中央報徳会「斯民〈シミン〉」と父   2008・03・11 橋本健午

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1、中央報徳会機関誌「斯民」の編集に携わる

   

 「在満日本帝国大使館」作成の履歴書(「外務省外交史料館」蔵)により、これまでほとんど解明が不可能だった、若きころの父の消息が少しずつ分かってきた。
 いつ、なぜ大連に渡ったかということがいちばんの疑問であったが、上記資料によると「明治45(1912)年4月10日 南満州鉄道株式会社へ出向を命ぜられる」とあるほか、 翌日から瓦房店《遼寧省》小学校の訓導(教師)を半年務めたあと、本溪湖《奉天省》小学校に移っていると解される記述がある。

 ついで、1913、14年の10月に俸給が少しずつ上がったことが記され、15年4月には「休職」とあるだけで、他の動きはないが、 本溪湖小学校での勤務は2年半ほど続いたと思われる。
 休職の理由は何か。その後のA氏あて書簡などから推理すると、体が丈夫でなかったことがうかがえる。 そして一年後、大正5(1916)年4月13日、28歳のとき「東京中央報徳会に職を得て『斯民』の編輯に携わる」と履歴にある。 この空白の1年は、日本に帰り、休養していたのであろう。

 さて、職を得たという『斯民』での父はどうだったか。それを確かめるべく、国会図書館で復刻版「斯民」(不二出版2000-2002)に当たって見た。 一般に雑誌などでは、加わったばかりに限らず"編集者"の名前を出すことはほとんどありえず、あまり期待をしていなかったところ、 第11編第10号(大正6年・新年号)の第16ページ全体を使った"ご挨拶"(二段組)が目に留まった(後掲)。

 大きな活字の「恭賀新年」で始まり、大正6年1月 中央報徳会/理事長 早川千吉郎、ついで理事11名、監事2名、幹事5名が列記されたあと、 まさに一線を画してスタッフ(編集者)らしい8人の名があり、その二番目に「橋本八五郎」とあるではないか。

   

 翌大正7年新年号にも同様に"ご挨拶"が掲載されているが、スタッフは誌面の都合からか「○○ほか何名」だけで、 父が在籍していたかどうかも分からない。というのも、父はこの年3月末、満鉄の人事課勤務を命ぜられ(上記「在満日本帝国大使館」履歴書)、 大連に渡って福井師範の同窓である反保英子と結婚もし、新たに満鉄読書会「讀書會雑誌」の編集に携わっていたからだ。

 もうひとつ、大正8年4月、A氏あて書簡に「…東京で中央報徳會に居た時、弟の様にしてゐた一青年が今度、 多分図書館に採用にならうと思つてゐます」という下りがあった。「読書会雑誌」編集人の時代である。

 つまり、父は「斯民」の編集に携わったことは事実だが、その期間は2年ほどだったろうか、詳しいことはわからない。 後に触れる、満鉄図書館関係の機関誌(会報)や雑誌の場合は、自らも執筆しているが、錚々たる執筆人を揃えた「斯民」では単なる編集者、 それも駆け出しであったといえようが、その経験は貴重なものであったにちがいない。

 この「斯民」は二宮尊徳(1787−1856)を崇敬する団体「中央報徳会」(東京)が発行した機関誌で、地方改良運動・農村更生運動等に多大な影響を与えたという (なお、斯民とは「この民・この人民」を意味し、親しみをこめたいい方、と学研漢和辞典にある)。 日露戦争後の明治39(1906)年4月に創刊され、第40編第5号(通巻472号=昭和21年11/12月)まで刊行されていたようである。
 ちなみに、明治39年は満鉄(南満洲鉄道株式会社)が設立された年でもある。

2、「斯民」創刊の趣旨など

 その発刊の趣旨などを創刊号から抽出しておこう。
 「斯民」第一編第一号〈明治39年4月23日発行〉の冒頭に掲げられた「開刊の辞」は、約1500字(35字×15行×3ページ)の長文で、 次のようにある。なお、ルビ4種(◎、○、●、△)が全体の4分の3近くを占めるため、ここでは省略する。 また〈  〉内は、とりあえず私がつけた"注記"等である。

