父のエッセイなど(大正14,15年発表) 2008・05・06

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 父が「読書会雑誌」の編集人を降りたのは、大正13(1924)年4月ごろであるが、同年7月17日には大連図書館勤務を命ぜられている。
 この大連図書館のほか各所に作られた分館にも館長などとして勤めたり、翌14年4月から発行された満鉄大連図書館の月報「書香」(創刊〜翌年3月、12号で中断…第一次)の編集人もやっていたようである。
 その間、次の2点「心中の蟲」と「作文の境地」を「読書会雑誌」に寄稿している。照れ屋の性格からか、いささか韜晦気味の文章ではあるようだ。

    心中の蟲       橋 本 八 五 郎
 したくない仕事でも、つとめて打ちかゝれば、最初のしたくなかつた念は、いつの間にか消えて、遂には仕事の完成に伴ふ満足を以て、報いられる。 何処かへ遊びに出かけたかつたけれども、今遊んでは、他に差支を生ずる事が先見されるので、我慢して出かけるのを止め、何か買ひたいとは思つたが、 一寸退いて考へると、直ぐもつと必要なものゝあるのに気付き、手にした財布を、再びポケツトにしまつたりする時も、大抵は後悔せずにすむ。 かゝる事例は、私等の如き、至らぬ者の日常生活には極めて多いので、躊躇なき、自由なる生活との距離は甚だ遠いが、 罪多き生活には勝らうとして、僅に慰める事が出来る。それは、私の心を、私自らが支配し得たといふ自覚に依つてゞある。
 自分の心を、自分で支配し得た自覚が、後悔せずに済んだり、或は満足の感を生じたりすることは、其の反面に、 自分の心で支配するに難いかといふ事実を物語るのであつて、此の困難な仕事をしはたした時に、愉快は味へるとせねばならぬ。
 併し日常生活の大部分は、習慣の堆積したものと、規則づくめで、自分の好き嫌ひを言へない事務とから成つてゐて、自分の心を支配するか、 せぬかは寧ろ問題ではないのだが、仕事をしたくない念が嵩じ、遊びに出掛けたいと思ふ念慮が断ち切れず、或は借金してでも欲しいとする物が眼についたりすると、 之は既に内部若しくは外部の誘惑であつて、之に打勝たう爲めに、即ち誘惑されようとする心を、自分で支配するには、 非常な勇気を必要とする。私等は多くの場合に於て、支配するよりも、支配される。心は容易に我が命に從順ではない。
 心が我に從順でないのは、誘惑といつたやうに、内部から或は外部分ら、我に働きかけて来る者がある時だけの事ではない。 働きかけて来る者のある時、私等は其の目あてを見定めた上で、何等かの対策を講ずる事もできやうが、これといふとらへ所が無いのに、 絶えず心を悩まされてゐる。例へば『羨む心』の如きは、其の一つである。
 『羨む心』は、彼を我と比較し、彼の我に勝つた点を認めなければ起らないのであるから、此の心の生ずる為めには、 人を見るの明がなければならす、彼の我に勝る所以を認めたのは、我の及ばざる所を知つての事であるから、 己惚れと負暗しみの念強く、自知の心の乏しい者には起らず、我の及ばざる事を知つても、自ら向上して、 彼と比肩するに至らうとする奮発心のない者にも、生ずる事は稀であらうから、『羨む心』を抱き得るのは、愚人でなくして、 智者であると云つてよい。
 婦人などの挨拶の言葉に『お羨しう御座います』といへば、相手を尊敬してゐるのである。 時としては、相手か馬鹿にして斯くいふのもあらうが、多くは、文字通りに、心底からさう云つてゐる。 それ故相手も決して心持を悪くせず『お羨ましう御座います」と云つた者を、見下けようとせぬのみか、却つて好感を以て迎へるやうになる。 それは一方の感服、敬慕の念が、一方に通ずるからである。他人の長所を認め、之に服し、之を敬ふことはやさしい心の持ち主でなければできぬ。 人を羨むのは、悪い事ではない。
