ)"火つけ役"の彼の力量は大したもので、わけもなく点いたらしい。
(中略)強い火に熱くなった鉄板の上で、肉(マトン)がジュンジュンいっている。
それを次か次へと平らげて行くのだから、いくら早く焼いても足りっこない。肉はあまり臭くもなく、
川原の坐り心地はよくなかったけれど、勝手なことをしゃべって勝手なことをして楽しんだ。
ナポリタンというサイダーを水代わり、酒代りに飲んだ。
小学生たちもいつの間にか帰って、あたりが静かになったころ、知らぬ間にカラスの大群が、川原のあちこちに来ていて、
歩いたり飛んだりしている。それがあの奇声を発するでもなく、羽音だけたてヽ飛び交う。何百羽と集まっている。
何ごとだろうと思ったが、人の食べ残しのカスやクズをあさりに来たのではないかという。
北海道では、カラスは珍しくなく、たいへん多いそうである。私も始めはいやな気がしたが、あんまり沢山いて、 しかもバタバタやっているのを見ていると、ヒッチコックの"鳥"を思い出し、次に(人間には)何もしないことが判ると、 何て可愛いヤツらだろうと思うようになった。そこで、皆に"カラスのカン九郎"の即興の作り話をしたら、 てっきり信じてしまったので、困ってしまった。カラスはどうしてカン九郎といわれるようになったかというお話なのだが、 私自身、何も知らないのに、つい口をすべらしてしまって、悪いことをしてしまった。 純情な人たちには、そのような話をしてはならないのだ。
<定山渓>
温泉街のにぎやかな処を素通りして、(中略)二人だけが行くはずの処を、まるでなだれ込むように大挙して、
(休日の保養所を無理に開けてもらい)押しかけたものだから、対応に出た女の子はびっくりして、次には冷たい表情になった。
一体誰が泊りに来たのか判らないくらいだから、変な顔をするのも無理はない。しかし、女性陣が帰った後で、
残された二人が、何か文句でもいわれたら、それこそいい迷惑である。成るようにしか成らないのが世の中だが、
大人(女性4人)ばかりが相手では、どうすることもできないではないか。
それかあらぬか、全く愛想が悪い。つっけんどんである。それが、ちょっと気になる顔をしている。 まるで、牝熊のようだ。白い顔に、濃い目張りをした、黒いアイシャドウをつけた、東京でならいつでもお目にかヽれる、 そんなどぎつい顔をしている。きれいでもなく、魅力的でもなく、たヾ気になる顔なのである。 およそ、表情を変えず、口ひとつきこうとしない。何で旅館の接待をやっているのか、とんと解せない次第である。
それでも、風呂から上がるとサッパリするものだ。着替えをしていると、お食事にと来る。 ご酒をつけるように頼んで期待していたのだが、不味くて呑めず、二本でやめてしまう。二人で、何だかんだ言いながら、 食事をする。このほうは、満更でもない。全部片付けてしまってから、女の子がきて(アイシャドウとは別の女の子)、 御御御付(おみおつけ)を忘れていたと持ってくる。私たちも全く気がつかなかった。少しでも召し上がってくださいという。 満腹気味だったが、無理して少し口をつけた。人間は、欲しいと思うものは、無性に欲しがるが、 要らないものだと気がつかないこともあるものだ。それを当り前だと思っている。ちょっと変な論理である。
レスリングで、金メダルを3個獲得する。日本は、競争となると陸上でも水上でも到底、他国に太刀打ちできないが、 相手にしがみついて死んでも離さないという、スッポンのような競技には強いようである。 これが、大和魂であり、根性というものなのだろうか。