 国家の懿大〈=イダイ/立派で大きい?〉なる所以は、国民の風気〈気性?〉品性の煥然として、一世に卓越するもの存するあるに由るなり。 一国の文化に最も尚ぶべきものは、其国民道義の念に厚く、又勤労の風に富み、崇高秀美の生を全ふするに在るのみ。 国家の富力勢望亦実に源を茲に発せざるはなし
 凡そ国家興隆の因を為すべきもの、之を大別して二と為す。一は国民の道義的活力にして、他は国民の経済的活力是なり。
 何をか国民の道義的活力と謂ふ。夫れ富貴貧賎各其職を励み、其分を尽し、又能く己に克ち、衆を愛するは、則ち独り己の利益を進むる所以たるのみならず、 併せて世の慶福を扶くる所以にして、此精神最も克く随処に充溢し、而して長へに之を実践して、敢て渝らす〈変わらず?〉。 此の如くにして始て国民は最も淳渾雄大なる道義的活力を発揮せるものと謂ふべく国家は即ち和気藹々たる春風裡に永遠不抜の進歩を観るに至らむ。 念ふに社会風化の問題は常に是等の道義的精神を煥発するを以て本と為す。
 近世経済学説の趨向、教育制度、社会問題等の解決も、亦皆思を茲に致さゞるなし。而して国民の道義的活力己に観るべきものあるも、 国家の富強は、必ず亦国民の経済的活力に俟たさるを得さるものあり。
 夫れ勤勉倦まざるときは、自ら艱苦に克つの勇気を生じ、亦能く自営の気象を生ず。又勤労の精神は之に伴ふて、已を利し、 又世を益するの念を生じ、事あるに当りては、公共の福利を全ふせんが為に、敢て自己の利害を捨つるに吝ならざる精神を湧発するに至らん。 之を約するに、社会の安栄に於て欠くべからざるは、国民の裡に於ける、此道義的及経済的活力の二要素が、共に著るしく旺盛にして、 殊に此二つの要素相互の間に於ける、調和円熟の域に躋る〈=のぼる?〉に在り。
 本会曩に〈=さきに〉二宮尊徳翁五十年紀念会を開催し、朝野の士と共に、其高風を景仰し、併せて将来に於ける、 人心の振作に資せんとせり。翁が其一身を擲つて、復興振衰の任に膺らるゝや誠を尽し、守るに死を以てす。 其人格心事の崇高なる、素より吾人の叙説を須たず。而も其任に?み務に膺らや、其為すところは、利用厚生の政と共に、 必ず社会風気の根抵に向て、其力を竭さゝる〈=尽くさざる?〉はなし。此の如きは、幕府の末葉、文物制度の未だ備はさる日に於て、 蚤く已に国民の道義的及経済的二要素の作興、竝に其調和の道に於て独創の見地に立ちたる者と云ふべし。 殊に協同結社の力に依りて、善を奨め、業を興すの道を教へ、報徳の義を始として、分度の法、推譲の道を示し、富の聚散、 禍福の由て岐るゝ所以の理を明かにし、小は家道の快復より、難村の救済に及び大は治国の経綸に亘りて、曲さに其要を説く、 その言皆肺腑より出て、人の難しとする所已れ之を行ひ斃れて後已むもの、亦実に百世の模範たり、此の如き熱誠、此の如き堪忍あり、 此精神を以て今の時局に当り進んて経営を広め、治教を張る時は、民力の発展、社会の風化、亦始て其大成を期するを得ん、 吾人が、戦後国民の好資料として、此偉人の言行を究めんことを欲するもの、之が為のみ、今や国家社会の事、規模益々拡張の運に向ひ、 国民漸く自治の制に習熟せんとし、教育風化、殖産興業に係る諸般の事物、亦将に、新興の象を視んとす。 之に加ふるに農商何れの業を問はず、至誠勤労、以て一身一家を起し、併せて国家に貢献す可き精神は、社会の各階級を挙げて、 その風を一にすべき要道たり。故を以て『斯民』は、尚一般風気の作興、自治の経営、教育の発展、民力の充実に関する事業制度に至るまで、 広く内外に渉りて、近代最新の識見を求め、之が講明の資料を世に紹介せんとす。
 いまや帝国無前の大捷〈=大勝利?〉を収めて、戦後に処すべき国民の前途や、遠く且つ大なり、*わくは〈=願わくは?〉、 大方有志『斯民』発行の旨を諒し、奮て賛襄〈=サンジョウ/助力して、事を成し遂げさせる〉の道に出でられんことを。

 最後のページには、この文章の終わり2行があり、真ん中ほどに罫線で区切られ、次のような英文(2行)が続く。

 A great City is that which has the greatest men and women.