 人を見るの明があるといふ範囲に於てならば『羨む心』に何等の危険はないけれども、之は一歩転ずれば、彼の幸福を我に見比べ、 彼の位置を我と軽重しようとするのであつて、遂には、不平や愚痴に終らないのは稀である。 不平を述べて痛快がつたり、愚痴を言つて同情を求めたりすることも、世間には類の多い事であるから、以て他人を欺くことができても、 自ら顧みて、其の実は他を羨んでゐるからの事であつたら、衷心慙愧に堪へぬものがあらう。他を尊敬する穣度に於ては『羨む心』の弊はない。 併し之も非常の警戒を加へるのでなければ、嫉妬への間は極めて近い。彼に取つて代ることができなければ、せめて彼をけなしたくなる。 力量に於て相如くと思へば、彼を陥れて、其の位置を奪はうとする。其の争ふことがあつても、多くは陰険な手段を以て行はれ、 観者に快感を与へることは無い。
 『羨む心』は、その裏面に、斯の如き危険と弊害とを包んでゐる。他から見て頼母しくないばかりでなく、此の心を抱く者自らに取りては、 最も耐え難い苦痛である。しかも一亘此の心が我が脳中を占領したら、其の撃退は容易の業では無い。 もし誘惑を起させる因となる慾望を、称して心中の賊といふならば、之は心中の虫とも名づくべきである。 賊と虫と、其の人の注意を惹く上には相違はあつても、其の害毒の及ぶ点に於ては、一を大きく、一を小さく見るこくはできぬ。
 すべて人を羨むのは、自分の境遇の非なる場合のことである。自分で得意でゐて、それで他を羨む程に、幸にして人間は多欲ではないらしい。 中には、他から見て滑稽に感する程度の事でも、当人は頗る得意なのがある。他を羨むことを要せぬだけ、当人の幸福であらう。 何れにしても、不幸、逆境、失意などが、羨む心を生むものとすれば、その生れる所以のものが、既に何人も好む所でないのに、 かてゝ伽へて、その生れた『羨む心』が、また前記の如く、人心を喜ばしめるに足りないとすれば、私達は、できるだけ此の心を退けて置きたい。 外郭の境遇を改善する事は、一時の仕事としてできぬとしても、内面に於て、此の虫を退ける工夫がありたい。 即ち心中の虫を支配する力を養ひたい。
 私達は先づ、自分の境遇の許す範園に於て、できるだけ其の境遇に善処せねばならぬ。 私達は、多くの場合に不幸の地に立たねばならぬのであるが、不幸ならば不幸なりに、其の立つ地点に於て、 自己の最善を発揮したい。暫く我慢すれば成功とか、失敗といふことでなく、否、成功もあらう、勝利もあらうが、 それよりも前に、かつて経験したことのない、一種の慰安を以て励まされることを覚える。 真面目に最善を発揮することをしさへせば、最も不幸な境遇にある人ほど、何人よりもよくこの慰安を獲得する。 この安慰によつて心中に満足する者は他を羨む心の、這入りこむ隙が無いのである。美食に飽く者は常に美食に溝足せぬ、 粗食にでも、健全に満腹した者にほ、恐らく美食を見ても、最早食欲は動かねであらう。
 次に私達は、眼界を大くして、広く世間を眺めたい。即ち比較といふことを、単に我つ彼との狭い範園だけに限らずに広く世間一般に試みたい。 不平は如何なる境遇の人にもある。甲の職業を羨み、乙の声名を羨んだりするが、少しく達観すれば、若しくは仔細に検討すれば、 要するに五十歩百歩であることに気付く。終日春を尋ねて歩きくたびれるよりは、静かに我が家の春を眺めた方が、どんなに賢いこいか。
 最後に私達は、この私自身が何であるか、私の本性が何であるかを早く発見して、自分の志す所、安んずる地、、それをつかまへてゐたい。 柳緑花紅、価値は夫々別である。或る者は柳緑を喝釆し、或る者は花紅を賞揚するが、しかも世にはその何れをも欠くことはできぬ。 自分の守る所は柳緑か、花紅か。日々之を已の心に問へ。藤村の詩に左の一章がある。 (大正十四・一・一〇)

