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「ミニ自分史」(117)他人の評価/自省のことば…2010・05・04 橋本健午

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何気ない“ことば”でも、人を喜ばせたり、傷つけたり、あるいは励ましたり、落胆させたりするものです。 ここでは、私の受けた他人の“ことば”を中心に印象に残っているものを掲げてみます。 そのほとんどがありがたい反面教師として反芻するものであります。

*1959年(17歳)8月:「結婚は25歳まではしてはいけない」…幼友達の母親の言葉(8年ぶりの神宮寺で)

○1961年11月8日・日記「浪人時代」より:その日Y先生(通信添削会社の女性)とM君からも便りが来る。 先生は、私が「東京で学生生活を送りたいのは、ガール・フレンドが上京中だからだろう」なんていっておられるけれど、それは少し的はずれである。……
《ちなみに、小学校時代の幼友達である彼女は日舞師匠の内弟子として修行中で外出もママならない生活を送っていた。 翌年1月、年賀状の返事に、正月を東京で迎えたが、暮れから風邪を引いて薬を飲んでもさっぱり利かないとあった。 私はその日、薬屋に行って問うて見たところ、パイロンという新しいのがいいだろうとのことで、それを買って送ってやった。 彼女は異郷に一人でいて、満足なことが出来ないのだと思い、私にとって少し高かったが、治ればそれでいいと思ったのだ。 /ついで、3月早大受験で上京中、一度電話をもらっただけで、その後はまったく消息すら知らなかった。 次に偶然“会った”のは1970年夏、若狭を舞台にしたあるドラマに“特別出演”している姿を、行きつけのすし屋のテレビで見たときである。 彼女はその少し前に、結婚したと週刊誌2誌に出ていた》

○<自称>1962年(19歳)3月15日:早稲田大学学生身上記録に自己の性格を評して、穏和、愛他的、批判的、ペシミスティックと記す。

*1962年(20歳)春/早大文学部に入り、文芸関係の同好会に入ろうとしたところ“30歳”といわれ、かなりショックだったことを覚えている。 (「ミニ自分史」(1)「顔」

*1963年(21歳)/8月高校の同窓会で大阪に。 H先生(数学)ほか40名足らずだったが、帰京後、露文コンパの席で、皆に「人が変わった」とほめられる。

*1966年3月2日:「ここ十日間ばかり、ずっとM君の弟の大学受験等で行動をともにしており、いさヽか気分的にも疲れた。 彼は未だ子供で甘ったれているが、私の弟子にしてくれというのには少々まいった。 私自身、海のものとも山のものとも判らないのに、弟子をもってどうするのか?  しかし、いずれにしても、弟子というのは必要なものである。それだけ人間的な幅も出てくるし、責任も伴う」《大学卒業直前》

*1966年3月12日:初めて洋服の仮縫い。「体が素直だ」といわれる。仕立てにさして苦心がいらない由。

*1966年4月29日:「次に行ったとき、朝顔を洗うときに気がついたのだが、それまで2本並べて置いてあったハブラシが、1本しまわれていた。 それは、ある決意をしたのだという女の気持が伝わってきて、うしろめたさを感じた」…彼女はあろうことか、 学生の私に「2号さんにしてほしい」といったことがある。

*1966年11月21日:「先日母は、私の人生は波乱のそれだと言っていた。 すでに、あの事件のとき私はいさゝか並はずれであるということを自覚してはいたが、今度のことで、また、それは想像もできなかった程、 私の人生の一大転機となった。/しかし、今までと違って、私はいつまでも、凡てに甘ったれておることはできず、 (それもいさゝか飽きてはいたが)小説を書くという大目的に向かって、脇道にそれずに進まなければならない。 (以下略)」 …作家梶山季之の下で働くことになって。

*1967年夏ごろ:梶山先生一家と伊豆の山荘へ:就学前の娘さんとの会話だったか、それを聞いていた先生から「キミは策士だなあ」といわれる (助手となって1年も経たないころ。“信頼された”のかもしれない)。その後「わが家にいたら、どこでも務まるよ」ともいわれた。 たしかにその通りになった。