この辺りは、夜になると一層静かになる。宿には、私たちの他に客は誰もいないとあって、静かなのは止むを得ないのだが、 風の音や水の音さえも聞こえて来ないのである。東京の下宿であったら、どんなに静かになっても、 どこかすぐ近くに無数の家が立ち並んでいるという雰囲気が感じられるのだが、層雲峡でもそうであったように、 こういう処の静けさは、一種格別のものである。
本当に何も聞こえない。何も聞こえないばかりか、野中の一軒家にひとりでいるような心細さを覚える。 そういう状態だから、熊が出て来るゾと言われたら、決して否定する勇気は起こらないだろう。 今にも窓の外に、月の光の照らされて大きな熊がのそのそと歩いて来る感じである。こういう静けさは、たしかに気味が悪い。 他では絶対に感じられないものだ。
夜中、盛んにトイレに立つ。二時か、三時ごろだったと思うが、私たちの他に誰もいないはずなのに、外で話し声がする。
変だなと思ったが、こちらものっぴきならぬ事情で外へ出なければならないのだから、別に熊だってちゅうちょしておれない。
思い切ってドアを開けると、ちょうど隣の部屋の前あたり、薄暗い処に、雄猫が一匹に雌が三匹、
ゴロニャンとにらめっこしているのである。
暗くてはっきりは判らぬが、空気は甚だ険悪で、ちょっと気味が悪くなってきた。
しかし、それはこちらには関係のないこと、干渉はしませんから、どうか喧嘩だけは止して下さい。
ずっとずっと田舎の、こんな処でも、真夜中の恋のさヽやきならぬ、奪い合いの闘争がくりひろげられているのである。
世界は日の出を待っていますぞ。
よく朝、顔を洗いに行って、女の子に会ったら変な顔をしている。何しろ、現場を見られてしまったから、 ばつが悪いのだろう。それにしても、ちゃんと起きているのは感心した。
<中山峠を越えて洞爺へ 10月15日>
発車して間もなく、舗装された道は途絶えてしまう。赤土の小石まじりの道は、山の裾を切り開いて造られたヾけのもので、
中山峠までの上りは、細く曲りくねっていて、しかも傾斜が急で危ない処ばかり。運転するのも大変だろうが、
乗っているほうも気が気でない。ちょっと踏みはずせば、間違いなくもんどりうって谷底へ落ちてしまう。
途中で峠から下りてきたサイクリングの青年とすれ違ったが、彼の車はよろよろしており、彼の顔は土気色で、
すでに瞳孔が開いてしまっているように不気味で、バスを避けるのも精一杯のようであった。
「中山峠を越えて洞爺湖へ」
少時休憩して、峠を下り始めるとすぐ、道路ぞいに注意書がある。曰く「景色に見とれて運転をあやまらないように」
峠の茶屋から、西のほうに遠く、蝦夷富士といわれる羊蹄山の美しい姿がはっきりと見える。 こんなによく見えることは、滅多にないそうである。私たちは、よほど運がよいと見える。 やや女性的だが、富士山によく似ている。一面雪で白く覆われている。また、別の方向にはエゾカンバの群落があって、 そばまで行ってみる。樹々の下の方には熊笹が青く、その中からエゾカンバが無数に空に伸びている。 白い、しかしシラカバのように決して女性的な肌ざわりではない。寒さに耐えぬいた厳しさを思わせるゴツゴツした感じである。
<洞爺湖>
何をするにも、まずは腹ごしらえ。どこか気の利いた処はないかと物色する。
いくらも歩かないうちに、"望湖亭"という格好のいい店を見つけた。ここならいいだろうと入って行くと、
案に違わずちょっと洒落ている。ランプがいくつも吊ってあり、そのひとつひとつが違っている。
入って来たとき、ちょうどモダン・ジャズをやっていたので、よけい気に入ったのかもしれない。
