父と戦前・戦後… その1 (2008・12・16 橋本健午)

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 父八五郎の友人(後輩)に、青木実(1909−)という方がおられる。どういう形で、知り合うようになったのか。 同氏の「渡満まで」という文章の末尾に、こうある(青木實著『外地・内地 拾遺』作文社発行、非売・限定200部1993・05所収)。
 「…満鉄の大連図書館で「書香」という月刊紙(ママ)を出しており、それに数回投稿して掲載されたころ、初めに書いた一家の行詰りと、 経理課勤めの自分の行詰りを打破するには満洲行しかないと思われてきた。当時日給一円七十銭で、大連に移ると在勤手当がその五割付き、 社宅がもらえるので、一家三人なんとか生活できるという計算だった。そのためには学業放擲も後悔はなかった。 事務的でない自分の好きな仕事をしたい、大連図書館長の柿沼先生に手紙を出すと、私のような見ず知らずの者を引受けてくれたのである。」(昭和四十八年)
 《注:「書香」の刊行は第1次(満鉄大連図書館月報「書香」…大正14(1925)年4月創刊〜翌年3月に12号で中断)と第2次(満鐵各図書館報「書香」昭和4(1929)年4月創刊〜昭和19(1944)年12月、第158号で終刊)がある。 父はこのいずれにも編集面で関与しており、第2次では創刊から94号(昭和12年4月号)まで、編集人(編集長)を務めている。 ちなみに、柿沼 介が満鉄大連図書館長となるのは大正15(1926)年で、第2次「書香」の発行人でもある(第142号まで)》

 ところで、青木氏の『外地・内地 拾遺』に「うなぎに纏わる話」が掲載されている。ここに、わが父が登場している。 長い文章なので、部分的に抽出し"解説"を試みた。
 ≪前略≫
 橋本八五郎さんは、私が満鉄東京支社から満鉄大連図書館に転勤のさい、側面から支援して下さった人で、当時大連の日本橋図書館長をしていた。 以前の大連駅へ行く日本橋を渡って正面の赤煉瓦のロシヤ建築だった図書館であった。奥さんの英子さんはアララギの歌人で、 初音町のお宅には池内赤太郎、武田尊市などアララギの歌人がよく集まっていた。文化的匂いのすることの好きな人で、 若い連中が何かと利用したもので、図書館もそんな催しや会合によく使われていた。
 高橋順四郎君が「燕人街」を発行したいと思ったその前に「赤イ街」を出して潰していた彼が発行人では関東州庁の許可は下りるわけがなく、 社会的信用のある橋本さんに発行人になってもらい、その「万葉集地理考」?というどこまで続くかわからない論文の一端を巻頭に連載し、 隠れ蓑としたのであった。
 《注:このころ父は上記の第1次「書香」の編集に携わっており(昭和に入っての第2次では長い)、 大正14(1925)年5月20日には北公園図書館長兼大連図書館兼務を命ぜられた。 日本橋図書館は、それまで北公園図書館と称されたのが翌15年4月に改称されている。父は同年10月にその兼務を解かれており、 青木氏の大連図書館への転勤はこの年の半ばごろであろうか。/「初音町のお宅」に父の一家は昭和6(1931)年8月に移り、 引揚げまで住む。/なお、上記「万葉集地理考」について、父から聞いたこともなく、私には何の手がかりもない。 もっとも、父が"万葉集"と関わりのあることは、たとえば土屋文明(歌人・アララギ発行所)が、 父の亡妻英子の遺稿集の序に「夫君八五郎氏は萬葉集の研究家で、その苦心になる國別萬葉集の事に就いて、 故池内赤太郎氏からいろいろ話を聞いたことも有つた」と記している(「橋本英子歌集」は父により昭和10年7月13日に発行)。 「万葉集地理考」は、この"國別萬葉集"をさすのであろうか》
 ≪中略≫
 橋本さんは日本橋図書館長から大連図書館司書主任に転任され私の上司となった。
 《注:転任は昭和8(1933)年4月1日である。この日、15年勤続の表彰を受けると同時に、 大連図書館司書係主任を命ぜられると「在満日本帝国大使館」作成の履歴書にある(「外務省外交史料館」蔵)》
 ≪中略≫
 橋本さんは私たち夫婦の仲人となってもらった人でもあった。私の社宅で形ばかりの式を挙げたとき、 かねてから血圧の高かった病いがちの英子夫人が最初の発作を起され、新妻になる人とともに、すぐ近くの昼間はスケートで賑う鏡ケ池に、 頭を冷やすための氷を砕きに行ったりした。
 《注:「英子夫人が最初の発作」は、この15年勤続表彰と大連図書館司書係主任を命ぜられる年の1月、軽度の脳溢血により、 それまで続けてきた作歌はこれで終ったと、父作成の年譜にある。昭和10年1月1日、再び脳溢血で死亡。45歳》
 ≪中略≫
 私の愛路課時代、旅順で研修会を開いたとき、「日本上代人の心」を講義してもらった。 鉄道教習所の講師から、安東省の視学官になった。その頃お会いしたとき、日本人小学校で一、二位を占めているのは、 みな朝鮮人の子供たちだと、慨嘆していたのを記憶している。
 《注:「愛路課」…昭和12(1937)年12月1日発足。満鉄における「鉄道総局関係 一、大連、奉天両鉄道事務所を廃止し奉天鉄道局を新設  一、警務局を廃止して総局長直属の土地、愛路、保健の三課を新設」とある。 …以上、HP「神戸大学 電子図書館システム…一次情報表示…」より「奉天に鉄道局新設 現場機関を整備 鉄道総局機構改革(十二月一日実施)…満州日日新聞 1937.11.20(昭和12)」)
 /父に関する「日本上代人の心」(1)「鉄道教習所の講師」(2)「安東省の視学官」(3)とあるが、いま確認できるのは(3)であろうか。 昭和12(1937)年「11月末、滿鐵學務課圖書館掛主任から安東日本學校組合主事に轉出」とあるからだ。 とすれば、上記青木氏の「私の愛路課時代」とは、少し時間のズレが考えられる。 /また、(1)に関していえば、父は万葉集の研究家という一面もあり、それに関連するようなことであったのだろうか。 上述のほか、たとえば第2次「書香」第16号(昭和5年7月号)に「万葉集関係の書目解説」という一文がある。 (2)は「在満日本帝国大使館」の履歴書に見当たらないし、他の記録でも見出せない。
 /ちなみに、安東省への異動は「付属地方行政権移管に伴ふ図書館関係の異動…S12・11・20付:地方部学務課図書館係主任 副参事⇒公主嶺図書館館長ヲ命ズ《書香102号・昭和13年1月号》。 次いで12月1日付を以て大連、奉天、哈爾濱を除く、沿線各館は満州国に移管され、大連は産業部、奉天は総局、埠頭、沙河口は大連の分館、日本橋、伏見台の二館は地方部残務整理委員会と何れもその所属を変更した」ことによるようだ。
 /その後、父が満鉄を離れたのは昭和15(1940)年12月、52歳のときで、わが母(後妻)トワの手記によると「主人はチチハルをやめて満鉄〜満州国ともに失業である。 一年は退職金の千円で暮らせるといふていた」とある》

