9/1「第一学期考査終了以来、休暇中もユウウツな日の連続であったが、今日学校へ行って安心した。
何を安心したかというと不成績のため閣[格]下げされるかと気になっていたからであるが、どうやら切りぬけた。」
――ここで、志望校の変更がある。つまり、K大の理科は当然あきらめたのであるが、今より一つ以前の阪外R語になっている。
「省みれば、休暇中にどんな勉強をしたかというと、英文法の参考書を一冊読破、暗記すべきところは暗記したが、まだ不充分なので、
今度は山(ヤマ)貞(テイ)の新自習英文典を行う[に挑戦する。]。先ず、動詞からである。」
「三畳を一ヘヤ[ひと部屋]建増ししたので、その間二〇日間ばかり勉強できなかったのは残念である。」
≪注記:上記文中に出てくる“山(ヤマ)貞(テイ)の新自習英文典”は、今でも手元にある。“愛読書”で赤線がいっぱい引いてある。
この時代のもので唯一、手放せなかった。ところで今日、新聞の整理をしていて、こんな記事を見つけた(東京新聞・読書欄2010・04・04)。
「学ぶ本」―懐かしの参考書―かつての教科書や参考書が注目を集めるという現象も起きている。
…刊行時の参考書を復刊したケースとしては「ヤマテイ」の愛称で親しまれた山崎貞『新々英文解釈研究』『新自修英文典』と、
毛利可信『新自修英作文』(いずれも研究社)がある。
担当者によれば「参考書としては骨の折れるタイプですが、かつての青春体験を思い返す意味でもう一度読んでみようという読者が多い」と。
同書には都営バス回数乗車券(20円:タテ23ミリ×ヨコ49ミリ)が6枚挟まっている。
多分、大学へ急ぐときなどに使った残りではないか(高田馬場⇔早大正門)。たしかに“青春体験を思い返す”ものであった。≫
――ここでまた、少し年上の女性が現れてくるのだ。誠によい声の持ち主だそうである。今もいるらしいが、すべて私には無関係の女性ばかりであった。
いつの日付か知らないが、ソ連へ行きたいことが書いてある。これは、阪外大志望の原因[理由]ともなっているのだろう。 現在では、さらに、外語志望と変わったのは、数学がないというのが最大の理由であろうが、外にもっと大きな後になってよかったと思える理由もたくさんある。 その一つに、外語は東大の教養学科とあまり差がないということである。
さらに二か月ほど、何も書かれておらず……、
10/28「何のために生きているのかわからない。運動会・試験と追われ、またたく間に時間が過ぎてしまった。
何といいがたい空虚さであるか。本当に小生の前には無しかない、本当に無である。何かマヒ状態であるかのようである。」
「テニスをやめることにした。理由は色々ある。第一にもう面白くないこと、第二に勉強がはかどらないこと、第三に交友関係のこと。
この第三は、今まで一番親しくしていたYと仲が悪くなったことだ。今では顔を合わせても話など絶対にしない。
いつからそうなったかというと、一学期後の夏休みの講習の時からだと思う。私の判断する限り、相手の方が悪いと信ずるが、真相はわからない。
一度はよりをもどしたのであるが、新学期になってからYの方からだまってしまったのである。
『君子の交わりは淡きこと水の如く、小人の交わりは甘きこと醴(あまざけ)の如し』というが、まさに私たちのそれは小人のものだった。
今後もつき合わんことになろう。」――当時はこのように書いているが、私は、何度仲なおりしようと思ったことか、
しかし、依然としてチャンスなく、私はそれをはたしていない。また仲なおりできるかどうかも分らないのだ。
私の、一九五八年の日記は、ここで終っている。
いい年になるだろうと思っていたが、新聞部で楽しかったことを除けば、いやなことばかり。
実を言えば、私は更に、二学期末、Sとケンカをしてしまったのだ。その時の理由の方が、はっきりしていたのだろうが、今では覚えていない。
およそ一カ月というもの同じ電車に乗りながら口きかずであったが、幸い年賀状で仲なおりが出来て、それ以後今日まで親交は続いている。
忘れていたが、休育祭の仮装行列で[クラスが]優勝したこと、私自身、千五百と四百に一位、二位を占め10点かせいだことなどもいい記憶として残っている。
次にこれは、恥かしくて公表できなかったが、ある日を記念して私が書いた『わが一年四組の回顧』を転載してみよう。