山道を長々と揺られてきたので、少し疲れた。その二人がちょっと無様な坐り方をしていたヽめか、 ウエイトレスは変な顔をしている。彼女たちは、例によって一様に白くきれいだが、相変わらず愛想が悪い。 カニのバターライスという美味しい料理とコーヒーを飲んだのだが、何か彼女らは私たちを誤解しているらしい。 あるいは、私たちは、あまりにもあのサービスの笑顔というものに慣れてしまったのだろうか。 いずれにしても、折角の料理が不味くなっては、元も子もなくなってしまう。媚を売れとか、 こっちの気に入るようにやれと言っているわけではない。ただ、店にいるときだけでも、楽しく過ごせるようにするのが、 給仕の役目ではないか。どうも北海道は、面白い処である。
(湖内遊覧船から)下船したときは、もう三時近くで夕日がだいぶ傾いて、辺りが暗くなってきた。 私は、湖とその岸の黄葉が、日に照らされている処をカラーでとりたいと思っていたのだが、ちょっと時間が遅い感じだった。 しかし、折角思いついたことをあきらめてしまうのがしゃくだったので、湖岸をおよそ2キロぐらい、 お天道さまと競走することにした。砂地は走りにくく、カメラを2台持っているので重く、 しかもトレンチ・コートを着ているので暑苦しかったが、どんどん走った。
後から来るS君のことも忘れて走り、やっと太陽に追いつき、近くの小高い丘に駆け登って、
意図通りの写真をとろうとしたが、すでに光弱く、中の島がぼんやりして、水の色もなく、シャッターを切ったけれど、
私はもはやあきらめざるを得なかった。私の意気も、お天道さまにはかなわなかった。(中略)
ガックリ来たときには、すでに日は全くかげって私の気持と同じだった。元来た方向に帰っていると、
車道をフルスピードの車が通過したとき、ボンと異様な音がしたかと思うと、目の前でネコが死んでいた。
<帰路、函館へ>
(一時、S君と別れて、親戚のEさんの家に)私は、E夫人を相手に旅の話を順序なく披露する。
そして、いろいろ感じたことを話すと、彼女は(一家は8月に内地から引越して来たばかり)、
北海道の人は、内地の人よりケチというか計算が細かいというような印象を受けたと話していた。
(S君推薦の、洞爺で買った)若狭いもを食べてみる。なるほど、美味しいものである。
そこで、お茶をというと、それよりビールを飲もうということになった。子供たちは、中学生と小学生の兄妹である。
いずれにしても未成年者だ。ところが、ご主人の留守の間、三人でよく夜コタツに入りながらお茶代わりにビールを飲むのだそうである。
二人とも顔色ひとつ変えるでもなく、まるで水でも飲むように大人しく飲んでいるのだから大したものである。
札幌で、サイダーしか飲ましてもらえず、しかも、それを2本も飲んだ高校生を思い出して、おかしくなってしまった。
法律がどうのこうのというならば、たしかにいけないことだろう。……
<大沼へドライブ 10月16日>
S君との約束があるものの、寝たいだけ寝ようと思って、自然に目が覚めるのを待っていたら、10時過ぎになってしまった。
天気は少し曇っているようだが、大したことはなさそうだ。遅い食事をひとりでして、テレビを見ながらのんびりする。
フルシチョフの解任が報ぜられていた。中国の核実験も初めて行われて、オリンピックと相まって、
このごろの世界は実にあわただしいことだ。
1時ごろ、Sレコード店へ行くと、S君案の定、遅い遅いと怒っている。どうも済みません、つい寝坊しちゃって。
途中、リンゴ園に寄った。私は、リンゴ狩りやミカン狩りなどしたことがなく、物珍しかったが、
北海道にリンゴができるとは思っても見なかった。しかし、長野といい青森といい、みんな寒い処なのに、
そればっかりが頭にあって、北海道にもなんて考えたことがなかった。
北海道の人に言わせれば、内地の人は産物とか風俗とかに対して、いろいろと誤った考えをしているということである。
たしかに北海道といえば、内地とはかけ離れた感じで(私も来る前の観念はそうだったのだが)、