 つづく、六ページ目から「論説」があり、「●二宮尊徳翁の主義及人格(一) 留岡幸助」が4ページ以上も続く。 冒頭には「左は去る3月11日報徳会に於て講演したるもの」と記され、目次に「家庭学校長 留岡幸助」とある。

 ところで、第1号の発行日が「明治39年4月23日」であることに注目し(一般に、第3種郵便物の関係からか、発行日に関係なく「×月1日」と表記する)、 ひょっとして"23日"が尊徳翁の誕生日ではないかと推理し、調べたところ「天明7 (1787) 年7月23日、栢山村(現小田原市)に生まれる」とあり、 「やはり、そうだったか」と納得した(「尊徳関連年表」)。

 しかし、関係者の思い入れはそれ以上で、巻末の「会 告」に、次のようにある(第1号116ページ)。

 ▲発行日ニ就テ。 本誌発行ニ就テハ、多大ノ同情ヲヨセラレ、発行ニ先チ、購読申込者ノ数、既ニ千ヲ以テ数フルノ盛況ヲ観ルニ至レリ、 此厚意ニ副ハンカ為メ、本誌ノ発刊一日モ之ヲ早クセンコトヲ欲スルモ、本会ノ設立本誌ノ発行ガ、二宮尊徳翁ニ深キ関係ヲ有スルニ依リ、 特ニ翁ノ生誕日、乃チ本日ヲ以テ発行ノ日ト定ルニ至レリ。本日微意ノ存スル所幸二之ヲ諒トセラレンコトヲ。

 以下、▲編輯ニ就テ。 および ▲二宮尊徳翁五十年紀念帖ニ就テ は省略。
 ちなみに、この「会 告」についても、2種のルビ(△、◎)が全体の4分の3近くに付けられている。

 ところで、「会 告」はもう一つあり、小さな活字で、次のようにある。

 一 「斯民」ハ報徳会員タルトイナトヲ問ハズ之ヲ購読スルコトヲ得
 一 「斯民」ハ毎月(二十三日)一回之ヲ発行ス毎号紙数約八十頁トシ其代価及郵税一部前金十銭、六ヶ月同五十五銭、一ヶ年同壹円トス
 一 「斯民」掲載事項及既ニ定マリタル分担者氏名左ノ如シ

 とあり、順に六項があり、肩書だけを並べると、
 1、二宮尊徳翁ニ関スル行事遺績其他国民風気ノ作興ニ関スル事項/2、国民の模範タルベキ近古内外人物の行事遺績…この二項に関し、 貴族院議員・三井銀行専務理事・法学博士・文学博士・法学博士・家庭学校長・日本精製糖社長・法制局参事官・内務書記官・文学士・日本精製糖取締役の11名が名を連ねている。
 同様に、3、自治及民政ニ関スル事項…7名(うち、2名は前項にも)/4、教育風化ニ関スル事項…8名(うち、3名は1・2項と兼務) /5、経済及産業ニ関スル事項…農商務省山林局長・文部省実業学務局長など8名(法制局参事官は1・2項と兼務) /6、農業信用機関其他信用組合ニ関スル事項…三井銀行専務理事・法学博士・法制局参事官の3名(すべて兼務)

 上記創刊号にある「開刊の辞」および「斯民」掲載事項で、本誌刊行の趣旨は明らかだが、第11巻第2号(大正5年5月1日発行)の表紙には 「◎本会の主旨要綱」が掲げられており、次の5項である《冒頭の図版参照》。
 地方の改良開発/自治の興振発展/道徳経済の調和/教育産業の連絡/地方団体の援助


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