{読んで分かるように、一年でお別れするので、最後にハイキングに行ったのである。}
今は昔、竹取の翁といふ者ありけり、かのダライ・ラマが何々とかの化身なら、わがS教師は、竹取られの竹の化身と思はれり。
わが愛する師は、かくの如くにして、やがて名より面影は推しはからるれ。{私は当時もふざけるのがトクイだった。}
ころは四月、春はあけぼの。わが一年四組はどうでもA(エー)クラスというわけで編成され、担任は過去三カ年のオジイチャンと別れを告げ、
この若き教師になった。いかに碌でなしでも、若い方がよいので、人気があるのは当然の成行と思われる。
これで修学旅行は楽しみだとはるかかなたのことを考えていたのであるが、残念ながら一年間でお別れとはオシャカ様でも御存じなかったろう。
だが、その後が悪い。あの有名なガサというのだ。ガマ・ガサ・カッチャン・モグラとよくそろえたものだ。
五月。そろそろ教師となれたころ。つまり威信がなくなったころと思う。教師は、悩みがあったら相談しに来いという。
しかしダレも行かなかったのではないかと思う。それはダレも悩やむことがなく、またはもうすでに終ったのか、それとも恥かしくて行かなかったのか、
あるいは教師を信用しないのか、どれかの理由によって、行かなかったらしい。
ある君(キミ)がいった。オレは初恋を三回したと。『弱き者よ、汝の名は男なり』とシェイクスピアがいったとか、ついでデカルトもおっしゃった。
『汝、女を相手にするなかれ。女性を相手にすべし』と。{デカルトが、こんなことを言ったかどうかは知らない。}われ思う、故にわれあり。
六月、新聞部主催・第一回校内ソフトボール大会に優勝。この輝しき金字塔はクラス全体の団結が大きくものをいった結果だろう。
賞状をもらってからは、もっとふやすことを考えてばかり。そしてあのころから授業を効果的に利用すること、早くいえばサボること、
教師とムダ話をすることが始まったらしい。{科目の性質上、ほとんど授業にはならなかった。}実にあの一事は画期的な事件であった。
しかし、何にしても、自分一人では生きて行けないということを、あの優勝によってもたらされた教訓は社会生活に大いに役立つし、
万[満]更遊ぶことも無益ではないということである。ただ、時々ヒマを見ては勉強することも必要である。
学校とはいかにして授業をサボり、いかにして試験にいい成績を取るかを教えるところだ。
そして、目的を達成するには手段を選ばずというオマケまでついてくる。つまり、カンニングで、これは頭の使いようである。
{私はそれを弁護しているのではない。}幸い、わがクラスから一人の不成功者もでなかったのは、やはり頭がいいせいに違いない。
七月。よく教師からセンスはないかとお声がかかる。他の教師なら、やせガマンをしてまでも使わせないのに、
この教師はこ[そ]んなことをいうのはナンセンスだとはねつける。本当にどうでも……男だ。
試験の話はお互いにいやなものだ。さる人日く、『試験は生徒にとっても教師にとってもいやなものだ。
だのに試験をやらねばならないところに現代の矛盾がある。』と。{私もいいたい。}
この矛盾を解決するのが、われわれの仕事だ。そして、これらの仕事をするには、何らかの試験を突破しなければならない、
ローマは一日にして成らず{Rome was not built in a day.}ということも、やはり真である。
八月。十日以外は、教室には、ホコリをかぶった主(アルジ)なき机と優勝額があるばかり。それでも月謝はちゃんと取られてる[ている]。
九月、新学期。クラス半分くらい入れ替え。日当たりの悪い方[ほう]に、遠慮してかもと三組の新顔がかたまった。
とはいうものの、学年末では、ベストテンのしんがりにランクされている者もいるというから、隅に置けない。
全然知らない間柄だったが、いつのまにか融合してしまった。
級長の選挙が見物だった。一般には現職のWが確実となっていたが、投票数秒前までの選挙運動が効を奏して、
革新系の新興宗教火葬(かそう)学会の推すPが見事当選。あの時の新級長の怒りようは傑作だった。
しかし、彼の政治も案外立派なものだった。時には暴力政治、時には専制、時には民主政治、時にはサボタージュ。