どんなに変わった生活、どんなに変わった物を食べているのかと考えがちだが、別に大した違いはない。
同じ日本人なのだから当り前の話だが、人間は知らない国や地方、そういうものに対して劣等感や優越感を抱いてしまうと、
往々にして偏見を持ちたがり、かつそれを信じようとするものだ。とくに日本人にはそういう傾向があるようだ。
そして権威あると他人に認められている人がそういう発言をすると、たちまちそれを盲信して疑わないのが、
この国民の特質でもある。
人間は、何ごとに対しても謙虚でなければならないし、また自分を信じて自分の観察、判断で、
自分の考えというものを持たなければいけない。だからこそ、私は頑固に、
他人のいいという勧めにも耳を貸さなかったのである。
リンゴ園を去って、だいぶ走ると山道に入る。道はデコボコなのだが、これもまた趣がある。
山の上から、谷のような処を見下ろすと、"熊の湯"なんて立て札がある。温泉でも出るのだろうか。
即興のお話:夜になると、熊がお湯には入りにきて、姐さん、ちょいと背中流してくれといい、湯から上がると、
ポンポンと手をたヽいて、ああいい心持だ、ご酒を一本つけてくれ、熱いのをな、とかいうそうな……。
「大沼国定公園」
函館から数十分の処に、この静かな、しかも変化に富んだ公園がある。深さが数メートルしかない大沼、
小沼それに蓴菜沼(じゅんさいぬま)、そして駒が岳。この沼には大小様々な島があって、いずれも樹木におヽわれ、
小鳥たちの遊び場になっている。ここも黄葉が美しく、水とそこに浮ぶ水草に鳥、大きく暗い影を落とす樹々などの美しさに、
また心はひきつけられるのだった。
西日が湖上に長い尾をひき、汽車が黒い煙をはいて走り去るころ、樹々には、カラスがいっぱい集まって大騒ぎを始めている。
また、カラスと犬は友だちなのだろうか。庭では一緒になって餌をほじくっている。
上空では、一羽のトンビに大群で応戦していたが、もう私はカラスに慣れてしまって、少しも奇異には感じなかった。
むしろ、愉快なヤツラだと思う。
曇り空なので、駒ケ岳がぼんやりとしか見えない。明日は雨になりそうだ。
「ボート」
夕闇せまる大沼で、人影もまばらの中へボートをこぎ出す。黒くなった水面のいたる処に岩礁があると聞いて、急に自信を失う。
静かに島をめぐり、橋の下をくぐり、水鳥を追い、西日の消え去るのを見とどけるころ、手は冷たく感じられ、
空には半欠けの月がだんだんにその光を増して行く。平和な、とても気持ちのよい、思わず歌を口ずさみたくなるようなひとときであった。
(念願のボートを漕いだあと)宿に帰る。ここも彼の知り合いの家だそうである。
他に客はないはずであったが、5人ほど学生がくるというので、部屋を譲る。風呂に入る。
カメラだけで、あとは何一つ持ってこないものだから、タオルまで拝借せざるを得ない。
いちばん風呂は、いい気持だ。食事の段となって、例によってご酒を注文。
少しぬるいので、とっくりを火鉢のそばへ置くと、彼は驚いて、どこでそんなこと覚えたのだとお尋ねになる。
どこで覚えたってわけでもないさ、酒呑みだったら、こんなことぐらい気がつかなくちゃなんて、いさヽか鼻を高くする。
尤も、ちょっと頭を働かせば、誰だって考えつくことだろう。お蔭で、人肌の熱かんができて、
うまいのが呑めるようになった。宿からも頂いて、全くいい心持ちある。わかさぎのイカダ刺しというのが酒によく合う。
一般に魚類は美味しいと思う。ご飯を食べるころには、お菜もほとんどなくなって、口の要求もあって、
お茶づけさらさらとなる。(中略)
夜気に触れたくて、外に出る。近くの、"レークサイド"という洋酒喫茶に入る。 ジュークボックスがおいてあったので、何曲もかける。気持がよくて、眠くなる。彼は本当に眠ってしまいかねない。
