出版時評「圖書の出版及び供給―外地一讀者の希望―   橋本八五郎」

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 大連時代の父に、活字として残っているものはいくつもあるが、主として図書館関係というか、出版に関するものが多いのは仕事柄だったからであろう。
 ここに掲出する"時評"は、先の大戦(アジア・太平洋戦争)に突入する直前の、つまり戦時体制化の日本でも「さもありなん」と思わせる状況を垣間見ることができる……。
 ≪お断り:本文は旧字・旧仮名遣いであるが、私の機械・能力では、すべてを再現できなかったのは残念である。 代わりに、当時の言論統制や用紙事情など、理解を得るための資料を"注"として付記した。2008・11・20 橋本健午≫

圖書の出版及び供給―外地一讀者の希望―   橋本八五郎

         滿鐵奉天圖書館編『收書月報』第63號(昭和16年4月)所収

 製紙原料も、他のあらゆる資材同様に、その不足を唱へられ、その爲ばかりではないが、雜誌が廃合されるとも聞いたし、 ―事実はまだ行はれてゐないやうである、そればかりか、東京では、いくらも創刊されたものもあるらしいが ――新聞紙は、内外地ともに、その紙面を減らしてゐるのに、圖書は、全く豫想に反して、新らしいものが、次々に出版されてゐる。 しかもその新出版が、從來の出版書肆において盛んなる以外に、新出版屋が陸續として登場してゐる。 事變以來、新らたに名乗りを上げた書肆も、二三のみではない。これら新舊出版書肆から市場に送られるものは委しく斷言することは出來ぬが、 その數量において、決して、事變以前に劣らぬであらう。ひと頃は、出版屋も大いに儲かるといふので、戰争と讀書、 即ち圖書の賣行きといふことが、關係者間に論議された位だから、事變前に劣らぬどころか、或はその上を越してゐるのでもあらう。 そして、事變中にも拘らず、數字の上では、依然として日本は、世界主要の出版國でもあらう。 日本の文化に根柢があり、原料も、一時唱へられたほど不足なのでなく、結局、國家に實力があるのであつて、かやうなことは、 豫想に反するほど、實に結構なのである。
 小生などは一應さう考へてゐる。
 濫發せられる出版物の、内容についての非難はある、杜撰粗漏だとか、際物が多いとか。 けれども、之は何も昨今の特殊現象ともいへまい。際物は、いつも大小事件にはつきものであり、それであててゐる著者や譯者は、 何も今次の事變で初めて出現したのではなからう。内容についての検討は、平時閑散な時の方がよく行はれる。 昨今は、かへつてその非難が少ない位のものだ。たからといつて、今の圖書はみな精選された内容を持つといふのではない。 さういふことを、特に時局にくつつけていふのが、無理だらう、と思へるのである。
 出版を、時局に關係づけて考へて、最も小生の氣付くのは、紙質の低下である。之は原料不足といふよりも、もちろん、 それもあらうが、むしろ價格の高きによるのであらう。上質の用紙があつても、それを使用すれば、圖書の單價に、大いに響く。 本の定價を上げない爲に、紙質を下げたのではないかと思ふが、何れにしても之は明らかな、時局の波を受けてゐる。 之は讀者側からすればもつと紙質を上げてほしい。それによつて、非常に定價が高くなるのは堪へられぬが、紙質をよくして、 その代り、出版數量は、幾分制限されることは忍ばう。どうも、儲けの方からいへば、どれかであたるまで、いろいろ、 數多く出さんことには、商賣にならぬ、とも思はれるが、數量制限の代りに、内容を精選するといふことになれば、 重版の機會が多くなるので、必ずしも、出版の仕事が閑散になりもしなからうし、儲けにならぬといふ次第でもあるまい。 そしてその書肆に信用がつくとすれば、手當り次第に出しつづけてゐるよりも、數等商業主義から見ても、よかりさうに思へる。 用紙の向上といふ形式から、進んで、内容もよくなるとしたら、一挙両得、讀者は喜び、書肆としても、今いふ如く、 不利益にはなるまいと思ふ。
 之について今一ついひたいのは、書物の品切の多いことである。これも、時局の影響の一つとしてよい。 何故、かうも品切が多いか。
