父と文芸時評(昭和11年9月)

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 新たに、"編集者"父八五郎が、文芸時評をやっていたことも明らかになった。
 他の活字になったものにも、文芸評論らしきものは散見されるが、一度だけ新聞に登場している。 昭和11(1936)年9月初旬の「満洲日日新聞」夕刊である。
 同紙は明治40(1907)年11月3日創刊の満鉄(南満洲鉄道株式会社)系の新聞であるが、いくつかの新聞が合併している。 つまり「満州日報、満州日日新聞は、そのときどきによって発行地、新聞名が変わっていますが同じ新聞です」 (http://www.rainbow-trading.co.jp/hpgen/HPB/entries/22.html)という。

 復刻版としてまとめられた「文藝時評」は、どのような基準により編集されたのか。 父の書いたものが収録されている池内輝雄篇『文藝時評大系 昭和篇T』昭和11年【下】(第13巻)の「凡例」に、次のようにある。
 ○「文藝時評」とは何か、――大掴みにいって、雑誌に掲載された創作への作品月評ととらえ、明治19年、日本近代文学の黎明期から昭和45年までの同時代評を集成した。……
 ○主として、文藝雑誌、文藝同人誌、政論雑誌(総合雑誌)、各新聞に掲載されたもののみを収録した。

 これは、ゆまに書房の創立30周年記念出版(全73巻)として企画されたもので、「刊行のことば」の冒頭でも「文藝時評」について言及している。
 文藝時評とは主として雑誌掲載作品に対する同時代の現場批評である。 「文藝時評」という呼称は、明治三十四(一九〇一)年、「太陽」誌上に掲載された大町桂月「文藝時評」を嚆矢とする。 さらに「文章世界」の田山花袋「時評」、読売新聞の正宗白鳥「文藝時評」が登場し、以降今日まで新聞・雑誌に連綿と掲載されているわが国固有の文藝批評のスタイルである。……

 二〇〇五年五月  ゆまに書房

 たしかに、これは今もつづく日本文藝家協会による『文藝年鑑』(新潮社刊行)に相当する企画であろう。 あえて違いをいえば、『文藝年鑑』では詩歌や短歌・俳句だけでなく、いま「内外の文学、映画・演劇、マンガ、 メディアなどさまざまな角度から分析」しているのは、時代の趨勢、グローバル化によるものであろう。

 さて、第13巻(2007・10刊)には、昭和11(1936)年の下半期(7月〜12月)のものが収録されている(一部のみ、目次参照)。
 父に関しては、同年9月の「満洲日日新聞」夕刊に掲載された5回分(2日〜6日)で、順に「"小説"への興味」、 「漸層的な凄味 室生犀星の"切子"=「改造」=」、「小説の文章 『見たざま』と『獣神』」、「芥川賞の二作 "コシヤマイン記"と"城外"」、 「満州と文学 "月刊満州"と"満蒙評論"」とある(第13巻p257〜260)。
 東京で「二・二六事件」が起こったこの昭和11年、父は48歳であった。
 ちなみに、前年1月、最初の妻英子が二度目の脳溢血で死亡したため、7月には『橋本英子歌集』および『英子追悼集』を自費出版し、 同年9月に長野トワと結婚している。このころは大連図書館司書係主任を務め、10月には第29回全国図書館大会(京城)に参加しており、 11年5月には満鉄図書館業務研究会の運用部会幹事に当選している。
 では、以下に全文を掲げよう。