「ダンスする人」 その夜、わずかの飲酒で、いい気分になって、沼の近くの薄暗い店へ行く。そこで、音楽に合わせて踊る一組の男女の、 そのシルエットがどんなに美しく見えたことか、きわめて印象的な夜だった。
S君、大沼は寒いぞと宣伝していたが、むしろ暖かく、気持がよかった。今度の旅行中、彼の言うこと、
予想は一つとして当らなかったのだから愉快である。終いには、カブトを脱いでしまい、
なんでも私の言う通りにするよなんて、逃げてしまった。
実際のところ、彼の言うことがすべて正しかったら、天気が悪かっただろうし、寒かっただろうし、
またどこへ行っても道が悪く、見るべきものは何もなかっただろう。それでは、わざわざ北海道までやってきた甲斐がない。
むしろ、みんなはずれてくれて、かえって良かったのである。しかし、こういうことはよくあるだろう、
幸運が続くということも。
<函館ウロウロ 10月17日>
朝早く目をさますと、外はひどい降り。だが初めての雨で、むしろ懐かしいぐらい。(中略)さすが寒い。
ご飯を食べるとき、彼はまた火をおこす。あまりに見事なので、宿の娘さんは大きに感心していた。
火遊びととられなかったのは、大人に見られたためか。(中略)ジーゼルでおよそ1時間、函館に帰る。
小雨の中を走って市電に乗り、Sレコード店へ。
<トラピスト女子修道院>
トラピストといっても女子修道院のほうで、なんでも粗衣粗食に甘んじ自給自足をし、沈黙と勤労を尊ぶ宗派だとか。
建物の中に入るのはなかなか難しいらしいが、私たちが行ったときには、運よくトビラが開いていたので、
礼拝堂などをのぞくことができた。きれいな処である。静かなたヽずまい。
雨に濡れた緑色のドームのような屋根とレンガの赤が、よく調和していた。
<立待岬>
午後、函館公園の近くまで来ると、自然に足が向くという"想苑"というモダン・ジャズをやっている喫茶店に立ち寄る。
ちょっと見には、なかなか見つけにくい処にある、一風変わった店だ。(中略)車からオジデ(降りて)歩いて岬まで行く。
公園は、ロープウエイの近くである。途中には、民家がたくさんあって、それをはずれると小さな漁村がある。
その上方、なだらかな丘陵に墓地があり、中に啄木の墓がでんと構えている。墓の上から函館の市街を見下ろすと、
白い荒波が、激しく岸に迫っているのがよく見える。
そこで、S君は思いがけなく東京の友だちに会い、三人で歩き出す。いわゆる立待岬という、その先端まで行く。
ここに、晶子鉄幹の歌碑があるが、余り有名なものではない。(中略)早いところ引き上げようと帰り始めると、
また雨が降り出す。通り雨で大したこともなかろうと思って、待たずに歩き出したので、ひどくなっても雨宿りする処もなく、
皆ずぶぬれになってしまった。
<Eさんの家>
9時ごろ彼の家を出て、半ごろEさんの家に着く。もう電気が消えていたので困ったなと思ったが、ノックしたら、
まだ寝たばかりだというので、中に入れてもらう。私は、どうも他人の家を訪ねるのが夜遅すぎていけない。
一つは、ルーズな点にあるのだが、もう一つは、どうもどちらにも悪いと思って、両方を立てようと思うから無理が行くのである。
Eさんに会うのは、三度訪ねて、今が初めてである。ここでも、またビールを飲み、2時間以上も談笑する。
私は、たいへん酔っ払ってしまった。それでもいい気持だ。別室にひとりで寝る。寒いが、
そんなことはすぐ忘れて寝てしまった。
はじめは、いろいろ予定を立て、ここの人たちとも遊ぶつもりであったが、何だかんだいっているうちに、
一日帰るのが早くなり、その時間がなくなって、単に宿を借りるだけになってしまった。いや、それだけではない。