 新刊の廣告にある書物が廣告と呼吸を合して本屋の店頭に列べられるやうな便利は、外地では、到底望み得ないか。 之は考へればその方法がないとは思はぬが、時局以來、特に、例の定價販賣勵行以來――しかして、この定價販賣は、 爲政者達によつて、讀書層の開拓、向上の方策として案出せられ、大衆も、それを歓迎したらしいが――偶然にしか望めぬことになつた。 そこで、本屋を通じてなり、或は直接に出版書肆に註文してみると、随分、品切の回答に接するのである。
 これが、外地だけのことかと思つてゐると、東京の市中においてでもさうらしく、新刊を近所の店で求めようとしても、 簡單に手に入らぬやうになつたとかこつてゐるのを、學者や文士の文章で讀んだのは、一度や二度ではない。 品切は、すでに、東京でも多い現象であるといふのは、一寸解せないことではないか。 出版屋が、最初から少部數しか印刷しないとしか取れぬが、そして少部數印刷の理由を、用紙の不足に歸するのでもあらうが、 それなら、次の出版も差控へさうなものを、次から攻へ新らしいのを出しながら、品切になりさうな、比較的によいものを、 少部數印刷に止めるのは、遺憾なことである。少部數多種出版と、少種類多部數出版と、計算上、どちらが有利なのか。 將又、文化の爲に、どちらが必要なのか。
 現在は、只、計算上の有利だといふことを以て、事業を營むことは許されないとなつてゐる。 その點を、書肆自身もであるが、用紙配給所とか、文化の向上を任とする當路者とかにおいて、工夫あるべきである。 出版文化協會とかいふのが、東京に設立されたとは聞いた。直接には、この會あたりの、最も重要な仕事である。 大政翼賛會文化部あたりも、知らん顔は出來まい。
 外地居住者としては、新刊を迅速に、或る程度潤澤に、見もし、買ひもしたいのである。 滿洲國には、この方面を專業とする特殊會社も設立されてあつて、さやうな施設のない關東州としては、業者も羨み、 讀者層も羨んでゐるのである。
 現在の如く、新刊の到着が遅く、かつ少なく、そして或る程度待つてから、品切を知るといふ状態を續けてゐるのは、 滿洲文化の爲に憂へられる。滿洲文化の創造をいひ、獨立を論ずる意氣込み、熱情には、もちろん反対することはないが、 それには長い歳月の力をも借らねばならぬ。眼前の問題としては、内地文化の吸収同化が、肝要であらう。
 滿洲圖書配給會社設立後の、滿洲國各地の状況は、小生において不案内だが、その目的とするところを聞いて、 我々は、前記のごとく羨ましい。圖書の供給が、手早く、便利に行はれてゐると想像する。 關東州あたりでは、荷物の運送が、意の如く捗らぬと、業者はこぼすのである。内地發送の際、内容檢査に手間取るとか、 鐵道で受付けて呉れぬとか。愈々受付けられても貨物輻輳の爲に、延着を免れないとかいふのである、委しい事情は分らないが、 さういふ事實は、たしかに存することであらう。
 しかし、品切は、東京でもといふなら仕方なしとして、荷物運送の方は、方法があるのではないか。 新聞紙も、相當の荷物だらうが、日々届いてゐるし、各種の雜誌は、その貨物としての分量は、新聞の何倍だらうが、 月々期日通りに着いてゐるのを見ると、書物にしても、取扱方によつては、同様な結果を擧げ得るのではないか。 それがさう出來ぬとすれば、書籍業者の不勉強か、官公私の、取扱當路者の無理解かによると思はれる。
 滿洲にては、既にこの問題が解決されてゐるとしても、關東州では、まだ取上げるまでにも至つてゐないのである。  (三・一八)

《注1:「雑誌の廃合」(統廃合)…日本出版文化協会(文協)の調べによると、1941(昭和16)年6月ごろまでに経済雑誌121→約33、 映画雑誌約25→9、写真雑誌11→4、医学雑誌は通俗医学32→11、保健33→12、薬学30→6である。 また同協会の事業開始以降の主な整理統合は、婦人雑誌54→16、教育雑誌154→29、音楽雑誌(洋楽)17→8、現代美術雑誌39→8、 工芸雑誌9→3、文芸同人雑誌97→8、古美術雑誌4→2、受験雑誌29→14、児童雑誌35→25 などとなっている(東京堂年鑑編集部編「雑誌年鑑」昭和17年度版)〕