その多彩をきわめること前代未聞。第一の仕事があの成功を収めた体育祭。ダレス長官のように精力的に東奔西走……。
まだガンの形跡は見当らないが、それがガンかも知れない。
十月、体育祭。ぜひ優勝額を二つ飾ろうと大いにハリ切った。これには大分授業時間をさいてもらったものである。
仮装行列に何をするとか、応援練習など。結果は、仮装一位と、総合二位の二つの賞状を獲得した。
教師の理解がなかったら、あれだけのことは出来なかっただろう。それに級長の指揮も。
もっとも、教師としては、その方が授業よりも楽だったかも知れない。[この年、私は千五百米(高校の部A)で1位に(5分12秒5)]
*高槻学園新聞(昭和33年11月26日付体育祭特集号「盛大に第12回体育祭挙行さる」より自筆記事の転載。
2ぺ一ジものだが、表は成績順位、アンケートなど、裏はスナップ写真の特集。{余の大体手をつけしものなり。}と余白にある)
『総評 成功したクラス対抗 今年は、先ず成功のうちに終ったようであるが、父兄その他のアンケートに見られるように、
不備な点もなかったわけではない。
各クラスを一単位として、総合得点を争う新形式の組分けはチームワークの取れる点では、この上もないものである。
高校の部では、IIIノ3が独り舞台で、中学の部ではIIIノ1がそれぞれ優勝したのも、人材がそろっていたばかりでなく、団結力の勝利であろう。
仮装行列は、今年から得点に入り、賞状、賞品もつくとあって、各組とも張り切っていたようである。
しかし、余り時間が短くて、次から次へと出て来たのでは、お客さんも見づらかろうし、やる方も落ちつかない。
折角努力して作ったものを直ぐ消滅させてしまうのは、惜しい気がする。
本校の体育祭の特色は“仮装行列にあり”といえる位のものを作ってもよいのではないだろうか。
応援がやかましかったことやマイクの扱いなど、お客さんには迷惑だったらしい。
またプラカードの絵がひどかったということであるが、我々生徒には何ともなくとも、第三者、特に父兄から見た時に、
余り良いものではなかったのであろうから、製作及び関係者は、これらの点を大いに改め、来年度はより健全な体育祭にしたいものである。』*
十一月。体育館完成。残念ながら第一番に使うことは出来なかった。チッポケな管理人がケチなのでだめだ。 わずか20センチぐらいしか高くないくせに、{これは教壇の高さをいう。}いばってばかりいる。わが校の唯一の新築ではあるが。
皇太子も一人前に結婚するんだってさ。クラス内でも話題になったようだが、皇太子の方があかんという大方の意見。{当時のブーム}
<参考〉*高槻学園新聞(昭和33年12月5日付第68号記事)海外の友達と文通しようロータリークラブがお世話。
新聞部では海外文通を希望する生徒を受け付けています。
これは去る十一月二十日に開かれた“ロータリークラブ”に出席の際、ロータリーの国際親善へのサービスの一つとして依頼されたもの
[その日、高槻ロータリークラブの昼食会に招かれた。]*
十二月。試験、寒い、休み。
<参考>*高槻学園新聞(昭和33年12月5日付第68号記事)
“キリスト”本校に入る ギ協会々員ら来校十月二十日(見出し)
日本国際ギデオン協会の横見幹氏らが、来校しバイブル(聖書)を希望者に手渡された。
わが校にも、わが校の生徒にも殆ど縁のないキリスト教であるが、聖書の話や、自分の体験談、その文学的価値等々を話された。
ギデオン協会とは、国際的な無料奉仕団体であるが、直接キリスト教にたづ[ず]さわる人々は関係していないようである。
当日集まった希望者およそ百五十名、中には冷やかし?も混っていたかも知[し]れないが、“聖書は教養としてよい”
“英和対象になっているので勉強になる”とか、なかなかの好評であった。……*
一月。夜行軍に行くかどうか問題になったが、高2の有志が決行しただけだった。{私も行きたかった。}
二月。マラソン。豆タンク「車に乗るな」生徒「その手に乗るな」豆「こらツ、調子に乗るな」生徒「チェッ、50点しかあらへん」
{私はこのとき、三位になった。しかし、不正があって、賞状・賞品は誰ももらえなかった。}
社会とキカ[幾何]両先生の講義終了。少々しんみり、少々やれやれ、少々わからん。
