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「ミニ自分史」(116)『悪の日記』 A HUMAN DOCUMENT  -Jan.58 to Mar.61- by KENGO HASHIMOTO その3

「ミニ自分史」(115)       「ミニ自分史」(117)


 九月末から体育祭の準備に忙しかったが、必然と[的に]勉強時間が少なくなった。 十月の体育祭では仮装行列はつまらないものとなり、私は千五百に負けて、四百に勝ったと思うのだが、 すでに体力がなくなっていたのはオドロキであり、また悲しくもあった。{私のような体はつねに練習していることが必要である。}

 私はそのころ、彼女が、ひどく[かなり]私の性に合った女性であることを知り、その昔のイメージからずっと変わっていたことにうれしさを感じ、 また彼女の記憶によって、小学生前後のことをなつかしく回想したものである。 私は彼女[+の中]に一種の強さというようなものを見、そして、手紙でヤッツケルのが非常な楽しみであった。 彼女自身も私をヤッツケルのに興味をもっていたのだ。しかしそれもツカの間のことだったようだ。
 女の子を得るには、汽車の中でワザと足を踏んでアヤマッて、キッカケをつくるのだと話した友のコトバが面白い。だが、私はやってみたことがない。

 11/28「午後三時五五分。ああ吾は何のために悩まねればならぬのか。……」――という書き出しで、自問が続く、およそヤケ気味なところが見られる。 そして自己陶酔にふけっているのだ。しかし、ただ単に何もないのにこういうことを書くはずがない、何か原因があったのだろうが、 当時の私の日記の特徴として、そういうことは一切書かれていない。
 ――「……人間、この中途半端なもの。ああ吾もその一人か。何故に吾人間として生まれたか。それは宿命か、因果か。 ああ語りたい、語りたい、いっまでも。それは罪か、許されざるべきことか。高貴か、卑しいか。悩むものは馬鹿か、悩むものは……」 ――そして、四時三三分に終っている。

 それからは、試験のことも、学校生活のことも、ミスHのことも何も書かれていない。 その間私は何をしていたのか知らないが、Yをしばしばうらやましがらせたようなことが思い出される。 そして、冬の休暇には一大汚点を残したのである。{私は時として、あんまりいいことをしていない。}
 そのころ、彼にはひどく足が細くてかわいい女の子が気になっていた。 私は彼よりも前からその存在を知っていたが、その当時私には、大阪の女はダメだという考えがあったし、 {今もそうかもしれない。}余裕もあったので、それに大して心ひかれる女性でもなかったので[が]、彼一人でヤッキになっていたのである。・・・・・

 その休暇も私は、六日間の予定で新所原に帰って、同窓会をやっている。 ページ41に書いてあるミスWに関することは、実はここに記されるべきでことある。≪“ページ41”は原ノートを指すか?≫
 私は、彼女にまた一種独特の特徴というか性質を見い出すのである。それは、後になってさらに興味深くなるのであるが、 当時私は、ひどく空想を愛していた。私はいつかそうなるかもしれないと考えていた。私はこのとき始めてミスWの真価がわかり始めていたのである。 だが、それにはもっと後まで気がつかなかった。
 つまり、彼女は、せのびをしているようで、まことに不可解なことがあり、今から思うと当時彼女も空想家ではなかったかと思う。 私も興味はあったが、その時はふざけるということしか知らなかった。しかし[も]、それは私のもっとも調子のいい時でもある。
 ここに彼女とのことを記さねばならないかも知れないが、ちょっと長くなって、完成させ[られ]そうもない。 つまり日記自体を書き直すということがすでにおかしいわけであるが、私はある意図を持って今これをやっているのだ。 しかし、あんまり詳しく述べることなく、表面的に書いておこうと思う。

 一九六〇年の一月の二、三日は英文で記されている。ここでは日本語で書こう。
 1/12「私の日記は、私の心臓の鼓動である。……自由作文はむずかしい。なぜならば何をどう書いていいか分らないからだ。 ……彼は私の友で賢い男だ。しかし女の友達がいない。彼はあわれな男だと思う、彼はあたり前の人間だからだ。ミスHもまた賢い少女である。」