 引揚げ後、郷里若狭の小浜で古文書の整理をされたりしていたが晩年は大阪の長男宅で閑居され、 福井の熊谷太三郎氏がやっているアララギ系の「柊」に橋本悟郎のペンネームで作歌していられた。
 〔注:「古文書の整理」は初耳である。小浜時代は昭和22年2月19日に引揚げてから、同26年5月19日に静岡県に移住するまでの4年3か月で、 この間24年には山奥の分教場に1年ほど?勤めていた。
 /父から、短歌雑誌「柊」の同人であると聞いていた私は、この文章に触発されて国会図書館を訪ねた。 「柊」(北陸アララギ会・柊発行所〈福井市〉月刊・毎号20数ページ)の戦後のバックナンバーとして第20巻(昭和23(1948)年6月号−12月号)から毎年の分がある。 私はそれらの中に父の作品があるのかどうか、昭和29年(第26巻)のものまであたってみた。 目次に投稿者の名前が載っており、本文もあわせて見たが、父のそれは一首も見出せなかった。
 /調べ方が悪かったのか、もっと時代があとなのか。上記、青木氏の文章からすると、投稿は大阪(茨木)時代であったのか。 この茨木時代、父が長兄宅に同居していたのは昭和35年6月から同51年4月に亡くなるまでの期間だが、 私自身も昭和30年3月から同37年3月まで同居している。つまり、父とは2年もダブってはいないが、雑誌「柊」の現物を見たことや、 作歌が掲載されたという話は聞いた覚えがない〕
 ≪中略≫
 引揚げ後、橋本さんは二度上京してきたことがあった。
 最初に上京してきたのは、三十年代初めで、柿沼さんはまだ国立国会図書館のご自身開設された図書館学資料室の整備に当っていられた。 橋本さんは六十代であったがまだ元気で柿沼さんとの間に懐旧談や、知人の消息話が尽きなかった。 話の間をおいてから、「イヤそれにはこういうことがあって」と一つひねった見解を披露するのも昔と変らない、 決して素直に話をすすめない一家言があった。大連時代そのため、何回も白けた気分にさせられたことなどもつい思い出させられたが、 今はもう一切が過去の砂上楼閣となった土地でのこととなっては、なにをいおうとそう刺々しい思いを残すことはなかった。
 「橋本君、なにがいい、君の好きなものを食べに行こう」
 橋本さんは、言下に「うなぎがいい」と答えた。
 〔注:「最初に上京は、三十年代初め」に該当するのは昭和31年か32年に、夫婦で靖国神社参拝とあり、68,9歳のときである。 /「話の間をおいてから、……一家言があった」こと、そして「何回も白けた気分に…」というのは、何となく分からないでもないが…〕
 ≪中略≫
 それから数年して二度目の上京のハガキがあったとき、すでに柿沼さんは図書館を引退されていられたのでその田園調布のお宅に案内して欲しいという要旨だったので、 電車の都合もいい渋谷のハチ公前に待ち合わすことにした。丁度昼食どきにも当っていたので渋谷からかつて立寄ったことのある鰻屋の所在も営業中のことも確かめてから、 橋本さんを待った。
 時間通りに姿をみせた橋本さんは、数年前の間隔に老人らしい衰えを現わにしていた。 私は、「まず、鰻でも腹ごしらえしていきましょうか?」
 と訊くと、
 「うなぎ?」と一寸逡巡されてから、
 「ウン、海老フライか何か軽いものがいいな」
 まず出鼻をくじかれてしまった。
 〔注:「二度目の上京」とは、昭和40年5月下旬であろうか。このときは、大学4年生であった私の就職活動支援であったようで、 父に連れられ何人もの方にお会いしている(後述) 〕
 ≪中略≫