しかし、キカは空間図形をやるそうだとモグラ先生の話。それから、数IIの教科書買ったやつはアホだと、これもモグラ先生の話。
三月。試験、終業式、サヨナラ。
=内容のアヤマリは、エイプリル・フールのため特に御容赦願いたい。(終) 59.Mar.31記ス
引き続いて一九五九年のことも記そう。
1/27「一九五九年最初の日記である。思い立ってから一年余、その間大分なまけたことは事実である。
……今年は小生にとって余りよい年ではないと思っている。なぜかというと、四日には汽車の切符を落して六百円の損をしたりなどでケチばかりついている。
だから用心をしなければならないと思う。」{これは私の生まれて始めての経験だった。}
「忘れてならない事は、さる二日に小学校の同窓会を一応やったことである。参加者が30名で約半分の出席率であったが、
なんとか成功したものと思っている。同窓会とはどんなものか何にも知らないので見当がつかず、余り充実したものにならなかったのは残念に思う。
それで後味は大変悪いのである。」{それでも、私はみんながどんなに変っているかを見るのに興昧があった。}
――さらに当日欠席したある女性と文通がしたいとあるが、二、三回で終っている。
1/30――すでに阪外志望から外語になっている。しかしR語にかわりはない。もっと英語をマスターする必要があると色々対策を立ててやっていたようだ。
が、それも長続きしなかったらしい。A新聞に入りたいのは今でもかわりはないが、来年外語またはW大に入れなかったら、あきらめねばならない。
{私はもう一度外語をやってみる。}
奥さんはソヴィエト婦人ときめていたらしいが、今はそういう事に考えをめぐらす時ではない。
{どうしてソ連がスキになったかは自分にも分らない。私は決して純粋の左翼ではないのだ。}――
「小生の願うのは、世界永久平和である。小生は自然科学の部門では人類に貢献すべく頭脳を持っていないので、
それだけに人間的に生きたいのである。共産主義は資本主義よりよい。一人だけの幸福は何のためにもならない。……」
2/4−−新しき文通の友を得るとある。M嬢は、ある高校の新聞部員である。一つ年上で、今はどうしているかは知らない。 私は、全く利己的に、不満は何もなかったのだが、ただ会ったことがないというだけで、ある日縁を切ってしまった。 色々新聞に関して意見の交換をしたが、{タシカに利益はあった。}今ではほとんど覚えていない。
――ここで始めて、親愛なるミスWが登上[場]している。しかし、あとで述べると思うが、この時は、私にとってまだ決定的ではない。
そこにはこんなことが書いてある。「先日はやはり同級のミスWから依頼文を受けとったが、{何を依頼されたのか、オボエテいない。}
なかなか字がうまい。顔もきれいなのだから、才色兼備とでもいうのであろうか。
彼女は先の同窓会について書いているが、われわれの手伝いをしてくれるといっている。ありがたいものだ。
彼女はわれわれ同窓生の女性ナンバー・ワンである……」{私には少し誇りであった。}
2/13「昨年と同じ日の今日、校内マラソン大会があった。小生は高校の部で走ったのであるが、三位に終った。 一、二位は高二である。全クラスの期待にそえなかったのは残念であるが、力の限界だからしようがない。 しかし来年は優勝してみせる。マイSMを喜こばしたいから……」――正直のところ、「マイSM」とは何のことか分らない。
3/15「小生、積極的中立に志した。理由はこれからの国際平和の実現のためには、不偏不党の精神でなければならないと思ったからだ。 共産主義社会でも資本主義社会でも平和を願っているというが、一方に偏することはよくないと考える。 しかし、全人類が平和に平等に生存できるということは大事だと思う。 スパルタのように戦争のために体力をつくるというのではなく、また平和目的のために核実験をするのでなく、 きわめて自然に行われるのが当前[然]だと思う、それ故積極[+的]中立の立場をとるためにはどうしたらよいか、 今後研究を続けたいと思う――程度の差こそあれ、今もこの考えに近いだろう。{積極的中立ってまだ分かんないのである。}
「どうも女性は外面的な方ばかり発達して内部、特に頭の方がだめだ。……{大部分の女性がそうだというのである}
――ロシア語志望の目的も書いてある。しかしこれはあまりいただけない。