 1/14「『わが生涯の幸福。私は少年で、彼女は少女である。』 これが、私の小説の書き出しだった。{その時、私は小説が書きたかった。} ……私はミスWをおこらせてしまったのではないかとおそれる。彼女はすばらしい女性だ。彼女の性向は面白い。 どうしてだか知らない。しかし、彼女はそれを当然のことと考えているに違いない。もし本当だとしたら、かわいそうだ。」 ――当時どうして私はこんなことを書いたのか分らない。
 「数学は嫌悪すべき学科だ。私はその利益「恩恵]を知らないからだ。」

 1/17「日曜。楽しかった。しかし手紙はこなかった。」

 1/21「電気ゴタツを使い始める。……外語に入るために勉強せねばならない。手紙が来ない。」

 さらに一カ月以上も何も書いていない。その間、私は在学中最後のマラソンで、最も悪い成績(50位)を残している。 ほとんど走らないも同然であった。{中I−38位、中II−7位、中III−1位、高I−3位、高II−50位、高III−ナシ。 中I でも上位を走っていたが、踏切で遮断されたため}

 2/26「私はひどく何か書きたいという衝動にかられている。それは何のためにかはっきり分らない。 ……この世の中で様々なものを見聞してきたが、このごろ分らないことが多い。
 まず世は皇室ブームである。それは以前の(といっても私ははっきり知らないのだが)天皇制へのアコガレではないように思われる。 日本になぜ天皇制が必要か。……数年前自衛隊の特車が税金車といわれたごとく、彼ら天皇一族も公然たる税金使用者なのである。 しかも彼らは非生産的だ。{私はよく非生産的というコトバを使う。}
 ……戦後天皇一家は人間世界に近づいたといって喜んでいる人種がかなりある。彼は何も進んで人間に近づいたり神になったりするのではない。 動かずにいたって[いても]、彼のまわりのものに、彼らの利益のために、利用されるにすぎないのだ。大多数の国民は、それをごまかされているだけである。……」

 それから、日記はまた何も書かれていない。当時、入試が一年後にせまっていると知りながら、計画家ばかりに終始して実行しなかったのだろう。
 私はいつのころからか、『気づいているものほど、不満が多いものだ』という説をもつようになった。 つまり、現にあるものを、無条件に承認することができず、価値を判断してから、承認なりをする。 すると、必然的に認められないものが出て来るのだ。考えないで、やりすごすという態度をもっとも軽蔑するのだ。

 三月十九日から五回ほど、また英文が続く。
 3/19「私はどんなことがあっても外語に入らねばならない。もしそうならなければ国家の損失である。」 ――だれかが、これ位の意気込みが必要だといったのである。
 「私は変なことをする。変わった男だ。今までダレも見たことがないかもしれない。」
 「私はただ私の道を歩むだけである。」

 3/20「父来る。少し話して、」――この日は、ミスHの誕生日である。 彼女は私に踊りを見せると約束したが、ちょうど、このころに本衣装の会があるということであったが、私は行くのがオックウであったし、 音信不通でもあったので、ダメになっている。私は未だに彼女のオドリを見ていないのである。

 3/22――この日も英文で書いてあるのだが、判読出来ない程である。今では何のことか読む気力もない。

 3/25――続いてワケの分らないことが記されている。

 3/28――このころ、私はRと色々なことについて、勉強するのがいやなものだから、手紙を交換している。 非常にはげしいやりとりで、〒屋(ゆうびんや)もたまげたろうが、結構楽しかった。

 ――ここで、偶然にも、遠敷小学校の同級生(ミスK)が出てくるのだが、私は軽率にも手紙を書いて、 大いに恥をかいたものであり、実につまらないことをやったものである。

 ――また、]が豊橋工校に合格して、自衛隊に行かなくてうれしいということが記されている。{私は自衛隊には反対である。}

 受験勉強をしていたはずの最後の春休みも、ついに手つかずで過ぎてしまい、いつもと同じ経過をたどってしまったのだ。
 そして、全くとっ拍子もない宣言をやっている。当時の私としては、実に悲愴なものであったが、どうも仕方がなかった。
 そのころの私は、まだ社会主義的なネコのほうが好きであった。それは自然の成行きでもあった。それしか考えられなかったからだ。

 4/4「『これから、手紙はダレにも書かない』という趣旨の英文の宣言をした。日本語で「私は人の信用を失った。」
 「わが人生における一大転機なり……」――確かに、最後まで守っていたら、転機になっていたかも知れない。英文で、次のように記されている。
 “She was my first sweetheart, and she was Miss H, one of earliest friends.”