(1)「"小説"への興味
 世に生きて居る限りは、苦しい目にも逢はねばならず、案外なことで恥をかゝねばならぬものだといふことを、 今度の依頼を受けた日にもさう思つた。
 小生などに雑誌の文芸時評をさせようとは、物好きとも、意地悪いとも名状しようがないのだが、天下の物笑ひとなつても、 責任は編輯の方で持つて貰えるさうだから、それでは、といふ事にならねばならなくなつてしまつた。 四十を過ぎた者のあつかましさを、兼好法師はその随筆で軽蔑してゐるが、小生などは世の何人から軽蔑されようが、 いさゝかも異議は申さぬ。
 十年以上も前の事だが、或る先輩が、僕等の小説―そのころはまだ小説といふ語(ことば)の方が、 創作といふより広く行われて居たらう―に対する興味は、漱石あたりの作品が打止めで、僕なんか、 漱石以後の若い作家のは読んで居ない、読まうともしない、といつたのを、その人が大学で文科をやつた人であつたゞけに、 今も耳底に残つて居るのは、何か心に刺激を受けるものがあつたからに相違ない。 その後、例へば、正宗白鳥の、一年の中二、三回は有名と無名とを問はず、新進作家の作品全部に眼を通すことにしてゐる、 といふのを読んでも、それは専門の作家として感心はするものゝ、寧ろ当然のことで、普通の人なら、 よし文学愛好者であるとはいへ、彼の先輩の言つた如くになるのではないかといふことが、 歳月を経過した今日に於いて自ずから同感されてきて、善かれ、悪しかれ、人はさうなるのが自然ではないが《か?》、 と今度は自分の態度を肯定し、主張しようとさへする。蓋し作家を愛し、作品を尊重する人々からは、賊子《反逆者》視されるのであらう。 既に斯の如き小生である。何を言ひ出すか知れたものではない。読者は、何が書かれて居ようと失望しないことを覚悟して置いて欲しい。
    ――◇――
 室生犀星は、創作家としてよりも、随筆家として、より多く眼に触れるやうになり、更に小生の現在の興味からいへば、 一種の好みを持つた書物の装丁家として念頭に上つて来る。今、改造の「切子」を読むのは、幾年ぶりに、 彼の創作に対するのであらうか。 / (つゞく)

(2)「漸層的な凄味 室生犀星の"切子"=「改造」=
 「切子」は、主人公の女性切子を始め、強欲な守銭奴の一群の男女を描いたものである。 切子は現に実業家白山の妾であるが、白山も不思議がるほど金を欲しがる女である。前に連子して一緒になつてゐた男があるが、 その男と別れてからも養育費を送つて、子供はその男の手許に置いてある。切子の金をほしがるのは、この仕送りのためかと思ふと、 そこは吝嗇家のことだから、出来るだけ少く送つて大部分は銀行の金庫に隠している。 別れた妻の連子を養つてゐる前夫は、愛情のためかといへば、これも誰の子供か分からないと知りつゝ、 金ほしさに養つてゐるに過ぎない。この両者の欲は間もなく衝突して、或る夜、打ち合ひ、噛み合ひの後に、 子供は切子の膝下に返される。
 切子の妾生活は、その手腕、気質など、よく描けてゐるが、そして、かうした境遇の女性の強欲も同感されるが、 一方前夫の態度はいかに金銭のためとはいへ、普通の男としては、奇怪とせねばならぬが、之は小生の世間知らずの致す所であらうし、 作者の吝嗇漢を描こうとする意図からは面白い存在である。
 白山の女中玉枝、之がまた仲々敏い女で、主人に切子の動静を探ることをいひつけられてから、主人の意中を察し、 遂に切子に取つて代るのであるが、その間に、主人からと、切子からと精々搾り出さうとする手腕家である。 切子、玉枝も遂に喧嘩する、この際の切子の凄味もよく表れて居る。
 玉枝の報告によつて、白山は遂に切子と手を切るのだが、之は切子としては予期して居ない事ではなかつた。 にも拘らず、なんくせをつけて余計に出させようとし、白山の前で血相変へて怒つて見せ、 拳を以て障子の嵌硝子《はめがらす》を打破り、前歯でぢゃりぢゃり噛んで石榴のやうな口元で、 このぶよぶよ肥え太つた色好みの実業家を威嚇してしまふ。
 白山が居なければ、金の出所が無いわけだから、この男だけはおつとりとしているが、切子、その前夫、玉枝は、 何れもよく活き、殊に切子の凄味は、三回に亘つて漸層的に深さを示してゐる。 只最初の夫婦喧嘩の時の子供の態度は、描くには随分困難な場面であらう。
    ……◇……
 大鹿卓といふ作者は、小生には初めての人である。「天女」といふのは、内地の一少女が、東京で一鮮人学生と関係した事から家に居たゝまらなくなり、 諸所を流転した末、二、三の青年の共同下宿に住込む。そこへ何度も、曩の朝鮮人が襲つて来るのである。 この少女の家庭の人々の憤懣や、善良でない学生の共同下宿の光景など、何れも東京の郊外には、日夜事実として存在することのやうに思はれるが、 この文章は甚だ読みづらく感じた。"日本評論"の徳田秋声「仮装人物」の文章を見ると、誠にひろびろと、ゆつたりした心地になるが、 かういふ文章は、今日のものではないのかも知れぬ。 / (つゞく)
 《大鹿卓(1898.8.25〜1959.2.1)「兵隊」「野蛮人」「渡良瀬川」「谷中村事件」…Dead Writers Society「死せる作家の会」より》

