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「ミニ自分史」(16)「相撲取り」

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 元大関の貴乃花親方が死んだ(05・05・30)。
 私は、強い力士より、小兵で、一所懸命の相撲を取る力士が好きだった。その昔75年に長女の生まれた日、 「…4時、5時、6時、大相撲の初日が終って貴ノ花が勝ったが、連絡はない。…行ってみようか、どうしようかと思っているうちに、 7時10分前に電話。6時30分、女の子だという」と、日記に書いている。
 親方の息子たちについては、「コネ、情実の世界ではあるけれど 若貴の活躍は大したものだ」(93・3・27春場所14日目、若花田初優勝)とも書いた。
 実際に力士を見たのは、福井県小浜に住んでいた小学校低学年のころ、近くの神社に巡業できたときだが、 誰々だったかはまったく記憶にない。ついで、静岡県に移ってから、もっぱらラジオから流れてくる相撲放送と、 新聞のスポーツ欄や遊びのメンコに見る力士ばかり。それでも、東富士、千代の山、鏡里、吉葉山らの横綱を知り、 大逹や三根山、安念山などの名も覚えた。なんとなく、立浪部屋の力士が好きだったようだ。
 その後、前の朝潮が優勝したころ、「朝潮夕潮」というような映画があって、ややこしく思ったものだ。 このころすでに、ダジャレ(言葉遊び)に目覚めていたと見え、政治家が公約を守らないのを「二股公約(膏薬)」ともじって、 離れて住んでいた父親にハガキを出したことがある。これなども、一人相撲といえようか。思えば、サビシイ?少年時代だった?!
 さて、栃若、柏鵬時代はテレビを見ていたか。先に「小兵が好きだ」と書いたが、これは少し長じて、 「大きいことはいいことだ」に反発する天邪鬼の精神からと、大型力士は勝って当たり前だが、動きが緩慢で、 ワザらしいワザが少ないことにも魅力を感じなかったからだ。
 子ども時代は、遊びも少なく、じゃれるように相撲を取ったり、中学1年のころ大きな級友にくらいついても、 足の長さに勝てなかったが、別に口惜しいとも思わなかった。うで相撲やゆび相撲も少しはやったが、 しょせん暇つぶしでしかなかった。大人になって、畳の上で子ども相手に相撲をとるとき、 いかにも力負けしたとわざとらしく見せないのには苦労したものだ。
 そういえば、新潟出身の母は、郷土の力士を応援していたように思う。一方、天皇は5時からしかテレビを見ないとか、 ひいき力士を口にできないなどと知り、気の毒なことだと思ったものである。
 東富士が、プロレスに転向したころから"国技"相撲はアヤシくなってきた。先輩力道山が成功したのは、まだ関脇と地位が低く、 若かったからではないか。輪島など他の転向組もあまり長続きしなかったのは、運動選手(いま流でいえば、アスリート)として、 盛りを過ぎていたのか、重たい体と鍛え方がプロレス向きではなかったからか。
 横綱といえば、日本相撲協会の"汚点"として、一度も優勝経験のない北尾を、 あろうことか名跡双葉山と羽黒山をあわせた「双羽黒」などという贅沢な名をつけ横綱にしたことであり、 しかも、パソコンゲームだかに熱中していた彼はほどなく廃業してしまった。いま、私の手元に、 横綱双羽黒の名がある幻の番付表があるが、そのころすでに相撲に興味がなくなっていた。
 ハワイから始まった外国人の力士が増え、いまや朝青龍に代表されるモンゴル出身など何か国から来ているのだろう。 でも、私は国技なのになどと嘆く気はない。それは柔道でも同じで、いつまでも旦那ヅラして胡坐をかいているのは日本人の悪いところ、 今の巨人中心のプロ野球を持ち出すまでもない。またぞろ、元巨人オーナーのナベツネが球団社長として復帰するというではないか。
 などと床屋談義になってしまったのは、初代明石志賀之助(栃木、寛永元年)から65代貴乃花光司(東京、平成6年)まで歴代横綱の名入り扇子を片手に、 涼しい顔をしているからだろうか!?


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