 少々、オ涙ものだったが、そうするより他に方法がなかった。ところが、七日ごろに全く予期せざるところから手紙が来たのである。 私は何度読んでも真意が分らなかった。とに角、うれしかったが、さりとて約束を破るわけにもいかず、私はそこでまた、大空想家になってしまったのだ。

 十日にハイキングに行こうと相談していたのだが、雨でながれたので、Mの家で二人でかねて、語り合うべく予定していた、 二十項目ばかりの問題を半日論じ合ったものである。
 4/11「余のつき合う友には色々なタイプがあるが、現在のところ満足すべき友は少ない。その一人がMである。 {現在では少しツイテイケナイような事である。} きのうは実に楽しい有意義な日であった。
 ――メッチェン(女性)論から政治・国際社会問題まで、わが生涯にこれほど意見が一致する友はなかった。 それはわれわれがある程度成長して単に遊ぶだけの友では満足できなくなったからであり、前者を仮の友としても後者は真の友でなければならない。 二人とも非アカデミックな方である。{私はこのようなもってまわった表現がスキだ。}

 ――続いて、わが女性論があるが、これは主に先日手紙をよこした人についてであるが、何分当時は空想家であったから、 そこに記したものは意義があったが、もはや現実を無視出来ない現在および将来においては意味がなくなるのが大部分であろうと思う。 だから、適当に取捨選択しよう。
 「いわゆる女性的なことや日常茶飯事のことをほとんど書かず、それとはおよそ無縁な問題ばかり提供して……」 「先に小生は移り気であるようだといったが、皆に平等に対するのが正しくて、いずれかにかたよるのは裏切り行為だろうか?  小生はそんなものに責任が持てない。……」
 ――これは、あることに関しての自己弁護である。たしかに、この日の日記をみると、裏切りと思えるふしがある。 「どうやら、××が××の××を左右するらしく思える……あのような態度をとるのは、本当に反抗したいからだろう。……」
 4/12「M君よ、やはり美しいものは美しいといおうではないか……」

 四月十四日から一週間、待望の修学旅行があった。われわれは、日中瀬戸内海をわたり別府に着き、その後バスに揺られて阿蘇や水前寺公園、 雲仙に渡って楽しく過ごし、汽車で南下して鹿児島、さらに青島に行き、二十日の朝大阪に帰って来たわけである。
 私は、中学の時よりもさらに立派な紀行文を書こうと思っていたのだが、ついに書くことができなかった。 あんまり気負い過ぎていたので、失敗してしまった。本当に残念であるが、時間的制約や精神的苦痛もあって、やめてしまった。 それ故、今では少しの記憶と、わずかの資料・写真でもってしか、思い出すことが出来なくなっている。 しかし、楽しかった。もう一度行ってみたいという気は依然ある。

 その後、ある夜、私は全く急にある所へ行きたくなって―勿論、目的ははっきりしていた―家を出たが、どうしてもタズネルということをせず、 それはそのまま終わってしまった。私はもうそれを口にしないことにしよう。

 旅行後、私はいつまでも浮かれた気分でいるわけに行かず、努めて受験勉強[+を]しようと試み、ある程度出来たのだが、 {このように書くのは、当時、私は本当に勉強していたからである。} クラス内はおよそ二カ月あまりというもの、旅行の、特に女性に関しての話題で、 静かになるということがなく、私など大いに迷惑したものである。
 私は何も感じなかったという程、マヌケで[+は]ないから時々思い出すこともあったが、彼らの例というか、下品すぎて私はついて行けなかった。 ついて行けないとは、つまりこちらの気分を悪くさせ、勉強の邪魔をするのである。 私は元来、人と歩調を合わすほど、都合のいい人間ではないが、気づいていながら、どうすることもできなかった。 彼らは単純で愛すべきなのだが、少々しつこかったのである。

 ところで私は、雲仙の新湯ホテルで事件?(R君とミスTTと私)を起した。私が直接したのではないが少なくとも関係していた。 そのことについて、私は自分で正しいと思ったことを忠告したのだが、事はそんなに大したことにはならなかったらしい。