*1969年(27歳)ごろ/しばらく付き合っていた5歳下の自称“面食い”女性いわく「あなたと結婚する女性なんて、いないわよ!」。
(参考…創作「宿題が すんだら」

*1970年ごろ/「お見合い写真は、すぐ見に来なくちゃダメじゃないの!」と元下宿の大家(奥さん)に叱られる。 私はお見合いの“しきたり”を知らなかった。

*1973年1月/わが“人前”結婚の案内がてら、後輩を連れてなじみの店に顔を出したところ、一人の女が受付をやるのよとはしゃいでいた。 その後、小料理屋のママは「あの娘(こ)が受付をやるというから出ないわ。K先生にお酌しようと思ったのに」と言った。

*1973年2、3月/わが結婚式(2・3高田馬場・レストラン大都会)の参加者に、写真ともども改めてウイスキーを贈ると礼状が届く。 「先日は大変愉快な結婚式に私共まで出席させていたゞき真に有難うございました」(男性3人組)。 「新婚生活は如何ですか? 奥さん相手に相変らず駄洒落の連発ですか。… これまで私も何回か友人の結婚式に出席させてもらいましたが、 結婚式なんてどうしても形式的になりがちですが、この間はどうしてどうして、如何にも橋本さんらしく大変楽しませてもらいました」(男性同期)。 「先日はウイスキーをお送り頂きありがとうございました。僕にまで気を使ってくださって恐縮です」(少し若い男性)。 <なぜ贈ったか−会費制(3,000円)でお金が余り、女性にはクッキーの詰め合わせを>

*1975年(33歳)9月25日:鞄刊現代(編集部)に就職する。講談社(親会社)のE氏の紹介による。 E氏はわが師梶山季之の異国での急死の際、梶山家に駆けつけた作家や編集者が右往左往する中で、私が冷静に対処していたと評価してのことだったという。

*1975年11月:総務部長より、顧問弁護士の“紹介”を依頼され、斡旋の労をとる。

*1976年10月22日:日刊現代の創業1年後、社内の配置換えを命じられ、各部署の机の移動などにより社長賞(金一封)を受ける …コクヨだったかの図面と大小いくつもの紙の机を使って一人で作成(総務部)、受賞時は経理部に所属(最初は編集部。勤続1年7ヶ月)。

*1982年4月2日:梶山グループ会合(夜8時京王プラザホテル) 帰りのタクシーで岩川隆(作家)さん曰く「大分、人間が丸くなった…」と。

*1982年(40歳)8月30日:5時すぎK家へ、日本雑誌協会への勧誘(就職)の話をすると、運勢に“大器晩成”とあるといわれた。 午前中はひどい雨だったが…。

*1982年10月1日:40歳で団体の事務局に勤め始める。かなり若く見られ、中には28歳ですかといわれたときには、びっくりした。

*<自省>1984年1月17日:夕方、年配のH氏、S氏らに会う。久しぶりで、こういうのもよい。気楽である。 生活が安定してきたせいか、顔が変わってきたとか。これも仕方のないことだ。ただし、軟弱になってはいけない。

*<自省>1988年11月22日ノオトより:・人レス(ストレス)/・屈折十年(苦節十年)

*1990年10月28日:槻友会総会(約600名)のあと、13期(65名)の2次会で、在学中は恐かったといわれ、びっくり。 変わっていない、若いなどという声もあったが。

*1991年3月25日:布川先生から道新のコラムについての感想で「大変勉強している」と過分なおホメの言葉をいただいた。
「北海道新聞・日曜版〔ほん〕欄「目・耳・口」」

*1991年8月ごろ:廉恥心のない人から「恥を知れ」と言われた。

*1991年11月ごろ:「少年時代の思い出を持つ人はうらやましい」…男も女もそう言った。

*1992年1月24日:布川先生より電話「よく事情に通じている」…私の枚方講演の記録についての感想

*<自省>1992年5月:隠忍自嘲(隠忍自重)/屈折十年(苦節十年)

