「父と大連・満鐵…」トップページへ
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最初に手にした大正10(1921)年2月号(第8巻第2号)の奥付を見ると、いきなり「編輯人 橋本八五郎」とあり、
私はしばしジっと見つめておりました。ついで、同13年10月号には、すでに何も見当たらず、三冊目の同14年2月号の目次を見ると、寄稿文があった。
題して「心中の蟲」(約4ページ、文末に"大正14年1月10日"とある)。
最後の同15年12月号にも何一つ見当たらなかったが、それぞれから、参考になるもの、興味を引く文章をコピーしてもらうなど、収穫は大いにあった。
父がこの雑誌に関わったのは、当時の知人A氏あての書簡等によると、創刊(大正3年)から5年目、大正7(1918)年ごろ30歳のときであろうか。
なお、父はこの年3月末に30歳で結婚したばかりである。
翌年4月の書簡の封書ウラには「大連滿鐵讀書會/橋本八五郎」と記し、便箋は小型の"滿鐵讀書會用箋"を使用している。
ちなみに、父の編集者としてのスタートは、これに先立つ2年前、大正5(1916)年4月で、「東京中央報徳会に職を得て『斯民』の編輯に携わる」と「在満日本帝国大使館」作成の履歴書にある
(「外務省外交史料館」蔵)。
さらに、その後に触れると、大正14(1925)年4月10日に創刊された満鉄大連図書館の月報「書香」(翌15年3月に12号で中断。第一次)に関わるが、
奥付が見当たらず、編集人等は確認できない。しかし、少し間をおいて満鐵各図書館報「書香」創刊号 (昭和4年4月)より、
第94号(昭和12年4月)までの編集人であった(第二次)。
この「讀書會雜誌」は国内の他の大学図書館にも所蔵されており、いずれ訪ねて確認するつもりだが、
現状では父が編集に携わった当初2年間の同誌は国内にないらしい。
なお、創刊の月号を年度始めの「4月」にしたのは、この月から多くの行事などがスタートすることは、
他の雑誌の例でも見られるからである。終刊がいつなのか、今のところ分からない。
図表参照…「讀」は国内での所在不明分。巻号は逆算による推測。なお"特3号"等はその月に特別号のあったことを示す。
巻 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | ||
T03 | 1914 | 1 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | |||
T04 | 1915 | 2 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 |
T05 | 1916 | 3 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 |
T06 | 1917 | 4 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 |
T07 | 1918 | 5 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 |
T08 | 1919 | 6 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 |
T09 | 1920 | 7 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 |
T10 | 1921 | 8 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀+特1 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀+特2? |
T11 | 1922 | 9 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀+特3 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 |
T12 | 1923 | 10 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀+特4 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 |
T13 | 1924 | 11 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀+特5 | 讀 |
T14 | 1925 | 12 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 |
T15 | 1926 | 13 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 | 讀 |
S02 | 1927 | 14 | 讀 |
さて、先に掲出した神奈川近代文学館所蔵の4冊を見ての雑感だが、A5判、"背"のあるきちんとした雑誌で、ロゴ(タイトル)や月号は右から左に印刷され、
表紙はカラーで絵があり、ウラ(表4)も何がしか印刷されているが、広告は最後の号だけである。
しかし、本文では目次の前後に数ページあり、後半にも数ページの広告がある。口絵はカラーではないが、いずれの号にもある。
