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「ミニ自分史」(118)わが“コレクション”による「岡本太郎」へのささやかな拘り(こだわり) 2010・05・18 橋本健午

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〈その1〉
 最初のものは上京して大学1年生の初夏。少しは学生生活も東京にもなれたころだろうか。
 1962年6月26日、新宿文化(映画館)で何を見たか記録していないのは残念だが、手元に映画のチケット(入場券) がある。 彼独特の抽象的な図柄に“TARO”のサインがしてあるもの。

〈その2〉
 ついで、1964年1月26日、西武百貨店における「岡本太郎展」(主催・読売新聞社) を見に行き、ノート(自由日記)に次のように記している。

 『岡本太郎の個展を見る』 私は先に彼の『今日の芸術』という著書を読んでいた。この展覧会は、今朝知って、午後すぐ出かけたものである。 彼の抽象を見ていると、始めのうちは引き込まれるのだが、だんだんとその対象に向かって、ぶち壊したくなるような気分に襲われるのだった。 会場のバックの黒は実によく作品を引きたヽせていたが―実際私自身そう感じたのだが―その黒一色が圧迫感を感じさせるのかもしれない。
 私は少しとっぴなことをやろうと思って、人々が数間離れて見ている、その作品の前をゆっくりと彼らの顔を見ながら、歩いてみようと思い、 歩き出していると、突然岡本太郎その人が現われて、いちばん大きな絵の前に立って、カメラにおさまるのだった。
 私は初めて彼を見たが、小柄ながら、実に精悍な感じで、全身これエネルギーの塊のようであった。 カメラマンの注文に応じて、ポーズするとき、彼はネクタイをなおそうとしたので、私はすかさず(つむじを曲げたつもりで)無い方がいいんじゃないですかと言った。 彼は何か答えたようだが、私には聞きとれなかった。
 そのとき彼がしていたネクタイは、自作のデザインであることは言うまでもない。 なお、彼がその前に立った絵は“予感”という題のもので、私も気にいった作品だった。
 その後、彼のサインのあるパンフレットを手に入れた。

〈その3〉
 私は大学時代にノート(自由日記)を9冊分書いていた。主として大学ノートだが、小型のものや正方形に近いものもある。
 その4冊目(1964.8.24〜1965.4.4 IV)のカバー(大判の紙)は、紀伊國屋書店(本店・新宿)のもので、岡本太郎独特の“火の玉”らしい絵柄に、 やはり“TARO”のサイン入りであった。
 最近それをはがしてみたところ、ウラの下部にゴム印で「39.4.7」とあることに気がついた。なんと、45年ぶりの“発見”である。

〈その4〉
 【1966年9月30日:習作「虚構としての時代」全15章237枚】
 (第7章11ページ13行目〜同13ページ18行目)
 大きなテーブルを挟んで腰掛けた葉子を見て、さきほどの暗い喫茶店で見るよりも綺麗だと思った。 酔って写真を撮りに来たことについては、もう何も言うまいと思った。大分打解けて来たので、賢二の口も軽くなっていた。
 葉子は海老のフライを、賢二はサーロイン・ステーキを注文した。白と赤のワインが、ぶつかり合ったグラスの中で、ゆらゆらとゆれている。 紅色の唇に吸い込まれたワインは、心なしか早くも葉子の頬に、ほんのりと赤みを浮かばせ始めた。
 「貴女のような美しい女(ひと)が、いつまでも独りでいらっしゃるなんて考えられませんね」と彼は、不躾に言ってしまったが、 葉子は「あら、世の中には、独身主義の方、大勢いらっしゃるじゃございませんか。画家の岡本太郎さんだとか……。私もそのうちの一人よ」と、 笑いながら答えた。
 「えゝ、そりゃそうですけど。岡本太郎は、俺のは独身主義じゃない。唯一人でいるだけだと言ってましたが」 「それなら、ますます私、岡本流ですわ」
 「男って頼りない存在ですか。それとも……」「それとも、何?」葉子は、心持眼を大きく見開いた。
 「それとも、結婚なんて面白くありませんか」「きっと面白くないでしょうね……。私は余りよく判りませんけれど」彼女は少し言葉を濁した。
 「僕も、つまらないものだと思うんです。なのになぜ、男と女は、そんなに結婚したがるにか、理解できないですね」 「そうかしら……。女って家庭を持ちたがるものよ」 「それじゃ、貴女はどうなんですか……。一人でいるだけで不幸なのに、二人になれば、もっと不幸なことだと思いますが」「………………」
 賢二は、話の接ぎ穂を見失って、慌てて話題をそらした。
 (「虚構としての時代」

〈その5〉
 もう一つは、2001年7月27日に観にいった「岡本太郎と縄文展」(日本橋三越本店7階ギャラリー)である。
 そういえば、その後(1970年)、大阪万博の会場入り口正面に建てられた彼の“太陽の塔”がいやおうなく、観覧者を威圧?していたのを思い出す。 「芸術は爆発だ!」(1981年)といった彼の面目躍如たるものであったろうか。

〈その6〉
 数年前、ある講義で若者に〈その2〉の話をすると、授業のあとわざわざ確認に来た学生がいたのは何となく嬉しかった。 若者たちは仲間どうしのおしゃべりは活発だが、質問などほとんどしないからである。

 おしまいに、これは最近の話題である。
 2008年10月、彼の巨大壁画「明日の神話」(幅30m、高さ5・5m)が渋谷の井の頭線に通ずる通路にかけられた。 原爆の炸裂の瞬間を描いたというこの壁画は1968−69年にメキシコで制作された後、行方不明になっていたが、 2003年にメキシコ市郊外で発見され、愛媛県で修復されたという。


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