*1992年8月7日:「将来 局長になる人は ゴルフぐらいやらないと」…S社の役員;善意からだろうが。

*1992年10月31日:早慶戦観戦のち田無寮OB会(飯田橋会館67名)、そのあと二次(同期)会を取り仕切ると「ずい分変わった」と言われる。

*1992年11月5日:私の文庫本の解説を読んで「すごい人が 隣りにいるんだなあ…」…後輩T君の感想

*1993年1月28日:「厳しいことを言うわりには 優しい顔をしていますね」…A社の若いM氏、編集委新年会の席で

*1993年6月18日:「あの人は あなたが恐いのですよ」…若い人が口をそろえて(たんぽぽ:暑気払いで)

*1993年7月5日夜:「あなたは 温かい人だ」…新宿のある酒場で、隣り合わせた見知らぬ人から

*1993年7月15日:日本マンパワーの若い女性(問題集作成の担当者)と昼食打合せの席で「会って楽しい人、実はこわい先生かと思っていた」由

*1993年7月15日:「あなたが責任者になったら、こわいだろうな」…この日で退任のK委員長/「勤めは 身過ぎ世過ぎのため 本を書いてくれ」…顧問H先生の言葉

*1993年7月20日:「あなたは 学生時代とちっとも変わらない」…志のぶのママに

*1993年7月31日:「お前は要領がいい… Y子ちゃんを振ったではないか」…ランチョンにて 誕生日を祝ったMのことば

*1993年8月4日:「悪いことを していない顔だ」…ミロンガにて 後輩T君の感想

*1993年8月25日:「プライドをもって 生きている」…T君のことば

*1993年8月末:「お世話になった 相談したいこともある」…都のある女性部長

*1993年8月30日:「何ごとも 研究を続ける人がよい」…K社のS氏のことば

*1993年9月3日:「ウマの合う 人でよかった」…新委員長のことば

*<自省>1993年9月上旬:昔と比べて/変ったのは/何のせいか  人の見方はさまざま

*1993年10月12日:「ドライな人のようでも 人情家」…T君の感想

*1993年10月25日:「名前からして 作家的ですね」…ある人いわく

*<自覚>1993年10月28日:「昔から 第一印象は悪くない」…ある人に

*1993年11月9日:「私は気が小さい」、「何をおっしゃる!」…アジア広告会議・電通ナイトの会場で

*1993年11月11日:「神経質なのに 拘らないところがある」…Sの母、分からない人だと。

*1994年1月1日:「今年は ダジャレを止めましょう」…元日、N(7歳)の言葉

*1994年1月:色紙を贈る「趣味があるのは うらやましいですね」…1月のある日、K君のことば(“名入れ色紙”)

*1994年1月31日:「相性が悪いのに よくもつね」…ある会合のあと、Yさんのことば

*1994年2月7日:「あんたはやっぱり 酒が強い!」…銀座で、ある社の人に

*1994年2月上旬:K君「立候補して下さい!」といいつつも、“二、三年仕込むから責任者になれ”とささやかれた由。   

*1994年3月17日:「本当は ゴルフがうまいのでは」…同僚が口をそろえて言う

*1994年3月24日:「何でもこなすから きらわれるのでは」…T君のことば

*<自省>1994年5月11日:「“存在”そのものが、すでに他人に迷惑をかけているという現実の中で」

*1994年5月26日:「あなたが やるぞといったら 私たちは従う」…今後の運営についてT君のことば

*<自省> 1994年6月20日:「自分を抑え、相手を思いやり、自然の流れのままに」

*1994年7月12日:日記(Tさんの送別会のあと)Aさんと新宿へ。“萌木”ママの妹が、私のことを「若い、ハンサムだ」といった由。懐かしい言葉だ!