 そんなことが頭にあったせいか、滅多にみない夢をみた。そしてふしぎなことには醒めてからもみた夢を判っきり覚えている。
 ≪中略≫
 そこの誰ともしれない主人に招じられて座敷に通ると、橋本さんの息子さんの孫にあたる男の子がいる。
 「私はあなたのお父さんには海軍兵学校へ行く前の中学校時代にしか会っていない、お父さんは松戸の高等園芸を出て、 岸和田か西の宮だかの公園課長の筈だ。あなたのおじいさんの墓参りがしたいのだが小浜のなんというお寺ですか」
 と訊いているところで判っきり目が醒めた。
 この中での錯誤は、高等園芸を出たのは、たしか長男で、海軍兵学校に行き真珠湾で戦死したのは二男の筈である。 橋本さんも辛い目に遭ってこられたのだな、と朝の食卓につきながらつくづく考えさせられてしまった。
 〔注:「お父さんは松戸の高等園芸」…千葉高等園芸学校(今の千葉大学園芸学部、松戸市)を出たのは長兄公一で、 子供はいない(そのため、私が"養子"として育ててもらった)。その兄が「岸和田か西の宮だかの公園課長」であったことは一度もない。 大阪府の職員として公園課長は勤めたはずだが。ちなみに、この兄は大阪万博(1970年)の日本庭園(大阪府特別公園建設事務所長)および沖縄海洋博(1975年)における日本庭園の責任者であった。
 /この記述には、もう一つ筆者青木氏の記憶違いがある。海軍の明郎(次兄)が戦地に向ったのは昭和18(1943)年9月、 宇佐航空隊を卒業と同時に南方への出陣を命ぜられたことによる。つまり、真珠湾攻撃(昭和16年12月8日)の時点では学生で、まだ国内にいた。 現実には昭和19(1944)年2月6日、内南洋クエゼリン島で玉砕し、遺骨は戻らなかった(海軍大尉)。
 /この次兄に関し、母は手記に「(昭和19年)8月15日(日)、公電が入る。次男戦死の通知である。 2月6日、主人の起きられない日でもあった。夢に出た。…19日に慰霊祭をすることになった」と綴っている。 /この慰霊祭に連れられていった2歳の私に記憶はないが、母から聞いて、次のように記録していた。 「大連で、海軍の合同市葬があったとき、私は母と2歳上の兄や荒巻のバアチャンと一緒に行った。 バアチャンは私に何かがあったときに、すぐ外に連れだせるようにという配慮の元にきていたのだ。案の定だった。 ヒチリキがなり出すと、ワッと泣き出してしまった。怖くなったのだ。それですぐさま外に連れ出された。 兄のほうはじっと聞いていたという」〕

 ≪後略≫    (昭和五十七年)

 〔後記:青木氏は引揚げ後、国会図書館に勤めておられた。私も訪ねていって(建物は、前のもの)、 一、二度お会いしたことがある。いま手元に、同氏の「国立国会図書館收書部/国内図書課課長補佐」と肩書の入った名刺があり、 裏には自宅住所と最寄りのバス停が万年筆で記されている。
 私はその名刺表の下方に鉛筆で「1964.6.9」と日付を入れていた。日本中が東京オリンピックを前に活況を呈していた時期、 私は大学3年であった。
 今でも印象に残っている、同氏の言葉「お父さんも(引揚げ後)、東京に出て来たらよかったのに。 焼け野原をみんなリヤカーを引っ張っていた時代だったんだから」を、帰省して父に話すと「(60歳前後で)家族のことを考えると、 その勇気がなかった」という答えに、何となくがっかりしたものだ。
 もう一つ、父は"食"にはややうるさかったが、うなぎとの関係はほとんど覚えていない。やはり、老齢であったからだろう〕


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