 それの後日談として、五月二日付の私の日記には、大学ノート4ぺ一ジにわたって黒々と書かれてある。 私は事後処理に大変不満を持っていたから、そのように長く書いたのだが、結局「他人がどうであれ、余は余の進むべき道がある……」ということになる。
 これは、私が利己的だというのではなく、私は自分のことも満足に出来ないのに、他人を干渉するなという大前提を持っているからなので、 私は決して無責任ではないのだ。
 「……重ねていう、現在余に最も必要なことは、志望校に合格することだ。そのためには、男である前に、人間でなければならない。 {私はよくこういうことをいったものである。}
 ……余自らを甘やかすことは決してやってはならない。それは少しも利益にならないからだ。」

 このころから、数回私は空想家ぶりを発揮して、呼びかけをしているのだ。 しかし、私は苦い経験の後だけにそれは[ほど]強烈なものではなく、あたかも詩人がうたうように、楽しい落書きだった。 だから、後になってそれが到底不可能事だと知っても、大きな落胆とはならなかった。それは、私に貴重な体験となったのである。

 5/4――G君とスパニッシュ・バレーを見た。私は、物理の時間に彼と商談をしたのであるが、当時すでに物理などに興味はなく、 隣の彼といつもイタズラをしていた。物理・化学など一学期で終了したので、気分がよくなったが、物理の試験で大変ひどい点をとり、 最後まで不安の種だったことが記憶に残る。

 5/5「ジャン・ルイ・バローのハムレットをテレビで見る。よかった。」

 5/6「初の校内モギ[模擬]試験。国語・英語。かんばしからず。……ミスWのことが気にかかる。 ……余、宣言をしてから禁を犯したのは、旅行中に必要にせまられてやった一回だけ。 時々いやもっと多いかも知れないが、書きたくなる。……彼は手紙に関することをよくしゃべる。」
 「再び友の話にもどるが、余が以前にやった如く、ある事をするのにその理由をつけるということをやっている。 余は現在でもそれが正しいかどうかは分らない。」
 「モギは失敗した。全くおかしなことをしたようである。……余が大学へ行くのは『存在の理由』an excuse for being…を明らかにするためだ。」

 5/12「……あまりの自己の精神的な弱さを嘆かないわけに行かないのは、誠に残念なことです。 ……このごろ少し君のことを忘れていた。しかも勉強をさぼって忘れていたのですから、大変申訳ないのです。」

 5/13「満足とは……」

 5/14「A Tale of two cities by Chales Dickensは分からない単語がひんぱんに出て来て、なかなか進まない。これでは先が思いやられる。」

 5/16「余はもっと真面目にならなければならぬと思う。小人閑居して不善をなすべからず、である。 {私は常に気づいているのだ。} 特に悪の意識がなくても、それは真の正しい生き方ではない。 ……人間の価値は頭がよいだけではきまらない。これは真実だ。」――多分ネ。

 5/17「『やはらかに積れる雪に 熱てる頬を埋むるごとき 恋してみたし 啄木』(これはYが教えたのだ。) 大いに気に入った。……」

 5/19「昨日、特別奨学金申し込む。七千五百円」――勿論フラレタ。

 5/20「試験も後一日、今回も例にもれず、真面目にはやっていない。」

 5/21「特に書き記さねばならぬ程のことはない。またテレビを見てしまった。ラジオ講座を聞くため。」 {おもしろい理由だが、当時は安保騒ぎがひどかった。}

 5/27「自民党の警官導入安保強行採決はどう考えても腹が立ち、あれでも一国の首相なのかと、はがゆくなります。……」 ――他にいつものように、これこれをいつまでにやって、入試にはこういう態度で臨むということが、しきりに書いてある。 そして、「外大には入らねばならない」と。

 ――もはや活動していないのに、高2の部員が新聞発行を遅らせているので、節を曲げて論説を書いてやる。 うまくは書けなかったが、大して筆の力が衰えていないようで、うれしかった。{私は書くことが楽しみだ。}

