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「ミニ自分史」(15)「級友の死」その2

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 中学・高校時代の友の死もあった。
 私が大阪・高槻市にある私立の中高一貫校に在学したのは、1955年〜1961年である。男ばかり、4クラス約200名の中には、 学業のできるもの、スポーツに秀でたもの、その両方に優れているものもおり、田舎ものの私にはかなりの刺激となった。
 H君は小柄だが、快活で野球部ではキャッチャーをやっていた。あまり強い部ではなかったが、そんなクラブでも、 H君は楽しんでいたようだ。あとで知ったが、あの長嶋茂雄の同期として巨人に入ったため、不幸な境遇を過ごした? N三塁手という先輩がいた。私は軟式テニス部に所属し、彼とは同じクラス、同じ市内にいたが、野球部は夕方遅くまで練習するため、 それほど親しくはなかった。
 卒業後1年で、私は東京暮らし、彼と出会ったのは、在京メンバーによる同窓会の席で、すでに40代に入っていた。 Y生命の東京本店にいた、面倒見のいい彼は会場を予約し、気の置けないだけ無遠慮な同級生たちをうまく裁く、 いかにもキャッチャー(女房役というよりまとめ役)に徹していた。
 その後、仕事を辞めた私は、彼に生命保険の相談をしたりもしたが、彼はすでにガンに侵され、闘病生活を送っていたようだ。 1997年7月、私は『梶山季之』を日本経済評論社から上梓し、かつての同級生にも"案内"を出したとき、彼も買ってくれた。
 療養先からハガキをくれ、「現在、秋田県へ湯治(3週間)に参り、読み始めております。膨大な資料の整理、時系列的な整理、 交友関係の聞き取り、裏づけ、さぞ大変な作業でしたでしょう。私も世俗的な見方しかしていなかった。 そういう印象を受けていましたが、超能力者、幅の広いジャンルをものにできる作家であったと初めて知りました。 また随所に健午君らしい性格が滲み出るところがあり、改めて君を見ている感じです」などとありがたい感想を述べた後、 末尾に「今は小康状態です」とあったが、寿命は争えなかった。

 話は前後するが、家庭の事情で、小学校は2つ行った。小学3年生の5月、福井県から静岡県湖西町に移り、 近くの岡崎小学校に編入となった。ここでも2クラスだった。卒業間近にまた家庭の事情で、今度は中学・高校に大学まで、 大阪府茨木市の異母兄の家に世話になる。
 この間の状況は、本稿(13)「言葉づかい」で多少ふれているが、この2クラスによる同窓会が、恩師を囲んで当初5年、 いま3年おきに開かれているのだが、次回(06年予定、これが最後)の幹事の一人、Tさんがガンで亡くなったという。 どうして、こうガン死が多いのだろう。
 2年前の夏は、還暦記念の箱根への1泊旅行で、Tさんも元気だった。
 私は遠来のせいか、住まいが近くて仲のよいK君やS君、IさんやNさんに"歓迎"されるのだが、 もうそれもなくなるかと思うと、さびしい気がする。
 ≪わがHP「プロフィール」1961(昭和36)年:創作「生きるべく道へ」参照≫

 級友の死は、もちろんこれだけではない。
 大阪時代のS・H君がなくなったのは、この3月はじめ、脊髄ガンだとメールで知らされた。東京から見舞いに駆けつけた友には、 「仲間はK、H、自分と早死にする、Mは行方知らずだし、君はしっかり長生きしてや」といっていたという。
 卒業後、ほとんど会う機会がなかった私は、弔意を表するとともに、「在学中の印象では、やんちゃ坊主的なところと、 運動が得意ではなかったかと思います。ピッチャーにたとえれば、直球より、変化球を投げるほうが似合っている、 という感じでした」などと記したが、なぜこうも"野球"の話が出てくるのだろう。不思議だ。


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