《注2:「事變以來」…当時の中国に対する"事変"は満洲事変(昭和6・9・18)、上海事変(第1次:昭和7・1・28、第2次:昭和12・8・9)、 日華事変(昭和12・7・7)などとある。ここでは日華事変(支那事変とも。現在は「日中戦争」という)をさすのであろうか》

《注3:「出版文化協會」…いま手許に同協会に関する資料はないが、『出版年鑑』(昭和18年版)に「第二部日本出版會概要(附、日本出版配給株式會社概要) 日本出版會の設立」という大項目があり、 その前にできた「社団法人日本出版文化協会」の誕生と、その脆弱性、そして、国が関与した「日本出版會」設立に取って代わられた経緯が触れられている。 参考までに掲げよう(協同出版社編纂部・昭和18年12月6日発行/3000部)。〔表記は、仮名のみ原文どおりとした〕

 昭和十五年十二月十九日を以て生誕した社団法人日本出版文化協会は、わが国における最初の文化統制団体として多くの新しい建設を我国出版界に築き上げつゝ、 爾来二年余の歳月を歩んで来た。
 何分にも出版界は一国の思想並に文化の方向と水準を決定する職域でありそれだけに組織もまた複雑多岐で、 これを単一な方法で統制することは非常な難事業と云はなければならぬ。日本出版文化協会は、このやうな困難と闘ひつゝ歩一歩、 その当初の目的とするところに邁進しつゝあつた。
 然るに発足満一年を以て大東亜戦争の勃発となり国内の一切の組織は急速度を以て必勝態勢を整へねばならなくなつた。 出版界もまた同樣である。自由主義的な思想を払拭し、営利主義的な経営を蝉脱し、健全なる新日本文化の建設並に高度国防国家の確立に挺身するといふ当時の指導目標は最早すでに手緩く、 もつと端的に、出版界は思想戦の兵器廠たらざるべからずとの要求が強く奔流して来た。
 かゝる情勢下に、日本出版文化協会は用紙量激減その他多くの悪条件と戦ひつゝ新しい事態に即応すべく必死の努力を試みたのであるが、 出版界内部の情勢必ずしもこれと一致するところなかりしは世間承知の事実である。
 このやうな事態は出版統制機構そのものへの自省的な眼を向けしめることになつた。 考へて見れば日本出版文化協会は、この困難な任務の担当者であり乍ら、何等法的根拠を有するものではなかつた。 協会の機構そのものにも、例へば民法上の社団法人組織に基く多数決制といふやうな脆弱面があつた。 これらは今日の事態に即応して総て改善強化されなければならぬことであつた。
 かくの如き諸般の情勢を睨み合せて此際厳乎たる指導理念の確立と抜本的な統制組織の設定が漸く真剣に政府当局並に文協首脳都の間に考慮せらるるに至つた。 かくて慎重に準備が進めらるゝこと半歳、予測より約二ヶ月遅れて昭和十八年二月十八日、勅令を以て出版事業令並に同施行規則が公布されるに至つたのである。 而して出版事業令の内容は出版事業の国家的使命達成上(一) 出版事業の綜合的統制運営に関する法的根拠を与へ(二)そのための国策立案並に遂行に協力せしむべき団体を設立せしむることが骨予となつてゐるものである。
 続いて翌十九日、内閣並に内務省告示を以て出版事業令第六条による団体の設立命令が下り、同時に左記四十二名の設立委員が任命された。《名簿省略》
 かくて二月二十三日、第一回設立委員会が首相官邸に開催され、定款並に予算案作成の為に小委員が指名されて三月三日全部議了、 三月十一日に早稻田大隈講堂に日本出版会創立総会並に日本出版文化協会解散のための臨時総会が開催された。《中略》
 新機構は文協の文化、業務二局制を廃し、総務、書籍、雑誌、業務、配給の五部制を採り、別に事務局長室を設け、 秘書、人事、経理に亘る事項を事務局長に直属せしめた。
 この新機構に於て特に注目すべきは文協時代に於ては文化局の一課として他の書籍部門各課と並列的な地位しか与へられてゐなかつた雑誌課に部の構成が与へられたといふことである。