 *高槻学園新聞(昭和35年6月6日付 第74号)より自筆の論説「認められる矛盾」を転載。(約1500字){必要にせまられて、走り書きせしものなり。}
 〈論説〉認められる矛盾―高校生とは奇妙な存在である。一方では大学入試に終われ、一方では就職あるいは第三の道と、それぞれの進路?がある。 後の二つは直接我々に関係しないので最初の部類について述べよう。
 我々も高校生の一員であり、一応第一の部類に属する。大てい[抵]の者は最も[もっとも]経費のかからない大学で、 もっとも有名な所をねらう(その目的は人によって千差万別とは思うが)。 しかも必然的に就職も、楽に一流の会社に入れる(彼の望む所はそこかもしれない)。
 現在我々のとっている学問の方法は、大学入試の為の手段と化し、ひいては、その卒業後にも影響する(中には教養のための学問と力説する貴重な存在の先生もいるが、 それをまともに聞いている生徒はいない)。
 だが、秀才が必らず[必ず]しも人格者であるとは限らないので、卑近な例で言えば、岸首相がそうで、何の為に東大を首席で出たのか分らない。 我々の中にも、岸首相のようなとまでは言わないが(人間が幼稚であり、かつ経験に乏しいのであるから当然)そんな人物が少なからずいるように思う。
 彼にとっては、現在の日本的資本主義社会に於て、いかにすれば自己が繁栄するかだけを考えればよいわけで、他人のことを考えるなど、 極言すれば、むしろ越権行為と見なすのかも知れない。
 目指す一流大学を目標に日夜学問?に励んでいる彼は、自己に適当かどうかの考慮をわずかにして、例えば、経済学部にしようとか、 法学部にしようとか、うまくいった場合の大学卒業後のことも考えて、一流どころに落ち着き、これまたうまく行けば重役位になろうという心算らしい。
 これは即ち、他人の犠牲の上に基づく自己満足あるいは繁栄の姿ではないか。 その彼が、中学時代位に“天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず”という、極めて明白なことを学び、かつ何を意味するかをも理解している。
 しかしそれだけでは何にもならないので空念仏に等しい。実行にうつす[さない]までも(なかなか困難なことなのだが)心構えだけでも持ち続けたいものである。
 くり返えすが、彼は一流大学に入り、首尾よく卒業し、また有名会社に入って安定した生活を得、きれいな奥さんでももらって、それで事足れり、 とするような、一般的で、現実的で、消極的な生き方を望んでいるように見える。
 確かに、これが実現すれば、彼と彼の周囲だけは、明るいとは言えないまでも暗くはないだろう。 それはMoney is everything.の世の中なのだから仕方がないとも言える。現代はそのような人を望んでいるのが本当かも知れない。
 彼は、経済学をやり、あるいは法律を研究し、しかも日本の現実は、どうであるかを究明しようとはしない。 それは彼の本来の方針に反するのかも知れない。
 最近の彼は、本を読みあるいは新聞を研究?し尽して、安保反対を盛んに唱える。 あれは、日本の支配者層の安全保障だと言うが、彼は安保には絶対反対するけれども、依然として経済学はやめない。
 そして所期の目標通り、大会社の重要なポストを望んでいる。彼は、知ってか知らでか、この様[よう]なジキル博士とハイド氏を平気でやってのける。 これが日本の現実ではないか。
 また彼の父兄は彼が進んで社会に尽す人物になるよりも、高給取りになることを望む。 しかも彼等は反自民党で、反安保で……いや彼等は政治に無関心で、その息子は父兄に極力忠実なのかも知れない。
 我々の周囲にはこういうのが沢山いる。それに対して君は何とも思わないだろうか。*

 5/28「学問をするために、手紙を書きもせずもらいもしなかったが、残念ながら肝心の学問もルスであった。」

 5/29「TとミスX(名前分からず)との関係やっと解決する。相手の父兄はfossil(頭が古い)だ。 また、ミスXがfaithful(忠実)だなんて、まるで犬と同じじゃないか。」(彼女は、何も理解しないのだ。)  「……ミスTについに返事を書く。実にいやなことだ。でも仕方がない。明日Sにわたそう。……」

 6/5――先月三十日に、ソフトボールをやっていて、Uを一発なぐってしまった。 私の方が正しいと思っているが、手を出したのは、何といっても不覚であった。 私はあやまる機会をにがしてしまったが、その後、仲なおって[りして]いるはず。天野貞祐の『生きゆく道』のことも書いてある。

 6/9「ああ何だか新紀元のような気がする。どうしてかは分らないが」 「……このように、結果に対して原因を明確化することは、天皇を元首からシンボルに転換した時の事情に通づ[ず]るところがあるのではないかと勝手に想像する。」 「この頃Sの態度がおかしい。」――ガス・バール[バスガール]に関してのことらしい。「A rolling stone gathers no moss.」とある。
 「昨日、聞き捨てならぬ事を耳にしたので、これからの態度を正しくとろうと思うので、先日までの日記のぺ一ジを封じた。」 ――これは、何のことだか今からでは分らない。授業中でのことだろうか。
 「余のあれ以来の熱烈なる筆致を止めねばならぬと考えたので。すべてを完全に白紙にもどすことにした。 つまり来年の三月は、二月の次で、四月の前の月に相違ないということである。」