また、30才までにある目的が達せられたら幸いだということが記されている。それも外語に入らねば、だめであろう。
3/29――もう書くのがいやになるほど、例の本格的云々……が書いてある。しかもまたしても達成していないのだ。
この前後のことは、何も記されていないし、また特に記憶もない。何をしていたのか、自分にも分らない程、まあ平凡な日々だったのかも知れない。
<参考>*『朝日ジャーナル』編集者への手紙欄への投稿、5月13日付同編集部よりハガキ「誌面の余白にも限りがあり……」ボツとなったもの。(原稿用紙2枚半)
四月十日のめでたき日はもう済んだが、どうもすっきりしない事がある。私は二人の結婚に対しては何の異議もない。
それが両性の合意に基づいた、正当なものであると信ずるからである。
しかし、このめでたいと言われる『事件』に便乗して、世はまさにブームを作り、今でも余波があるようだ。その一つ、内閣が二人に百万円を贈った。
当の二人は、“子供の為に"と、約半分を両人の希望通り児童福祉の方面にまわすことになったそうだが、その、少しは申訳ないという気持ちは分らないわけでもない。
しかし、現状ではそればかりの金額で満足な施設なりができるものではない。それに内閣が、結局は国民の血税であるものを、
ただ「特別」の結婚と言うだけで、無闇に使うのはどうかと思う。現天皇が「人間」になってから、十数年も経過しているのに、
どうも時代が逆行しているようだ。
また皇太子が結婚したからと言って、国民生活には何のプラスにもならない。あのようなゼイタクな式を上げられるものは、我々のまわりにはそう多くはいない。
新しき人生の門出は誰にとっても大事であるのは同じことである。そのような贈物ができる余裕があるなら、なぜ他の人々に対しても、同じようにしてやらないのだろうか。
選挙権のない皇室に対して、人気取り政策?をする必要もなかろうと思うのである。こんなになっては[ことでは]政治の腐敗も免れないのではなかろうか。
児童福祉に対しても、「英雄」を生んだ聖心女子大が、少し援助をしたそうだが、我々青少年の問題は今日に始まったことではない。
随分前から問題とされているのに、それだけの援助ができるのなち、何故もっと早くしなかったのだろうか。
私が考えるに、こういう事件なくしては、効果が上がらないという、さもしい、これも人気取り的な考えがあるからだと思う。
恩恵を受ける側にしても、真心のこもったもの程有りがたいものはないのである、世の人々が、これ位のことに気付かないはずがなかろう。
大阪府茨木市***** 橋本健午(高校2年・16才)*
≪参考: 「ああ、金婚式…」≫
しかし、受験勉強をしようとして、一向にはかどらず苦しんでいただろうことや、新聞部でガヤガヤとやって、
部長と何回かケンカをしただろうことも容易に推察できる。{主流派はいつも部長一人なのだ。}
いつものように、不真面目に勉強もせず、適当に試験を受けて平凡に休暇に入ったことだろう。
それでも、八月には小浜の神宮寺に八年ぶりかで帰れるという楽しき予定があっただけに、いつもと違った気分であっただろう、
今でも手紙を交換しているが、S君に連絡しただけで他の友達は何も知らせていなかった。
その時は、亡兄の墓立[建]で、一家総出で行くことになっていたが、私はそんなことに大して興味もなかった。
{どういうことか知らなかったからである。}
友達に会えるということの方がずっとうれしかった。S君の家にほとんど泊まったが、他に三人も来てくれて、実に楽しくなつかしく過ごしたものだった。
そして全く忘れてしまっていたミスHに再会したのだ。これが最大のよろこびであったことはいうまでもない。
彼女が私に最初の影響を与えた人であるが、{影キョウといっても、大ゲサに考える必要はない。}
もっとも初期の友だちであるだけに、当然のことといえよう。
しかし、運命とは皮肉なもので、およそ半年ほどでまた元の相知らぬ状態にかえったのであるから、理由が分らないだけに不可解なことであった。
私は彼女について、知っている限りのことは書けないことはないのだが、あんまり歓迎すべきことではないのでやめておこう。
{つまり、書きたくないのである。}