 つづいて、当時の国民と出版の状況(書籍偏重、雑誌軽視)、そして用紙問題にも言及している。

 雑誌は発行誌の種別に於ても総発行部数に於てもまた用紙の総使用量に於ても遥かに書籍を凌駕する厖大な数量的存在であり、 且つその思想的影響力に於ても国民大衆を対象とするだけに決して軽視すべからざる存在である。
 かゝる実態に即して雑誌に対して重要な地位を与へたといふことは固より当然な事務的処理であるが、 しかしこれは単なる事務的処理に留まらずして新生日本出版会の政策に一.つの新しい方向を与へたものと言ひ得る。
 それは今こゝで触れた如く出版活動乃至出版物の影響力を国民動員的立揚から見直すといふ点である。 冷静に反省すれば、従来出版活動に関する指導の重点は書籍部門に在つた、換言すれば知識層、教養層に在つたといひ得るのである。 然るに醜敵米英の侮るべからざる戦力を向ふに廻し、これを飽くまでも破砕し撃滅し最後の勝利を獲得せんがためには徹底的なる国民総力の動員結集が要求される。
 このためには国民の八割を占むる勤労大衆、すなはち非教養層への直接的なはたらきかけが極めて肝要となつて来たのである。 このことは書籍よりも国民に親しまれ易い雑誌において十分なる自覚が要請されると共にやがては「勤労国民大衆に対する健全慰楽読物の供与」といふ日本出版会の新しい政策にまで発展した。 日本出版会はこゝに到るまでにおいて「読書人に非る人の読書」「読書の観念を以てせざる読書」といふ新しいしかも広大なる読書領域を発見したのである。 こゝに日本出版会の活動分野はますます拡大した。
 この政策に関連して一言触れておかねばならぬことは、日本出版会が操作用紙を保持するに至つたことである。 物動計画実施途上の極めて幸運なる偶然によつて、四―六期の半ばにおいて我々は予期せざる「紙の特配」を政府によつて与へられた。 この予期せざる紙の用途については、その一定量は出版物の重点的生産に使用し、残りの総量は出版会の政策遂行上の操作用紙として保持するやう政府によって命令されたのである。 この特配用紙の重点的使用は即刻学習用辞典飢饉の緩和に振向けられた。そしてそれは単にその意味において効用を発揮したばかりでなく、 出版物の計画生産へ尊い軌跡を作つた。前述の健全慰楽読み物の供与の如きも正にこれに続く計画生産である。 この計画生産は当然の帰結として計画配給にまで貫流した。
 かくして日本出版会は次々と新しい政策を確立し而もその遂行の力を強化したのであるが、 当然の帰結として政策の対象となる側、すなはち出版業界に於てもこれに呼応する態勢の整備が要請された。 企業整備への進展と大日本出版報国団の設立とがこれである。この二つの運動が完成してこそ、 我国出版界は統制するものと統制されるものとの対立的関係を解消して、完全なる一つの有機的組織体となるであらう。
 更に、悪書凡書の氾濫にも拘らず必要なる良書の入手が困難だとの世評に応へて、 査定方針を一層厳格にし通常割当用紙による出版企画と雖も時局不要不急と認めらゝるものは抑制して貴重なる用紙を必要なる良書の大部数出版に回すやうに指向した。 また停止価格制度の為に優良なる図書の重版は困難なる実情に鑑み、文協以来の懸案だつた書籍の公定価格制度を漸く実現にまで運んだ。