*1994年8月10日:「ちゃんと 他人(ひと)は観ている」/「調べて書くものに期待する」/「彼はキミと比べられるのが恐いのだ」…以上、H先生のことば

*1994年9月5日:「私は文学青年 でたらめだった H君も似ているが 学者タイプ」…新人歓迎会で、愚にもつかない上司の話

*1994年10月19日:「ちょくちょく女性から電話がかかってくる うらやましい」…T君のことば

*情報1994年10月28日:「再び、鈴を付けられたか?(来年3月まで)」…だれと相談?

*情報1994年11月11日?:M氏「事務局がシャシャリ出ることはない(“基準”)。会報 2ヶ月も遅れている」…何か動きがあるのか?

*1994年11月7日:「意見は言っても さからわないこと」…T部長より

*1994年11月10日:私の仕事を引きついで、上司に「大丈夫です すべて反論できます」 …半年も居つかず、逃げるようにして去った、ストレスで太る若い男(どうしてこんな男を採用したのか?!)

*1994年12月15日:「あなたは色々知っているから 上司が恐がるのでしょう」…忘年会のあとで

*1994年12月21日:「よく我慢してますね?」…昼食のとき、K君のことば

*<自省>1994年12月31日:「私を恐れるのはよほど自信がないか 何かやましいところがあるからだろう」

*1995年1月5日:「いつもネクタイがすばらしい」…同期M君のことば

*1995年1月10日:T君「橋本さんは オシャレだ」、すかさず上司は「T君のネクタイはいつもいい」…私を目立たせてはいけない?!

*1995年1月21日:「平安時代の 辞世の句 みたい」…「書く書く詩か字か 学生時代」を、白い本に書いているとき、8歳の息子が言った。

*<自省>1995年1月下旬:「お墓まで 持っていく話は いっぱいある」

*1995年2月2日:S社K氏「あなたは タダモノではない という雰囲気がある」/K社S氏「キミは若いころ ナンパをしていた!」 …以上、熱海・文春寮でのある合宿の際に

*1995年3月14日:「この原稿は 私にとってお宝だ」(売り込むのも大事に)…『色は…』(のち『梶山季之』)について、N君のことば

*<自省> 1995年3月8日:「余り難しく考えることはない 人生あるがまま…」

*1995年3月28日:「いろいろ あるんだなあ」と…成人式を迎えた娘の感想「書く書く詩か字か 学生時代」を贈る

*1995年4月4日:「学生時代のウラミを引きずっているのか」…Qのことば、同期会のあとで/逆に「よほど、オンネンがあるのか」と私は思った。

*1995年4月10日:「電話では剣もホロロだったが、会って話すと とても…」…日本キリスト教矯風会の女性のことば(青少年と“有害図書”に関して)

*1995年4月20日:「T君はH君のようになるのでは…」との上司のマイナス評価に対し、 「むしろHさんのようになってくれればありがたい」と…別のT君のことば

*1995年5月24日:「自分の子供に伝えられる ことばがあるのはうらやましい」…R社Tさんのことば。「書く書く詩か字か 学生時代」について

*<自省> 1995年6月5日:「仕事 何年もやって初めて連関がのみ込める…」(新人のT君に)

*<自省> 1995年6月6日:「世の中の大半の事象は“心理学”で解ける」 

*<自省> 1995年7月7日:「一人を除いて全くアテにならない(人格、仕事上で) こんな部下ばかりでは責任者にはなりたくない」  …銀座アスターで(事務局納涼会、H先生に)

*1995年10月2日:「気力がなくなった。自分を突き動かすものがない。これ以上いてもメイワクに」との私に、 「自分の人生だ。組織は代わりの人がやる(オレがいなければという人も多いが)」…K社長のことば

*1995年10月3日:「会報いつもありがとう。布川文庫に保存する。書協のとは全然ちがう」…布川先生より電話をいただく。 九十四歳。これが最後となった。布川文庫…収納2万点の由、いま国会図書館に移転。

*<自省> 1995年10月6日:「私にも意地やプライドがある いつまでも老醜を晒したくない」(美学)