第3種郵便物の認可もとっている。
ふつう、今の雑誌のロゴはよほどでない限り変更しないものだが、これらを見るかぎり、毎号?何がしかの工夫をしていることがわかる。
この雑誌だけの特色なのか、他のものを見ないと何ともいえないが、ともあれ一種のぜいたく、あるいは"遊びごころ"が感じられる・・・。
ページ数は順に96ページ+広告、88+広告、120+広告、188+広告(欠落あり正確には不明)であり、 価格は"一冊二十銭/郵税金一銭"となっている。
どの大学もいま入学試験の最中で、部外者は立ち入り禁止になっていると思い、4月ごろまでは駄目かとあきらめていたが、 中央図書館はバス通りを隔てた場所にあって入館可能であった。かつて安部球場のあったところの、 赤い尖塔を持つ大きな白亜の建物である。利用者は学生が主体であろうが、私のようなOBや年配者も目につく。
その昔、在学中に利用した図書館は、正門を入り大隈重信像の少し手前左にある2号館だったが、文学部から遠かったからか勉強に不熱心だったせいか、 あまり数多く利用した覚えはない。覚えていることといえば、最初の小学校時代の同級生(現役、法学部)と、二年浪人の同級生を紹介したことぐらいだ。
そんな学生であったから、ここに来るのも初めてである。校友の証明であるクレジットカードで、入館はオーケーという。
すぐさま三階の「雑誌・バックナンバー書庫」に入ると、多くの書棚に天井まで、合本にされた雑誌類がびっしりと詰っている。
国会図書館などとちがって、自由に取り出せ、コピーも簡単にできそうだ。
なれない場所で少し探し回ったが、お目当ての「讀書會雜誌」を取り出し、窓際に一列に並んだ書見台に座り込む。
すでに、若い人たちが、なにやら熱心に読んだり、静かにページをめくっている。
実は、この母校訪問は後回しと考えていた。というのは、これまで作っていた「讀書會雜誌」の"在庫表"で、 北海道や関西に行かなければと考え、では気候のよい季節に旅行がてら訪ねてみようなどと、不純な動機による調査が不十分であったことによる。
4時間ばかりをかけ、合計30数冊の雑誌を繰っていくと、父とこの雑誌との関わり、また雑誌発刊の目的、
その時代背景や影響など、かなりのことがはっきりしてきた。
たとえば、父とこの雑誌の関わりは、書簡等から大正7(1918)年ということは推測できたが、
今回それが同年6月(奥付は7月号?)からということが分かった。そして、「編集人」としての終わりは、
約6年後の大正13(1924)年4月(奥付5月号)と思われる。ちなみに、各号の「編集後記」をみると、編集のことや経費について、
読者との問題、さらには母親がキトクという手紙や電報で、日本に一時帰国せざるを得なかったことなども、明らかになった。
さらに、表紙絵(写真もあり、絵画や外国の女性、子供)や、カット、ロゴの状況など、先に立てた仮説が証明されたり、
崩れたりと、いろんなことを想像しながら私はひとり楽しんでいる。
もう少し詳しく見る必要があるが、その後、表紙の絵やカットは社員による作品であることが編集後記に名を出しているところから分った。
類推すれば、タイトル(ロゴ)のデザインについても、同じことが考えられるが、予断を許さない……。
それでは、「讀書會雜誌」が年によって"13号"すなわち特別号が出ていることについて(目下、判明しているもの)記しておこう。
第一輯 現物不明 《大正10年7月発行と判明(2008・03・21)。上記大学図書館で、現物は見当たらないものの、
大正10年10月号奥付「小天地」に次のような記述があった。
「特別号第二回発行について…◎本年中に又特別号を出すのです。御承知の如く第一回は七月に出しましたが、
専門的記事が多く、興味が少かった様に思ひました。
それで特別の研究資料のほかに、小説、戯曲、詩等普通号には長すぎるものを募集するのも一策だと思ひます。
/それで之又、特別号に対する皆さまの批評、感想、意見等を承りたいのです。」
/なお、この号の締切当時、父八五郎は病気で休んでいたため、編集後記は(にへい はるを)氏が執筆している由。
ちなみに、第1回特別号の内容は、同年7月号の「小天地」で予告されている。
「五月号で披露しました特別号の原稿は、大体予定通り集りました。投稿家諸賢に感謝します。
其の顔ぶれは井上博士、広松博士、梅野所長、加藤、荒井両課長、大賀学士、西岡教諭、坂内氏、橋本氏、
在米中の新帯氏などであります。
本月中頃迄に、お目に掛けたい積りで居ります。」
/余談だが、「橋本氏」は詳細不明だが「橋本茂四郎」氏か。のち12月号の目次に見える》
第二輯 現物不明 《上記、大正10年10月号奥付「小天地」を参照のこと》
第三輯 第9巻(大正11年7月5日発行/200ページ)
…「会社創立15周年に相当するので、その記念の為に露西亜時代の経営と創立当時の状況と、
その後の社運の発展とを明かにし、4月1日発行の予定だったが、材料の募集などに時間を取られ、
遅れ遅れとなった」由、編集後記に記されている(大正11年6月20日発行)。
第四輯 第10巻(大正12年6月20日発行160ページ/本誌88ページ)
第五輯 第11巻(大正13年11月15日発行224ページ/本誌88ページ)
なお、早稲田でのもう一つの収穫は、父が第13巻第2号(大正15年2月号)の随筆「炉辺の趣味と娯楽」の一つに「作文の境地」(約3.5ページ)と題して寄稿していることだった。