《注4:この原稿は、末尾に(三・一八)とあるように、1941(昭和16)年、つまり本国では"真珠湾攻撃"に見られるように、 臨戦態勢の真只中で、執筆されたものと言える。
 では、その前(1940)年からの、出版を中心にメディアへの言論統制の動きをみると、
 1940年4月9日 4新聞社(朝日・大毎東日・読売・同盟)のニュース映画、合併して日本ニュース社を設立(ニュース映画の統制) /5月17日 内閣情報部、新聞雑誌用紙統制委員会を設置(戦時下の言論・出版統制に重大な役割を) /6月 内務省、営利雑誌の創刊抑制方針。
/7月27日 ロイター通信記者など外国人スパイ網を全国一斉検挙《スパイ事件、雑誌界に衝撃》 …憲兵当局によるイギリススパイ網の一斉検挙によってその戦慄すべき活動が明るみに出され、 雑誌界も大きな衝撃を受け「防諜」の重大さが強調されるに至り、軍当局では新聞、雑誌に特に防諜に関して要望した。 雑誌が如何に諜報の資料に供せられているかを物語るものとして、某国大使館では一ヶ月に五百数十種の雑誌を講読していたことが当局の調査によって判明した 〔雑誌年鑑 昭和16年版〕。
 同年7月 内務省、左翼雑誌の一掃、30社130誌発禁処分、生活綴り方運動も弾圧/8月5日 内務省、出版団体の代表を招き、 出版業界の組織を改めようとする政府の方針を申し渡し、内閣情報部も出版界新体制を提示、その実現を迫る。
 11月7日 政府、用紙をA列、B列の2系統とする用紙規格規則を設ける/12月6日 内閣情報部を情報局と改称、 情報・宣伝・文化統制の一元化強まる/12月17日 商工省、古本の公定価格を実施 /12月19日 内閣情報局の指導により、一元化統制団体・日本出版文化協会の設立。
 ついで、1941(昭和16)年には1月1日 ニュース・文化映画を全国で強制上映 /1月11日 新聞雑誌類の国家的機密事項の掲載制限を強化(新聞紙等掲載制限令) /2月26日 情報局、各総合雑誌に執筆禁止者の名簿を送付(矢内原忠雄・馬場恒吾・清沢冽・田中耕太郎・横田喜三郎ら) ・・・・・というように、この『収書月報』4月号が発売されるまでに、さまざまな締め付けが行われていた。
 もう少し、その後をみると…/5月5日 出版物の一元配給機関として、日本出版配給株式会社(日配)の設立 /5月16日 文藝家協会、文芸銃後運動を開始/7月 内務省、左翼雑誌の一掃、30社130誌発禁処分、生活綴り方運動も弾圧 /8月5日 内務省、出版団体の代表を招き、出版業界の組織を改めようとする政府の方針を申し渡し、 内閣情報部も出版界新体制を提示、その実現を迫る という流れであった。 …以上、拙著『発禁・ワイセツ・知る権利と規制の変遷―出版年表―』(出版メディアパル2005・04)より》

〔後記:満鉄奉天図書館編『收書月報』は昭和11(1936)年に創刊されたもので、発行人に衛藤利夫、編集人として植野武雄の名がある。 いま、国会図書館に収書されている合本は第1号−11号(昭和11年2月−12月)で、ヨコ書き2列に書名・著者・発行所などが並ぶ、 まさに"收書の目録といえる(定価30銭)。
 これが第24号−35号(昭和13年1月−12月)では、タテ書きとなり、何本かの署名原稿が掲載されている(收書目録は従来どおりヨコ2列)。 第60号−71号(昭和16年1月−12月)まで、大雑把に見てみると、收書目録を含み毎号30数ページ前後であろうか。
 ちなみに、その前、満鉄大連図書館では『書香』と題する月報を第1次(大正14年4月創刊、翌15年3月12号で中断、16ページ建て)、 しばらくおいて第2次を昭和4年4月から満鉄各図書館報として昭和19年末まで158冊を発行。 いずれも父が編集人として関与しているが、第2次から本文を8,12,16ページ建てなどとし、それに毎号4〜16ページをあてて、 新刊図書目録としていた。
 さて、『收書月報』には執筆者として、発行人衛藤利夫の名が何回か出ているが、父八五郎の「圖書の出版及び供給―外地一讀者の希望―」が掲載されたのは、 第63号(昭和16年4月10日発行)である。
 当時の父は53歳で、しばらくあと他に書いたものの肩書には「関東洲文話會長」とあり、 その前年のものでは「前満鉄學務課圖書館係主任」とある。
 なお、『收書月報』第67号(昭和16年8月10日発行)には、大連図書館で父の後輩であった青木實氏の「満洲を描いた小説」(筆者・「作文」同人)が掲載されている。
 また、同氏は戦後、いくつか文集を刊行されているが、その一つ『外地・内地 拾遺』に、わが父に関する「うなぎに纏わる話」がある。 いずれ解説をつけ、掲出の予定。〕


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