ただ、八月から、正月にかけて案外楽しく過ごせたのは、たった一度会っただけでも、親近感がすぐにわく程であるから、
友とはありがたいものである。{少しイミが分りかねる}
冬休みには、新所原に帰り、二回目の同窓会の準備に忙しかったが、前述のミスWとはさらに親しくなり、 会の後、少し話すことができたのだが、私はその時、そういう経験は始めてで、たまらなく感ぜられたものである。 私は夢心地のようであった。彼女が後で語るように、その時、私たちが友だちとしてつき合い始めたのである。
だが、一月末には、私は大変いやなことをしてしまったと思ったものである、私と彼女は今や純粋の友だちであるが、 彼女について述べることは、私の喜びとするところである。
が、その前に槻高最後の学年について記さなければならないのだが、高2の時と同じく書かれたものは少なく、 彼女との関係することすべてが、その年全体であったようである。{関係といってもあやしいものでも、不純なものでもない。}
しかし、これはあくまで、私個人の生活史であるから、ミスW論は他の機会にゆずろう。 断わっておくが、私が今年外語にすべったのは、単に学力が不足しただけで、彼女に左右されたというようなものではない。 私は、そんなつまらない交際はしなかったつもりである。{責任は私自身にあるのである。}
==私には、あと一日という時間がお[惜]しいような気がするが、ここまできたのであるから、最後の学年に力を入れようと思う。 私がなぜ今ごろ、こんなことをするのか、後で説明するつもりであるが、あまり表面的では決してないが、非常に利益が得られたのである。 =={それをさらに有効に使うことが必要である}
*高槻学園新聞(昭和34年5月25日付 第70号)より自筆の論説「人間形成と学校生活」の転載(約2000字)。{余の得意とするところなり?}
重複するようだが、この後もう少し想い出すままに記してみようと思う。
8/26「なんど手がけても途中でやめてしまうのが、日記である。この日記というものは後世の人のために残すものであろうか、
それとも過去をふりかえって正しく生きるためのものであろうか、今のところはっきり分らない……」
――また受験勉強云々がある。『目的のために手段を選ばず』をある程度認めている。
8/27「話の続きを始めようか、それとも別のことにしようか。とに角、開巻第一ぺージから面白くない話では大人気ない……」
{これは二冊のノートの始めである}
「……他人に迷惑をかけない限り、自分の思う通りの道を歩めばよいのである。 こんなことをいうと、逃避だと非難されるかも知れないが、自分にできることは限られているのだから、仕方がないではないか。 何も他人をしばる必要はないじゃ[では]ないか。それが二度と得られないものであったとしても他人である以上は、こちらは何も出来ないのである。 自由に出来るのは自分の身だけだ。……」――“何も他人を…”の部分は、再会以後のあるもどかしさについて述べているものと思う。
――次のぺ一ジには、私の成績不良のことに三つ程の理由を上げ、最後に、日ごろたまっていた教師に対する批判がある。
「……それに第三、これがこの二、三年間最も影響しているものと思われることだが、教師の悪いことである。
<こう考えたことによって、結果的に私が敗北したのである。>
これは教師の能力を否定しているのではない。教師の態度が気に食わないのである。
だからこんなつまらない取るに足らない教師のいうことが聞けるかと思う程[と]、ますますいやになり、授業をなおざりにするのである。
……頭がよいだけではよい人間にはなれない。……人を見損なうな。小生は悪人ではないぞ。頭の悪い人間ではないぞ。
むしろよすぎるくらいなんだ。腹黒いヤツの講義を有りがたがって聞けぬくらい腹の[+虫が]おさまらない人間なんだ。
ヤツは欠点だらけではないか。まだ人間ができてないではないか。……」
――シャクにさわる教師は随分いるが、これはある特定の教師に対してらしい。{私の教師に対する要求は非常に高い。}
また、ずっと空白が続くがその間は、ミスHとの手紙で分ると思うが、今、勿論、手元にはない。
九月始めは台風に関して、あるいは昔の想い出に関して色々書いたものと思うが、ズイ分楽しかったものである。
{私は一種のノスタルジストであるが、能ナシではない。}