軍資金まで援助してもらったのだ。これは大助かりだった。人間、金のないときほど、みじめに、卑屈になることはない。
それは、自らが全くいやになってしまうくらいだが、実際問題として金がないというのはつらいことだ。……
<さよなら北海道! 10月18日>
8時に起きる。昨日と違ってとてもいい天気だが、風が強い。もう一度、立待岬へ行くことを思い立つ。
今度こそ、きっといい写真ができると思ったからだ。
日曜で、昼ごろまでぐずぐずしていたが、3時半出航なので、あまりのんびりもしておれない。
中学生の長男と表へ出て、今井デパートへ行き(デパートへ入ったのは、ここが最初で最後だった)、
また美味しい寿司を食べて、電車で岬へ行く。途中彼は、十何軒目かの映画館を見つけたと喜んでいる。
市内には二十数軒もあるというから大したものである。(中略)呼び出しておいたS君とも会い、
がけっぷちで記念写真をとって、駅へもどる。
時間の余裕がなく、札幌よりもうまいという"函館のラーメン"を食べることもできず、大急ぎで船の乗り場に行くと、
Eさんたちはもう先に来て待っている。
来るときと違って、船は古く汚いし、ひとりで乗るので、何となく心細い。乗船名簿の要領も判らないのだから、
われながら愛想が尽きる。
荷物を一旦、船室まで持っておりて、また外へ出る。一同で写真をとって、また船にもどる。
だが、まだ船は直ぐに出るというわけではない。しかし、それを待っている気持は、何ともいやなものである。
物悲しく、ひとりだけ遠くへ旅立つような感じで……。
とはいえ、出帆というのは、独特の風情がって、涙が出てきそうだ。ドラが打ち鳴らされて、静かに岸壁を離れると、
何だか、もうしばらくは会うことができないんだというような気持に襲われてくる。不思議なものだ。
恋人を見送るのか、泣いている女の人の姿もだんだんと小さくなる。
私も皆さんとお別れだ、いつの間にか過ぎてしまった十日間、それにしてもこの船足の何とのろのろしているのだろう。 未練がましく、去り難いかのように……。夕日の強い中を、見えなくなるまで手を振って別れを告げる。
「見送りの人々」
現在、青函トンネルが10年計画で掘られている。これが完成すれば、"内地"からもっと観光客が、
それも種々雑多なのが来るだろう。そのとき、受け入れ側の北海道がどう対処するか問題である。
その橋渡しをするのが、この技師の人たちである(Eさんが関係していた)。
<連絡船でも、いろいろと…>
いつまでもそこにいても仕方がないと思い、船室に戻る。どっかと坐り込んだが、どうも様子がおかしい。
まわりは女ばかりである。変だなとよく見ると、婦人専用となっている。これはしまったと思い、
小さくなってそこを抜け出し、甲板に出て思案をめぐらした。
どうしたものかと考えたが、まず、腹を据えてかヽれと、食堂に行く。ところが、まだ頭がカッカとしていたらしく、
オムライスのつもりがオムレツしか来ない。コーヒーを注文していたのがまだしもの救いであった。
何気なく坐ったのが婦人の前で、どんな人かうかがう余裕もなかったが、カラー写真のことで話しかけられ、
それで仕方なく知っていることを話しているうちに、平静を取り戻し、しばらくお相手をしていた。
(彼女はオールドミスの学校の先生、旅行が好きでこれから十和田湖へ行くのだという。
知床の近くの人で、今度北海道に来たらぜひ寄りなさいともいう)
私は、物は相談だと思って、実は席がなくて困っているのだと話すと、自分の席の隣が空いているから一緒に来なさいという。
これは上首尾だった。そんな簡単に見つかるとは思ってもいなかったが、案の定、一等の椅子席で、