*1995年10月8日:息子曰く「定年て、何?」「60歳で会社を辞めるとか…」。「お父さんの定年は?」「自分で決めるのだ」

*1995年10月9日朝:K君曰く「昨日(私が辞めることを)局長に言った」。これでオシマイ(準備完了)

*1995年10月16日:「ずいぶん思い切ったものだなあ。キミは責任者には向いていないと思う。 雑協にとって必要なのは事実だが(だれが?)、引き止めていいものかどうか。疲れが出ているのだろうから、一月休んだら。 残る3人は似たような性格(男はもう一人いるハズ)」…朝、辞表を提出、局長の話

*1995年10月18日:「今日の報告は落ち着いていた」(役員会の後の例会。マイクを使っての報告)…T君の感想

*1995年10月19日:「疲れたの?」…理事長へ(電話のとき、挨拶をすると)

*1995年10月20日ごろ:「痛手だ!」の言…出倫協S議長

*1995年10月28日:(有能なスタッフがいない・・・)「さあ、これからはお祝いの会だ」…松戸にて、H先生に報告

*1995年10月30日:「次々に職員が辞めていくのは責任者に問題があると思われている」(ボクもそう思う)…T君の言

*1995年11月20日:私の送別会(12・6)に欠席の元委員から委員長あての手紙「アノ橋本くんが、とつぜん辞めるとは! 驚いております。 しかし、本当に、お世話になりました。…せめて記念品代には参加させて下さい。そして橋本氏にはくれぐれもよろしく。 お酒は控え目に、ダジャレも控え目に、とお伝えください」(ちなみに、出席予定人数が増えて、急きょ会場が変更になったという)。

*1995年12月6日:「橋本さんがアカ(共産党)だと言われているが、それはウソだ」…編集倫理委送別会で、2人の新旧委員が発言する (幸か不幸か、私はそれまでそんな風に言われていることを知らなかった)

*<自省> 1995年12月6日:「世の中を甘く見てはいけない 世の中を甘くしてはいけない」…編集倫理委送別会でお礼の挨拶

*1995年12月上旬:「洗脳されていた!!」…Kの述懐(編集倫理委送別会の数日後、二人で昼食のときに)
「君のこと、調べた」
「洗脳されていた?!」

*1995年12月中旬:関連団体の専務理事から、うちに来てくれないかと声をかけられる。 曰く「クールだっていう評判だよ」…その昔、私のことを“アカ”と警戒していたオジサンの一人である?!

*<自省> 1995年12月25日:「人生 時にはけじめをつけないと 流されるままでは反省の機会がなくなる」

*<自省> 1995年12月26日:「何者かであろうとする前に まず人間であれ」

*1995年12月28日:「橋本さんは弁が立つから局長が嫌うのだ」…S社H氏のことば

*1996年1月7日:元ある委員会委員より手紙「貴兄がおられない駿河台は淋しいの一言です。 でも、私はように年を足らないうちに、再度新しい世界に挑戦することは素晴らしいことと思います」

*1996年1月8日:ある会員者の若い社員より手紙「賀状を頂き大変驚いております。S社在職中一方ならぬお世話を頂き、心から感謝しております。 (個人的には、貴協会は納得の行かないことが多く、余り好感を持つことが出来ませんでしたが、橋本さんは別でした)。本当にありがとうございました」

*1996年1月11日:元同僚(年配の女性)より手紙「本当に長い間お疲れさまでございました。さぞほっと安堵されていることと思います。 橋本様は几帳面な性格の方なので、在職中はさぞいろいろな面で、ご苦労が多かったことでしょう。でも、よく堪えてこられたと感服しております」

*1996年1月18日:流通システム開発センター(DCC)より“流通システム化”貢献者表彰を受ける(6個人・4法人・1団体)

*1996年2月2日:G社K氏、私の送別会で、私のことを「外向的に見えるがネクラ。神経質。わがまま。自分に厳しい。四六木星。独立心がある」と。

*1996年7月4日:原稿を読んでもらう件で、年配のMさん(元S出版社)に会う。 なぜか「マジメだなあ」といわれ、「ことさらマジメに生きてきたつもりはありません」と答える