 6/20「本日は余の18回目の誕生日。別にうれしくも何ともない。姉が急に入院して今日、父が茨木の家に来たが、全く異常事でこまる。 母も具合が悪いという。余は手紙を出すべきか。また外部では、安保問題が取りざたされ、余の心は完全に空虚で、たい[退]廃的になってしまった。 {当時の私はどうなることかと、勉強など手につかなかった。}

 どうしても勉強に身が入らない。それに昨日のモギのショックと合わせて、全く勉強しようという気が起らない。 ――全く予期せざる不幸が重なって、私の心は大いに動揺した。このあたりから、私は少し心的変化を受けたようである。

 6/28「まさに世紀末的なとは、こういう場合をいうのではなかろうか。とにかく、個人と個人の問題である。 だが、人生において最初のしかも最大の痛手という印象が残るのはどう考えてもありがたくないものである。事態はまさに深酷[刻]である。

 「……AとBが、Cにとって同等の働きをするものと仮定する。AにもBにも長所短所があり、それは決して同類ではない。 A、BがCに与える影響は勿論違う。二者択一の場合、Cはいずれを選んでもよいわけであるが、選択権は当然AにもBにもある。 余は一体なにをいわんとしているのか?」

 「……昨年八月から九月にかけての移行は、明らかに、人をごまかしたのではなかったか。 また、この四月初旬のことも、まことに浅はかな行動であった。」――このころ、特に何もないだけに、おかしなことを考えていたらしい、 私は、そんなにあっさりと物事を無視することができないのである。

 私の日記の二冊目は、ここで終わっている。
 その後、推量される限りでは、休暇を忍頂寺のお寺で、T、Oとともに勉強しようと試みたが失敗に終り、他に期末考査を順調に受けたぐらいで、 休暇に入ったのであろう。
 では、この後、忍頂寺でのことや、八月の非常に楽しかった想い出、それに二学期中の体育祭や、新校舎、モギ試験に関して、 また選択授業、友が急にできたことなど、また冬休みに、無軌道ぶりを発揮したことを、一先ず記そう。
 その後は、一月から、外語にふられるまでを述べてみよう。

 忍頂寺での二週間の生活。学力も趣味もおよそ共通点はないが、とに角、親友である三人が、休暇中暑さをさけて、 大いに勉強しようと意気込んで、上[登]ったのであるが、性格や考え方の違いによって、主に私の未熟さによって、 それ以上共同生活することが不可能となったので、私が下山した。
 たしかに、不心得の信者たちや、ノンキな大学生などの邪魔がなかったわけではないが、結果的には失敗しても、私にはよい教訓になった。 そして、和解して下山したのであるから、今では何もわだかまりはない。
 山の上(約500米)では涼しかったが、大して学問をせずだが、下界を離れただけでも愉快であった。
 それから、ケガの功名のような結果から、私には画期的な、楽しく、しかも悲しませるような、太陽の光線がふりそそぐ一週間が続く。

 私は入院中の母を見舞うために、新所原へ帰ったのだが、私はもっぱら、『手紙を受け取ったとき、約束を破ったと思った』と話すミスWと過ごした。 まるで、他人から見ればうらやましい限りだと思うが、私はそういうことは予想もせず、[しなかった。] 何とすばらしいと何度か思ったほどの経験をしたのである。私はすべてが始めての経験であり、胸の高なりを禁じ得なかったが、また得意顔でもあった。 しかし彼女は平然と当り前というような顔付きで、私は一人ドギマギするのだった。

 あの事実を知らされたとき、私は何か高いところから落ちるような気がしたが、大したことにはならなかった。 料理のことや、ボート乗りは楽しく思い出される。私は、彼女に会うまで一人前の空想家であったが、会っている時や別れて後、 一度は破れた風船も、前より大きくなってフーワリフーワリと青空に浮いているのだった。
 そのときのことについて、もっと記すべきであるが、いい加減にやめておこう。最後に一つ、あのボート内における、最大の笑顔が忘れられない。
 別れてからは、茨木に帰ってからも、学問とは完全に縁が切れて、彼女が特例を設けてくれたので、河度か禁を犯した。 どういう内容かは、手紙を読めば分るだろうが、十月ごろ、ひどく傾いてしまって、オコラレたことがある。また後で述べよう。