追加料金をとられるだろうと思ったが、もう調べに来たから大丈夫という話。
その通りで、最後まで坐っていて、何の調べもなく、私は素知らぬ顔で、ここにしかないテレビを横目に見ていた。
この日は、水上で日本が最後の最後に銅メダルをとった。誰からともなく、よかったという声がもれる、
よかったですねと私は答える。後は、今年とれたばかりの干しイカを、甘くかんでいれば、この船の長旅も終わるのであった。
青森からは、寝台急行に乗ることになっていた。予約してあったので、帰りも楽である。 汽車に乗るのも長いので、寝る前に食事をしようと思って(全く、のべつ食べていることになる。少しみっともないね)、 食堂車を探すと、席とは反対にずっと前のほうである。それでも気を利かして発車と同時にそこへ向ったが、 注文してもなかなか持ってこない。
急ぐこともあるまいとゆっくり構えていたが、いい加減放ったらかされてイライラしている処ヘ、 隣に坐った品のいい老婦人に話しかけられた。列車のよくないこと、東海道線はまだきれいだということ、 それから90人ばかりで、十和田湖や恐山に行ってきたことなどを話していた。
その後で私に、どこに住んでいるかを尋ね、自分は藤沢の鵠沼にひとり寂しく暮らしているので、
いい下宿人がいないかと思っているといい、別れ際に暇があったら遊びにきなさいと、彼女の住所を書き、私の電話番号と、
お互いに交換して別れた。
そのとき、私はあまりに突然のことなので、どう判断していいか判らず、まるで夢でも見ているようだった。
カレーとコーヒーはなかなか来ず、食べ終わったのはだいぶ遅い時間で、先の老婦人の処へ寄ろうかと思ったが、
どこかはっきり判らず、通り過ごしてしまった。
<無事帰宅 10月19日>
寝台は下段だが、あまりよく眠れず。それでもゴトゴトしているうちに、少しは眠ったようだ。
駅は仙台が判る、4時過ぎだ。そうして、7時半ごろ起きる。床をなおして、顔を洗うまではだいぶ時間がかかるのだが、
もはや帰るばかりで、他人のように先を争ってめかす必要はない。
3時間ばかり、じっとしている。眠くて、もっと寝ていたいぐらいだ。ようやく、上野へ着き、すべての人と別れて下宿に帰る。
そして、また寝る。
午後眼が覚めて、しばらくぼやっとしていると、2年前に北海道へ行ったことがあるT君から電話がくる。無事であった。
<結語>
私の旅行記は、これで全部である。結論を先にいえば、私はあまりにも"北海道"という言葉そのものに、
憧れ、期待しすぎていた。(中略)
旅行記が、素直な感情を無視して、他人に迎合するようなきれいごとで終始するなら、それは私の果たすべき仕事ではない。
全く表層的な感察だろうし、不完全な考察であろうから、誤りを犯してまで断言しようとは思わないが、
とにかく私という一個の人間の、青年時代のある時期に旅行し、書かれたというところに、一つの意義を見出してもらいたい。
〔第1稿:1964年10月29日、11月7,14,15,27,29日〈雑司が谷〉〕
〔第2稿:1965年7月28日〜8月3日〈茨木〉全147枚×400字〕
後日談
子どものころから、記録として書くことは好きであったが、特段の努力をしたことはない。
一つ言えることは、本を読むことを含め、教師だった父の影響であろう。
青函連絡船内で知り合った女性のうち、知床の方とはその場限りであったが、鵠沼には2度ほど訪ねたものである。
大きな松の植わっている庭をもつ、かなり大きな屋敷であった。息子さんが、都内でチョコレート会社を経営しているという。
下宿するには通学に不便であったが、どんな話になったかは今では定かではない。
ともあれ、二十代後半の未完の創作「虚構としての青春」で、少し描写している。