*1996年11月18日:雑協に顔を出し、I専務に挨拶をすると「来年、ご相談を!」といわれ、「お役に立てるかどうか」と答える

*1997年1月27日:O社OBのT氏から呼び出し:雑協に復帰する気はないかと…現有メンバーでは不安の由(御茶ノ水ルノアール)

*1997年2月25日:元K社S氏より「戻らないか」(“ポストT”について、山の上ホテルで)

*1997年3月22日:メモ。友人より「個性が強くて」といわれた。

*1997年春ごろ:クリーニング屋から帰ってきたカミさん曰く「旦那さん、上手に着ている」とホメられた由。スーツが着崩れしていないことについて

*1997年11月4日:昼、前の上司の送別会の会場で、一度会いたいと声をかけてくれた元の勤め先の理事長(A社社長)を訪問した。 近くの天ぷら屋で会食しながら、私が辞めたことについて「けんかしたの?」と聞かれた。「いいえ。年齢もキャリアも違いますから」。 今どうしているのかなどと聞かれた後、「事務局のことが心配だ。復帰する気はないか」と質問された。 私は「辞めた理由(「気力がなくなった」)が理由ですから、声がかかれば考えますが」と答える。 「K君に言っておく」ということで別れたが、結局は何の動きもなく終った。

*1998年1月27日:「いい本を作って…」「着眼点がすごい…」「わがまま言うのを止めようかな」

*1998年4月16日:前事務局長の発言「あいつはアカ(共産党員)だ」(10年以上も前から、書協の組合運動に絡み)→これが、その後ずっと影響しているのでは…(K君いまでも)

*1998年4月26日:ある委員会元委員よりハガキ「来月の15周年記念研修旅行に参加されますか。お出でになるようでしたら、 久し振りに“橋本語録”を聞かせてもらえるのではないかと楽しみにしております」 (参加は可能だったが、“研修旅行”の趣旨が不明朗であるため、加わらず。 事前のある会合で、何人もの関係者から“誘われ”たが、そのことを口にすると、「橋本さんは、そう言うだろうな」という人もいた)

*1998年5月21日:「あれはどうでもいいの、遊びに来て。おネエちゃんはさすが橋本さんらしい」と。

*1998年11月9日:「橋本さんは特別の人」の由。Sの女将さん。その昔、付き合っていた娘の成人式の記念写真を写真館で撮ってもらった。 つまり、忙しい親代わりをしたことをさすらしい。

*1999年3月25日:友人のI氏はコンピュータに詳しい、曰く「よく書いたなあ」と感心していた由(「バーコードへの挑戦」に関して)。

*<自省> 1999年7月14日:私は出版界の異端児ですが、つまり”居たんですか”というぐらいの存在…。

*1999年8月4日:夜8:40「驚きモモの木20世紀」で、梶山季之を取り上げる由(私にも出演依頼)。私の本を読んで、破天荒な人物ではない…。 私が若い声なので、48歳かと聞くが、57歳と。8/20(録画)。9/17夜9時放映。テレビ朝日

*1999年9月20日:テレビ放映「ハンサムに写っていた」(業界新聞M氏)。 /「テレビ写りがよい、バックも良かった。言葉がそのまま、文章になっていた。すぐにも電話をしたかったぐらい」(元役人C氏)。

*2000年12月19日:「新文化」を読んで、「R-18に反対する橋本はどういう人だ」と、H氏にS出倫協議長は聞いたという。 「学会の記念パーティで会ったでしょ」と答えたそうだ。

*2001年10月1日:「あなたはナンバーワンじゃなくて、オンリーワンよ」(年配のSさん:吉祥寺で)

*2001年10月4日:「あなたの言った『料理を作る手順と同じように書いている…』という言葉を、つきぢ田村の若主人に伝えた」由(H女史) …その前9月26日、H女史を訪問:自分史講座の依頼。色紙を贈り、ファイルを預け、2時間ほど話す。