 二学期、われわれは、学問が第一であるから、体育祭の行事など、一切当日限りにしようという申し合わせのようなものがあったが、 結局、大勢に流されて、ヤグラを組んだり、ノボリを立てたり。
 私は、ウヌボレと思われるかも知れないが、級長の重要な私設相談役のようなもので、彼はよく私に相談に来る。 この関係は高1のときから続いている。
 しかし、学外では何ら関係はない。それかあらぬか、私はわが運動会史上最初の?四階建てのヤグラを組ませたものである。
 競技の方は、わがクラスは圧倒的に強く、優勝が決定した後の、呼び物の八百リレーには、レギュラーメンバーを変えて、 ベストメンバーと称して、下級生でもよく知っている、最も鈍足の大きな連中を走らせ、見物人を喜ばせたものである。{私はショウがスキだった。}
 それに、仮装行列には、当時ブームだった、ダッコチャンで、二十数名が真っ黒になって登場、文句なく優勝したが、Mが負傷してしまった。 私は、また四百と千五百に出たが、前者で二位にとどまった。

 新校舎には、十一月七日ごろ入った。まずまずといったところだが、照明設備がないのは何としても前近代的だ。 わがクラスはガラスを一枚もわらなかったが、ソウジをしていないと何回もお目玉をちょうだいした。 私などは、選択などの関係もあって、二学期は一度もソウジをしなかった。 われわれ三年生は三階であったが、教室は二階が一番楽なようである。WCはよかった。 中には、WCへ行くのが楽しみだといったヤツもいた。わずか数カ月しか入っておれなかったのは残念であるが、さりとて、落第はいやだった。

 モギ試験。校内では三回、校外では十回受けたか、特に英語だけによい点をとれば安心できたが、第一回に受けた啓学会がもっともよく、 最後のYMCAのが最下点とは、何か暗示的であった。 私は、そのことは気にしないようにと努めたが、やはり後半になって英語のカンや[が鈍り、]忘れることが多くなって、 結局、外語にふられたのも、英語が致命傷ではなかったかと思う。それで二度と失敗せぬように、今度は万全のそなえをするつもりである。

 ナダ[灘]高校まで研究社モギを受けに行ったときは、ユカイだった。その日、チャップリンの『独裁者』を頭のいたくなる程見ていた。 旺文社モギでいい成績をとったときには、小気味がよかった。{私は旺文社がきらいだからだ} 国語は大して熱を入れていなく、いい点はとれなかったが、今年はどうしても力を入れねばならない。

 選択授業。私など最も少ない時間の組だった。三時間目から出て来たり、二時間で帰ったり、おかげでソウジをせずによかったが、 私の利益になったのは、結局それだけだったとは実に情けない話である。

 交友論。選択授業の副産物かも知れないが、今までそんなに親しくなかったQ君とずっと親密になった、 他にもいるが、彼など典型的な部類である。しかし、新校舎に移ると、隣りのクラスに行くことがあまりなく、 かえってそれまでの友だちと話す機会が少なくなったのもたしかである。 それでも、Zと私などはよく隣りの教室へ行って、あばれたものである、友達論を書きたいが……。

 冬休み。新所原へ帰るつもりはなかったのであるが、母の要請により、またミスWに会えると思うと、急に帰ってしまった。 {私は大変不安であったが……}一晩もとまらないという予定であったが、私の体の具合が悪かったことや、 もう少しゆっくりしていったらいいというので、二日ほどいた。 その間、私は彼女と色々なことを、勿論下らないこともあっただろうが、夜遅くまでコタツにあたりながら語り合ったものである。 夏とこの時と、こういう機会は二度とないように思われた。それは制限があったからだ。 第三回の同窓会は彼女が主催したが、私は勿論出席しなかった。当日、フォークダンスがあるというのだからネ。

 正月ごろは、すでに受験準備の完了間近でなければならないはずであるが、生来のん気で、なまけものであるから、 たいして出来ていなかったにもかかわらず、気にもならなかった。 うかるのではないかという気が支配的であったことも否定できない。が、結果はふられてしまった。

