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「ひたすらコラム」 2006年9月下旬号

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「やっぱり、公人だった」
 今月21日の小泉内閣メールマガジン 第250号(2006/09/21)は最終号とかで、タイトルは「5年間ありがとうございました」とある。
 少しピックアップすると、「話し合ったり、相談したり、専門家の知恵を借りたりすることは必要ですが、重要な決断は一人でしなければなりません。 時には、友情や好みを捨てて非情にならなければならないときもあります」…トップは孤独という点では、当然のことでしょうね。 しかし、つづく「24時間公人として、何かあったらいつでもすぐに対応できるように、5年間精一杯努力してきました」というのは、いかがなものか。
 靖国神社に参拝するときは"私人"といっていたのは、ウソだったということになりますね。いや、そうでないというなら、 "まだらボケ"ならぬ"まだら私人"というわけか。
 後半で、彼は「一人の平凡な人間がここまでやってこられたのは、多くのみなさんのご支援、ご協力があったからこそです。 (中略)私は自分では気の弱い普通の常識人だと思っています。ただ、いつも何かに守られている、運がいいな、と思いながら、 何とか頑張ってきました。」などと述懐する。
 前段については「?」だが、後段の「何かに守られている、運がいいな」は謙虚でよろしいが、在任中こそ、そうであってほしかった。
 ついで、「私は、総理を退いた後は一国会議員として、新総理を控えめに支えていこうと思っています」と"控えめに"語る。
 おしまいに、現在の心境を短歌に託したとして、曰く「ありがとう 支えてくれて ありがとう 激励 協力 只々感謝」。 いやあ、これが"短歌"かどうかはおいておくとして、参りましたなあ、選挙民の一人としては。 すなわち「残念だ だれがこんな国にした 憤怒 諦め 只々後悔」と複雑な心境ではある。
 そういえば数年前、『午歳生まれは、強運すぎる人』などというタイトルの本があったが、跡を継ぐ安倍クンは小泉クンのひと回り下の「午」である。 こちらも"強運"の持ち主なのかしらん。先が思いやられるが、次項を。

「自ら、神話を創る?」
 「アンポって、なあに」と、お祖父さんに聞いたそうだ。六歳の孫、安倍晋三くんは。すると祖父岸信介首相(当時)は、 真面目に「(柿を干した)アンポ柿のことだよ」とはいわず、「日本を米国に守ってもらう条約だ」と答えたと、 安倍本人が自著『美しい国へ』で紹介する。
 "安保"は分からないが、"条約"という言葉を理解するとは、神童ここにありともいえるエピソードといえそうだ。(ああ、しんど!!)
 神童、いや神話というのは、いつの間にか他人?によって作られるものであろうが、新聞はこのエピソードを受けて、 「政治家・岸の評価は、今なお定まっていないが、少なくとも孫には、国益を守るため命をかけて外国と渡り合った政治家として記憶に焼き付いている」 (東京06・09・22)と断言するのは、いささかノー天気ではないか。
 そうである。自ら披瀝する"神話"は、他人の容喙を許さない世界で、まさに「昭和の妖怪」の孫たる由縁であろうか。
 戦後生まれで初のとか、戦後最年少で自民党総裁に選ばれた51歳は、翌日には52歳になっていた。総裁選の日程は、そういうことだったのかしらん。 他の二候補も100票以上の得票で善戦したとか、だれかが言ったように"学級選挙"のような様相に、国民は白けるかというと、そうではないらしい。
 タカ派だとか、経済政策に疎いとかいわれても、「カッコイイ」だけで民意のまとまるところが、この国の"美点"である?!
 余談だが、その著『美しい国へ』(≒『美国へ』)とは意味深長なタイトルではないか。中国語ではアメリカを「美国」と書く。 「祖父は立派だ」と、岸への憧れをしばしば口にするらしい安倍クンは、ここまで意識してアメリカ一辺倒であろうとするのか。まさか?!

「強制する側に、転ずる?!」
 都教委の通達や指導に従わなかったとして、都立高校の教師から大量処分者を出した入学・卒業式での起立・斉唱問題で、 東京地裁は「国旗国歌 強制は違憲/『思想・良心の自由侵害』/都の教職員処分禁じる」(東京06・09・22)と、原告教師らの全面勝訴となる判決を言い渡した。 だが、まだ予断を許さない。
 公式の行事などで、国歌を奏し国旗を掲げるのは、どの国でも行われていることだろう。しかし、国歌を歌うというのは、 民主主義国家でなくても、それは各人の自由、心の問題であって強制されるものではないだろう。
 99年8月に成立した「国旗国歌法」は、日の丸と君が代を国旗・国歌と定めただけで、起立や斉唱を義務付けてはいないことからも明白である。
 しかし、コイズミ首相は「判決は聞いていないが、人間として国旗や国歌に敬意を表するというのは法律以前の問題だ」とし、 強制についても「法律以前に人格や、人柄、礼儀の問題だ」と相変らずで、"法律以前"などと、憲法までないがしろにする姿勢は、 とても「気の弱い普通の常識人」とは思えない。
 さらに強硬なのは石原都知事で「当然控訴する。学習指導要領で要求された教師の義務を怠れば、処分を受けるのは当り前だ」といい、 さらに「裁判官は都立高校の実態を見てるのかね。現場を見てみた方がいい。乱れに乱れている。規律を取り戻すため、 ある種の統一行動は必要で、その一つが式典に応じた国歌や国旗に対する敬意といったものだと思う」とする。
 たしかに、教育現場は締め付けと忙しさで、自殺者や病欠が出たり、へとへとらしく、立ち上がる気力も失せているという。 知事はその現場を見てるのかね?!
 そういえば、いまや都庁内では上意下達の"統一行動"が取られ、それが都民への締め付けになっているのではないか。
 ちょっと話はかわるが、私はある著書で「(石原都政となって)…都職員をこのように(民間に対し)居丈高にさせたのは、 その上司である部長の了解なしにはありえないだろうし、その部長もさらに上司(局長)の意向を受けているだろうし、 局長もその上司の……、ということは容易に想像できる」と書いたものである。
 《なお、私は法の成立直前、99年7月に「日本語表現から見た『国旗国歌法』についての私見」を述べている。》

(以上、06年9月26日までの執筆)


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