    梅は酸くして梅の樹の  葉かげに青き玉をなし
    柿甘くして柿の樹の   梢に高くかゝれるを
    君は酸からず甘からず  辛きはいかに唐がらし
    こたへていはく吾とても 柿の甘きを知れるなり
    梅の酸きをも知れるなり たゞいかにせん他(ひと)の上
    吾は拙きものなれば   生れながらに辛きなり。

    二つの味を一つ身に   兼ぬべき世とも見えされば
    のたまふ酸きと甘きとは 梅と柿とに任せおき
    吾は一つを楽しみて   せめて辛きを守り頼まん。

《第12巻第2号(大正14年2月号) 随筆「心中の蟲」》

  作文の境地       橋本八五郎

 思想が盛んに湧いて、筆の進みも早いことがある。こんな時は、書いていく途中に、最初予期しなかった、適切有効な材料も飛出して来るもので、 着手の時間は短くても、割合に分量の多い仕事ができる。仕事の済んだ後は、吐き出したいものを吐いてしまつた様な、 心中の朗かさが来る。楽しみつゝこの場合は仕事ができる。
        ○
 思想が漠然として、唯脳中の何処かに潜んでいるといふだけで、前の様にその発動が活発でないことがある。 実際はこの場合の方が多いかも知れない。かゝる時には、表現すべき一つの思想を捕へるまでには、非常な苦心を要する。 楽しみつゝすることはできない。その苦心は、精神の集中することにあつて、それを意識的に、つとめねばならぬ。 この為めには時間を費やすことが予想外に多く、即ち時間の割合に少量の仕事しかできず、時としてはでき上がらぬこともある。 併しそれができ上がった時の快は、数学の難問を解いた後のやうであり、険坂を攀じて、頂上を究めたやうでもあつて、 その優劣は、容易に言ひ難い。
 仕事のできばえが何れが優るかも、一般的には私にはまだ一寸言ひ難い。
 どちらを望むかとなれば、望むのは気楽な方である。けれども、苦しむことも、文を練り、思想を練るに無効でないとすれば、 之も望まないではゐられない。文を練る者の心掛の上からいへば、勿論言を要せぬ。
        ○
 併し私は、かういふことを恐れる。
 文を作らうとする程の人は、常に前者の如き思想を有することが多いので、後者の如き場合は、むしろ例外なのではあるまいかと。 而して後者の場合の私に多いのは、文を作るに要する天分の欠乏と、思想を文章に表現するほどに活躍させるだけの、 平素の心掛が足りないのではあるまいかと。
 此の恐れは、私をして盆々文章を作るに苦心せしめる。即ち後着の苦痛と直面する機会を多くする。此の機会を多くすることが、 やがて、此の苦痛を克服する所以であるとの予想の下にである。之は単なる予想である。併し斯くすること以外に、 此の恐れを駆逐する方途が有らうか。
 天分の事を考慮に入れなければならぬ。それにしても、文を作りたいとの一念は、それの有ると無いとを顧みてゐる暇を与へぬ。 私はせめて、此の一念だけを生かしたいのである。
         ○
 従来は、後の場合には、読書に転ずることによつて、時聞を空費することから免れ、以て賢い方法としたのである。 その反面には、苦痛に堪へかねて、弁解の出来る範囲に於ての安易な道を選ぶことを、知らず知らずやつたのであらふといふことが、 後日になつて、何故もつと苦心して文章を作らないか、雑駁な読書の弊を、またも嘗めてゐるのか、と反省する際に気付かれるのである。
 読書も面白い仕事であり、有盆な仕事であるが、私は此の一念の爲めに、それを制限しても、この苦痛を迎へねばならぬ。 苦痛が迫つて来たら、静かに其れに堪へて居れ、逃げ路を読書に求めて、更に思想の沈滞を来たすやうな愚を演ずるな。之を格言とする。