 一月は、二十日も出席せず、受験手続きのあわただしさで、すぐに過ぎてしまった。
 二月、受験休み。いつものように大して熱が入らず、岐阜まで遊びに行って、帰りの汽車で、Nに会い一晩とまらせ、 ミスWと私の関係について説明する。彼は就職である。

 Tが同志社に合格して、元気に報告にきたのは二十四日。次の日は卒業式で、私も無事卒業できた。 ただし最後の成績順位が大変悪く、これはショックだった。そしてこれも気にしないように心掛けた。[初代吉川昇校長、最後の卒業式。]

 三月、私の受験日は二十二日で、他の多くのものが、すでに三日に受験して、もうノンビリ暮らしていると思うと、 一人いつまでも勉強するということが、バカらしくなって、大してやらなかった。これも落ちた原因になるかも知れない。 そして、ミスWから何げなく来たハガキが、まるで私をバカにしているようで、ひどく腹が立ったものである。

 十九日、予定通り上京。T、Qに見送られる。それから、私の川口での生活が始まるのであるが、大変なものであった。 そこは日の丸様々で、私はそれに反対の考え方だが、彼らの悪口には本当に腹が立ったけれども、私は終始だまっていた。 実に下らないことであった。そのためかどうか知らぬが、私は連日テレビを見ていて、そこで始めてみるという番組も多かった。
 彼らの趣味は私と相容れないので、私は面白くもないものばかりを、他に何もする気がなかったので、見ていた。 十九日から、二十九日まで私は、東大や外語に行って、受験。

 バカでっかい東大にカンタン[感嘆]、二十七日一次発表の後、銀ブラをしようと有楽町まで来たところ、見たい映画『ペペ』をやっていたので、トビ込む。 その結果、私は落ちてしまった。

 私は、勿論外語に現役でパスしようと、オリオンや何かで、勉強?して来た。しかし、結果は現にすべっている。 私はそのことに対して悲しまない。よくふりかえってみると、私には実力が大してついていないので、当然の結果だと思う。 私は、落第通知のハガキの中でこういうことを述べて、まるでアキラメのよい人間のように見せかけているが、本心はそうではない。
 私は、落ちたことによって、他では得られないものを得ようと努力するだろう。 私はたしかにスベッたけれども、それを有効に利用するならば、決して私は負けたことにはならないのだ。 しかし、努力は並大ていのものではないと思う。

 最後に、一九五八年一月から一九六一年三月までの、この私の記録をこのように改めて作ろうと思ったのは、 どこかのぺ一ジにも述べているように、私は過去の私の欠点をよく承知することによって、 これからの人生―今は一つの転機であるが―を有意義に過ごそうと思うからである。

 私はやろうと思うことは出来ないことはないと思う。私はもう少し程度のひくい大学を受けていたら、パスしたかも知れない。 そうすれば、私の三年間ないし六年間は、とに角何かやって成功したと考えられるだろう。しかし、それはゴマカシではないか。 そう思った私は、あえて外語だけしか受けなかった。 外語には、生半可な実力では通らないということを悟ったわけであるが、 私がもう一年やろうというのは、もっと実力を真なるものにしようと思うからである。
 だから、単に大学生になった者に対し、劣等感も抱いていない。

 そして、私が更に悟った重要なことは、もう二度と日記をこのように書きなおす必要のないように記していこうということである。
 私は、そこに意義を見いだした。
                  <完>
                  1961.4.13 K.Hashimoto

*お終いの扉に―私は事情があって、推敲をしなかったので、多少読みづらいところがあると思うが、また始めから意図してボカしたところもかなりある。KENGO Apr.14.61
*挟んであった便箋に―これは、全く私有のものであるから、他人に見せると、やっかいなことが起るおそれがあるので、なるべく他人に見せないようにしてほしい。K.HASHIMOTO Apr.14.61
*さらに1行あけて―「また、いつか返して下さい。」とある。誰かに、貸し出していたようだ。

<編集にあたって>
 大部分は、『A HUMAN DOCUMENT』の再録であるが、参考資料的に、学園新聞の記事や朝日ジャーナル('92年休刊)へのボツ原稿を載せた。 いずれも当時の私の“執筆活動”の記録となるからで、他意はない。               1993/05/01国領にて 橋本健午


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