(3)「小説の文章 『見たざま』と『獣神』
 徳田秋声の「仮装人物」(日本評論)は読物なので、ちよつと文章を味はつたゞけに止める。
 自分の主観を記して恐れ入るが、若いころ雑誌の論説を見て、この人は将来博士になるだらうと信じたり、創作を見ては、 この作家は屹度大家になるとか言つて一人ぎめの鑑定を試みて、いゝ気に成つて居たころがあつた。 此の鑑定が本当に的中した例もあるが、文芸の方では武者小路実篤がえらくなつた。断つて置くが、これは誌上で初対面の、 而も世評を聞かぬ人々の上に試みたものであること勿論である。前記"改造"の大鹿卓、"日本評論"の高見順といふ作家の名を初めて見て、 昔の小さい興味の復活するのを覚える。
 高見順といふ作家も新進の一人であらうが、文章は頗る分り易い。近ごろの文章は精密にはなつて居るのであらうが、 容易に読過出来ぬのがあつて困る。せめて小説の文章だけでも気楽に読ませてほしいのが小生の如き素人の願ひであるが、 この「見たざま」の文章はその点では申分がなささうである。
 話の筋が一段落ついた時に、一路直進しないで、前段に関係ある事件なり、人物なりの説明に入ることは、どの作家もよく試みることであり、 それによつて作品の奥行きが出来るから、話を進める上に必要な手法たることには相違ないが、この作家は、この短い作中において、 それを三度も繰返しているやうなのは考へる所があつての事だらうか。才気は十二分に有りさうな人だから、大いに工夫の存する所と見なければならぬ。
 「起承転々」といふのは、この作家の小説集だといふことが、「見たざま」によつてその名を知つてから分かつた。 「起承転々」といふ書名に何となく著者の才気を感じて居たが、今改めて同書の広告文を読んで見ると、 輓近《=バンキン/近ごろ》の小説界に騒然たる旋渦を巻き起している作家ださうである。 いかにもと小生にもうなづかれる節がある。
    ……◇……
 "中央公論"の「獣神」は村山知義の作。クリスチャン夫婦の表裏を主とし、その隣家との交際、少年の恋、同性愛など、 先づ面白く読んだ。キリストを売物にしてゐるのではないが、信者としての一種の意地があつて、内と外とが一枚に成り得ない悲惨がよく分るが、 それは大凡誰にも見当のつく程度のもので、案外平凡なのではないかと云つては、作者の労を認めないことに成るかも知れん。
 それにしても、この作にある前置と、最後の手紙とは、作の全体に響く所が極めて少なからう。 殊に前置の方の効果は疑はれる。 / (つゞく)