*2001年10月18日:志乃ぶにて、奥村氏と。(巨人の次期監督、原辰徳に)「長嶋の次にいきなり王ちゃんじゃ…」 「ワン(王)クッションおいたんですね」「座布団一枚ですか」

*2002年3月17日:看護婦仲間で、「どこで見つけてきたの」などと、私のことが評判になっているという。 よい印象を与えているとすれば、Sにもプラスに作用することだろう。

*2002年4月19日:「未知の女性から、問い合わせのメールが届いたよ」というと、16歳の息子「60年も生きてりゃ、いろんなことがあるさ」だと。

*2003年9月18日:珍しく 37・2度の熱のため診察を受けると、老女医曰く「風邪だが薬も入らない。お酒を飲んで寝るのがいちばん。 /歯もきれい、肌もつやつや、若い。だけど過信しないように」

*2003年12月24日:娘の友人、私のHPに関して「穏やかな顔をしているが、過激なことを書いている」と評したとか。

*2004年2月12日:講義のあと、新年会(ライオン)で「(先生は)感情を抑えている、一人一人の時間の配分を考えている、前の原稿のことを覚えている。尊敬しますね!」(ある男性)

*2004年7月20日:先日、久しぶりに古い友人カメラマンのM君に会うと、私を見るなり「昔にくらべて、穏やかになりましたね」といい、 つづけて「あのころはきつくて、近寄りがたかったですよ」と。
ミニ自分史「顔」

*2004年7月22日:講義のあと、お茶の席で「先生の言葉やダジャレは、(平成の)平賀源内のようだ」(40代後半の男性<学習塾経営>)

*2004年10月15日:ある女性より「若い、さわやかな顔、生活臭がない(脂ぎっていない)、奥さんが美人でしょ」リーガロイヤル東京でのA社著者大会で

*2005年5月21日:見舞いのため初台リハビリテーションの受付付近で立っていると、男性二人が近付いてきて「先生は、勉強会ですか。患者さんですか」と変な聞き方をする。 「どちらでもない。患者の見舞いです」と答える。何を勘違いしたのか?

*2005年7月26日:K夫人より電話「(作家S氏夫人の手紙に、私のことを)感じのよい人」とあったという(7月12日『戰線文庫』の関係でS氏に話を聞いていた喫茶店に、 夫人も後で加わった(新百合ヶ丘)

*<自戒> 2006年2月9日:“生活臭”をにおわせない(残さない/見せない)」…かつて(50代半ば)、ある人に「独身ですか」と2度もいわれた。

*2006年3月13日:EスクールH氏、私の手紙の返事として電話で「〈前期〉記事作成実習の評判が悪く、下りてもらう。 (生徒も減っており)、12月から新規“教養”として“出版・言論の自由”70分×12回」の由。理由は知らないが、彼は新学期にはもういなかった。

*2006年5月8日:「結局、残ったのは、ハシちゃんだけじゃないの」と、娘さんに言われた由。

*2006年10月10日:EスクールT氏へ…「毎度のことながら、最初の授業(10:10〜)の遅刻が多すぎる。 欠席者も含め、何を考えているのかわからない。講師の私を甘く見ているのか、あるいは講師に関係なく、遅刻などをするのか…」

*2006年10月12日:講師の私について、数人の仲間の前で「誠実(公平)、清潔、シャイ」と評する(40代後半の男性<学習塾経営>)

*2005年10月14日:ある帰国子女という女性に「いつも輝いていますね」と声をかけると、握手を求められ、 「あなたも同じ。わァー、あたたかい手」と。アグネスホテルでのA社著者大会で

*2006年12月10日:夕食後、テレビの時代劇かの話していたカミさんと息子の二人。とつぜん「お父さんに、隠し子はいないの?」と聞く。 「じつは…」と言いたかったが、「そんなものはいない」と答えると、二十歳の息子が「なんだ、詰まらない」とのたもうた。どういう、つもりだろう?