    作文の目標
         ○
 文章は、最も心身に切実なことを書かうと思ふ。従つて立派にも見えず、高尚にも成らないでも、それは措いて問はぬことにする。 只少しでも落着いて読む人があつたら、其の人の心持には、よく浸み入るものでありたい。地味でよいから、心におぼえのあることを選んで書かう。
         ○
 文字に現すには、心に覚えた通りを、其の儘に表現のできる様に苦心せねばならぬ。文字に捕はれたり、体裁に妨げられたり、 心に覚えた通りは仲々容易に表れるものでない。文字、文体に捕はれるのも、或は此のその儘を表現する力が乏しいからであるかも知れない。 書いてから日を経て読んでも、当時の心中が、分明に再現するやう。従つて、私と同じ経験者には、私の書いたものは、 其の人に対しても、同様の再現力を有するものでなければならぬ。またさういふ経験を持たぬ人には、心中に、 或る種のものを芽ぐませるやう。書いたものは、それだけの力を有するのでなければならぬ。
 心中をその儘文字に表現するには、大きな苦心を要する。それを熱心に望んでゐるだけで、私は一度も成功した事が無い。
         ○
 併し文章を書くには、極めて自由な態度でありたいと思ふ。出来るだけ形式張らずに、長くてもよし、短くてもよし、 文章の構造とか云ふことには心全然苦心を省きたい。そして心におぼえのあることを、的確明瞭に文字に打出すことに、 その一点に苦心を集中したい。
         ○
 併しまた、思ひのまゝを書くのは好いとして、それが単なる記述に止まることは、即ち熱も出てゐずに脂も乗つてゐずに、 たゞの文字の行列であることは、慎んで避けなければならぬ。私は文章の形式をいろいろに考へ、形式によつて人を惹きつけるやうな才能を持たぬ。 私の書く事実も単純なら、書き表した形も地味なものしかできさうにない。それでゐて人に読まれようとするには、 そこに非常な苦心が無ければなるまいが、それを、文字の裏にひそんでゐる熱と、行との間を流れてゐる情とによつて、 補つて行きたい。若し言ひ得るならば、詩を作る心持で散文を書く、詩人の心を持つ散文家でありたい。
         ○
 最も永続することは、其の性に最もよく適することで、また最も普通なことである。私の性を、最も普通な形に於て表現して行きたい。 樹木でいへば常緑樹、日本人の食物でいへば米の飯、さういふものゝやうに。

  よく物を見よ
         ○
 物を見るには、必らず其の本質を突き止めるやうにつとめること。誤つた物の見方は、其の本質を精細に、深刻に究めようとせずに、 之に類似する或る他の記憶に依らうとすることや、また之に関連する連想に依らうとすることや、つまり是等の或る成心を以て観察しようとする。 是等の成心に妨げられると、眼前の事物の、真相には達せられない。併し記憶や連想などの材料が多いと、此の材料によつて、 眼前の事物を解釈し得たかの如き誤解を、自分もし、人もする。自分がそれで満足するのは、より広き見解を得る所以ではないし、 人のさういふ態度に感心するのは、買被りに過ぎない。
 ひたすらに事物の真相に徹しようとしたら、随分多くの場合に、行詰りの心持を経験せねばならない。 或は事毎に行詰つて、歯の立たぬ感じもするし、また深い谷底に落ちて、進退に窮することもあらう。 是は苦しいには相違ないが、自己独特の識見を養ふには、屡々此の苦痛を経験せねばならぬ。
 だから本当に物を見ようとするには、もつと、慎み深く、沈黙であらねばなるまい。多弁家は物識りかも知れぬが、 本当の物の生命をつかんでゐるか、どうか。
         ○
 静観、静観、静観!

《第13巻第2号(大正15年2月号) 随筆「炉辺の趣味と娯楽」の一つ「作文の境地」》


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