(4)「芥川賞の二作 "コシヤマイン記"と"城外"
 くだらぬ事を余り書かなくともと思つてゐる所へ"文藝春秋"が届けられた。
 "文藝春秋"には、芥川賞の二編がある。「コシヤマイン記」「城外」何れを見ても、文章が素直で分りいゝのが愉快であつた。 新進作家にありがちな焦燥気分もなく、ぎごちない造語もない。 それのみか、大家と云はれる人々にさへ免れぬ(しかし之は印刷上の誤かも知れぬが)誤字や当字も見当たらぬやうだ。 その意味からは何となく応募作品のやうな臭ひがあるかとも思へるが、芥川賞は、賞をかけて募集してゐるのでなく、 同人雑誌の作品中から選抜するのだから、殊更に取りつくろつた作品では無いのである。 この作者達は黙々として相当有名なのであらうが――同人雑誌中にその技を研いて居たのかと敬意を表する。
    ……◇……
 またこの二編とも、主要な会話の文章が特殊である。コシヤマインは、アイヌ同士の会話であるのに、 稍時代がかつたほどの上品な言葉遣をさせて居る。之が不調和などといふ感じは少しもなくて、 主人公の彼等仲間における高い一族たることを説明するに、よく効果を挙げて居る。 「城外」は、支那語の会話は「主よ、何故外で泊らるゝや」といつた風に漢文直訳体である。 而も、それは阿媽《あま/外国人に雇われる女中や子守女》との間における談話に於てである。 前者における程効果的だと思はぬが日本訳すれば、かうも固苦しくなる言葉が、下女などにも通ずるといふことに興味を持つらしい作者に、 嘗ては支那語の専門家だつたといふ人だけに、小生は軽い同感を誘はれる。
 城外では、阿媽との関係を秘密にせねばならぬと心に油断が出来なかつたのに、彼女が大患に罹つたために、 それをいたはるやうになつて却て、この内心の苦しさから解放されたこと、その心持が段々進んで、 肉体的なまた個人的な愛を超えて、ヒューメンな愛の性質を多分に含んで居たといふあたり特に面白い。 人は肉欲ばかりの塊でないと同時に肉体を通さずに国籍と身分を超えてよく無私な恋的愛を感じ得るか、 さういふ問題が浮かぶのである。
 それから、此の阿媽親子との別れた刹那の心持は、簡潔に描かれて居ていゝ。この作はむしろ、此の儘こゝで打切つて置きたかつた。
    ……◇……
 アイヌの酋長が押し寄せる内地人の悪知恵にだまされて、遂に滅んで行く末路を描いたのが「コシヤマイン記」で、 作者はよくこの弱民族に成りきり、またよく北海道の山河自然に同化して居ると思ふ。 北満あたりに、斯ういふ物語が残るのには、まだ年代を待たねばならないか……。 / (つゞく)
 《第3回(昭和11年上半期) 鶴田知也「コシヤマイン記」、小田嶽夫「城外」。ちなみに直木賞は海音寺潮五郎の「天正女合戦」》

(5)「満州と文学 "月刊満州"と"満蒙評論"
 対満政策は、国策中の国策として、他の政策に超越する、移民政策は、対満政策中の政策として、諸々の政策と同列には立たぬ、といふのである。 さうあらんことを希ふ。満州に早く五百万か、千万の日本人が移植されないものか。そしたら日本との関係は、もつと密接になつて、 満州の特色といふものは塗り潰されるかと思ふが、その間には山の懐、河の畔を、物語を求めて歩く一群の人々が存在し、 そこから特殊の文学の出現することを期待し得るのである。
    ……◇……
 "月刊満州"は、雑誌として上乗、今日の満州には出来過ぎたものである。世人は、編者にこれだけの手腕を中央で発揮させたら、 といつてゐるが、敢てさうせぬ所に、一本立ちで、自由に活動したい城島氏の念願がある。
 併し、この雑誌が、文芸時評の対象とはならないことは、編者にも、贔屓筋にも、何等の痛痒を感ぜしめるものではない。 さういふことに頓着なく、小生には朱唇《シュシン/女性の唇》に聴く座談会で、鉄都鞍山の紅裙《コウクン/美人。芸者》連の気炎が面白かつた。 かういふ記事を読むと、自分の浅学寡聞がはつきり意識され、それだけ視野の拡大されたことを喜ばねばならぬ。 談話者の言には、可憐な告白もあるが、相当な域に達して居ると、少くとも小生には思へたのも多い。 これも考えれば当然の現象で、既に男子の人材が、内地に劣らぬ満州であつて見れば、女性の人材?にも、 それに比ぶべき者が在るべきなのである。今度数編の創作を読んで、その作中の女性が、私も満州へでも行かうかしら、 と云つて居るのは、単に作者が際物を材料にして居るのでは無いことが、この記事でたしかめられたやうに思つた。
    ……◇……
 "満蒙評論"には「流れる女」阿部晃二がある。すらすらと読めるが、筋の進行も辷(すべ)るやうで、 かう急テムポで駆け出しては――八月号は長編の初めの部分だけだから、全体は予想の限りではないが――結局どうなるかと危ぶまれる。
 創作は、読者を掴む有力な材料だが、満州ではまだ無理ではないか。 そこへ行くと、創作と名乗つたものを掲げないらしいのは"月刊満州"の賢明な点と認めてよい。
 "合萌"九周年記念号には、大橋松平氏歓迎会の記がある。言ふまでもなく、これは短歌専門の雑誌であるから、 その読後感を、前記諸雑誌と並記することは、唐突、不調和の観がしよう。
 小生は本誌を見て、家の隣近所にも歌人の多いことを知り、一種の賑しさを味ふのである。 / (をはり)=九月一日