*2007年2月14日:人によっては「はっきりモノを言わないのが欠点」などといわれるが、言ってしまえば相手のプライドを傷つけて、 たいへんな事態になるからである(人間関係が壊れる)。我慢しているのではなく、相手をかばっているのだが、それは口が裂けてもいえない。 私が口を開くときは慎重な言葉を選んで、はっきり言うほうである。

*2007年4月18日:ある40歳前後の男性。「けん語録」…「ときどき読んでいます。元気付けられます」

*2007年5月13日、瑞泉寺で、K家親戚の方に「10歳は若く見える」 

*2006年7月ごろ:地方から新幹線で帰る途中、年配の女性がのど飴を口に含むついでに、私にもさし出した。 受取りながら「どうもありがとうございます」というと、「そんなバカ丁寧に言わなくても・・・」と苦笑された。 私は差し出されたものにではなく、その行為に謝辞を述べたつもりであった。 というのも、年を取るにしたがって”物言い”がぞんざいになってはいけないと思い、年齢に関係なくどんな相手にも失礼にならないようにと訓練しているのである。

*2007年5月13日、元M社K社長:拙著寄贈の礼状(ハガキ)で「橋本さんは、変わらないねえ。」 

*2007年5月21日:広島の帰りに、茨木に寄る。ベッドから立ち上がるM義姉に手を貸すと「あたたかい手」といった。 久しぶりに会った。広島でのシンポジウムを伝える中国新聞を渡す。

*2008年4月4日:ある人たちには、何でも”完璧”と思われてしまう”不幸”、そしてその反動がコワイ

*2009年3月5日、元K社Sさん「相変らず、若いねえ」(S社O前社長のお別れ会で)
*2009年3月13日、久し振りに訪れた古巣で:後輩のK君・Yさん、ほとんど口をそろえて「変わらないですねえ」
*2009年3月26日、年に春秋の二回開かれる“午年”生まれによる会で、まん前に座っている何度も会っているはずの一回り上(S5年生)の女性から、 「若いわねえ。29年生まれ?」と聞かれる。

*2009年10月31日、余り明るくない照明の下で、何年ぶりかで会った同期の仲間から、「変わらないですねえ」と口をそろえていわれた。

*<自省> 私も額にシワや老人斑が出るなど、年齢相応に年をとっていると自覚しているのだが、なぜ「変わらない、若い」などといわれるのか不思議に思い、 しばし考えてみた。仲間の顔などを眺めていると、より彫りが深くなっているか、あるいは若いときにくらべ顔が膨らんで、全体の容積が増えている、ように見える。
では何故そうなるのかと想像してみるに、定年退職などにより仕事(勤め)が一段落して、悠々自適の人生を送っているからではないか。 翻って私は、これまでいくつもの仕事(職場)を変わり、いちばん長い月給取り生活も13年3ヶ月、53歳で辞めたものの、 いまだ何がしかの“仕事”−近ごろ収入に結びつくものはほとんどない−を頼まれるなど、「調べて書くこと」は現役である、ともいえる。
もう一つは“家族構成”にもよるのではないだろうか。孫ができて、ジージ、バーバといわれ相好を崩す同年輩に比べ、 孫どころか20代前半の大学院生を抱えるわが家では、それなりの緊張感が漂っているのだ。

 わが若き日の、母の言葉:「鏡を 見なさい」
 最後に、極めつけはやはり、母からの「(お前には)女難の相がある」という一言です。浪人中の十八のときでした。 どういう意味でいったのでしょうか、未だに分かりません。
 もう一つ、これは同じく茨木時代(高校生のころか)。 テレビで見たアメリカ映画で、あるインディアンの長老が若者に言ったせりふ「何かことが起ったら、リーダーを探せ。いなければ、お前がなれ!」というものでした。
 つまり、緊急のときなど、人々は混乱して右往左往するものです。そこで、だれかが冷静に状況を判断し、事態をよりよい方向に導くものだと私は解釈しております。 どれだけ冷静になれるかということが大切で、ささやかながら私自身の行動の指針ともなっております。


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