 この歳になるまで、父は訓導(教師)生活からはじまり、それは大連でもつづくが、やがて満鉄の図書館関係の仕事につき、 相前後して編集者としての職も長く、同時に執筆者でもあった。
 編集者として、28歳のときの中央報徳会機関誌「斯民〈シミン〉」(東京1916・04?―1918・03?)に始まり、 満鐵讀書会「讀書會雑誌」では編集人(1918年6月号―1924年4月号)そして執筆者であり、ついで満鐵各図書館報「書香〈ショコウ〉」第1次(1925年4月号―1926年3月号)では奥付等不明だが、 寄稿者A氏との関係から編集人および執筆者であることが推測され、さらに第2次「書香」の第1号〜第94号(1929年4月号―1937年4月号)でも編集人兼執筆者であった。
 この第2次「書香」は、昭和19(1944)年12月号(第158号)までつづいたが、父は満鉄図書館「図書館業務研究委員会」の一員(図書館係主任/同会運用部幹事)として、 記事等に名前が出るほか、第101号では同会最後の記念写真に顔を出すことで終っている。

 そのような実績があるためか、この「満洲日日新聞」のあと、滿洲讀書同好會編「図書館新報」⇒改題「満洲読書新報」の昭和12(1937)年4月・第1号から19(1944)年2月・第77号の間で、 「讀者と圖書」はじめ10本の原稿を書いている。この第1号の原稿末尾にはゴシック体で「◇筆者橋本先生は、滿鐵學務課圖書係主任である。」と記されている。 なお、ここでは"文藝時評"的なものは見当たらない。

 話はもどって、この第13巻で、父の次に再録されている「文藝時評(一)」は、新居 格《にい いたる/新聞記者のち評論家1888-1951》の「芥川賞の再評価」(「信濃毎日新聞」昭和11年9月3日)である。
 新居は「わたしは文学賞に対して一徹に抱いていた頑なな考え方が今回芥川賞を得た作品を読むについて解かれて来た」と始まる長文で、 その"頑なな考え方"について二つの根拠を挙げたのち、とくに"官製"の文学賞とちがい、今回受賞した二作を読んで、 「芥川賞も、また有意義なことになるといふ気が仕出した」こと、そして「芥川賞や何賞とかになると読んでみやうという気にだけはなる、 そして非常によくはないまでも、或る程度にはすぐれたものであることも事実である。芥川賞のいゝことは比較的新人を挙げることだ。 それもいゝ」などとしている(p261)。

 ともあれ、悩ましいのは、父の文章の中に読物、小説、創作という、今ではほとんど区別のつかない言葉の"使い分け"が行われていることである。 これを何とかしなければならない。研究はこれからである。・・・
 2008・04・08 花祭り=お釈迦様の日に 橋本健午


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