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「ミニ自分史」(53)「若者への提言」

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《1980年前後は、講談社の月刊現代編集部で、原稿を書いたり、コラム欄を担当するほか、いろいろな仕事をしていた。 79年6月に最初の出版物、少年向けの『マルコ・ポーロの冒険(上) 大いなる旅立ち』(剄文社エコーPS文庫(NHKテレビ放映中){本橋 游})を出す。 モノグサで、あまり体を動かさないほうだが、80年10月に調布に引っ越してから、しばらくして近くの稽古場で、弓道を習いだす。 腕のほうはほとんど上がらず、もっぱら出版OBの方(五段)に可愛がられ、近くのすし屋で飲む、ということが多かった。 そんなことが82年7月ごろまで続いたようだ。したがって、初級どまり?!
 さて、これらは、ある友人の関係する出版社のPR誌に寄稿するつもりで書いたものだが未発表》

その1「絶交」について       1980(S55)1.28 橋本健午

 中学から高校時代の私は、かなり親しかった友人何人もと、「絶交だ!」と言い合って、口を利かなくなったものだ。
 同じクラスで、通学の電車が一緒なので、お互いに気まずい思いをしても、「こればっかりは譲れない。キミを失っても、 自分の信念は変えられない」とそのときは真剣だった。むしろ、悲憶感さえ漂っていた。
 他人は、若気の至りだとか、ハシカのようなもの、そのうちすぐ仲直りするさというかもしれないが、 当人にとっては人生の大問題である。これが"青春の蹉跌"というものかなどと、のんびり構えておれるものではない。

 絶交したあと、しばらくすると始めの意気込みはどこへやら、不安になったり、謝って、また付き合ってもらおうかなどと弱気になったりする。
 そうかと思うと、どう反省してみても、オレのほうは絶対まちがっていない。なのに、いま頭を下げれば、自ら敗北を認めたことになる、 それでは自分の信念を曲げたことになると、また傲然となったりする。
 相手もおそらく、そういう心理状態・葛藤に日夜悩まされているにちがいないが、他の友人たちは誰も、 仲介・調停に乗り出してはくれない。一応の大学受験校、それも私立の男子ばかりの学校では、みながライバル、 他人のケンカなどに構ってはおれないのだ。

 キミにも似たような経験があるだろう。たいがいは些細なことが原因なのだ。オレを無視し出したとか、 恋人が敵に傾いて友情にヒビが入った、成績の差がついた、一方は合格、一方は浪人で気まずくなったとか……。
 そうなったからといって、中世ヨーロッパの騎士道精神華やかなりしころのように、決闘だと剣を抜くわけにもいかないし、 殴り合いのケンカをして、後はサッパリという性質のものでもない。
 親しければ親しいほど、その反撥は大きくなる。相手が自分と同じ水準と認めているからだ。とるに足らない相手なら、 始めからケンカにならない、"金持ちケンカせず"とよく言うではないか。
 中学時代のA君は、同じテニス部だが、チェロもやっており、もちろん秀才であった。総じて私のケンカ相手は、頭が良かった。
 知的、感情的・心理的なものが作用しているから、陰にこもりやすい。それだけ第三者には分かりにくいわけだが、 いまから思うと、やはり、思春期から青春期へ脱皮する一つの契機だったのではないだろうか。

 ところで、キミたち若者はどうだろう。あてつけがましく家出してみたり、すぐ自殺を図ったりと、 自らの責任から逃避しようという甘えがないだろうか。
 自ら蒔いたタネの処理も満足にできないなら、始めから偉そうなことを言わないほうがよい。
 自己主張は自我の目覚めであり、自己確立の第一歩だ。しかし、その時キミの心のどこかに、他人への依頼心がむくむくと頭をもたげてはいないか。 いざとなれば、誰かが何とかしてくれるだろうという甘えがないか。
 それが親や兄弟なら、代わりに責任をとってくれるだろう。しかし、友人はちがう。友人は他人だ。 親しいからといって、相手の立場を侵してはいけないし、自分を正当に(ありのままに)評価してほしいのなら、 キミも相手に対してそうでなければならない。

 さきのA君は、現役で京大工学部に入った。私はテニスも勉強も彼にかなわなかったが、長距離だけは負けなかった。
 高校1年の冬だ。恒例の校内マラソンで私は調子がよく、徐々にスピードを上げていた。それを見たA君は走りながら、 後につづく後輩に大声で、「橋本について行け!」と、どなった。
 それを耳にして、私はじーんと目頭が熱くなった。A君は、私が彼のことを思っている以上に、私のことを正当に評価してくれていたのだと!
 私は優勝こそ逸したが、陸上部の先輩についで2位となった。それは自分の力よりも、A君の一言が原動力だった、といまでも思っている。
 ○親しき仲にも礼儀あり  ○君子の交わり淡きこと水のごとし

その2「タバコ」について      1980(S55)1.29 橋本健午

 キミはタバコを吸うか――いや、私はキミが未成年であろうとなかろうと、タバコを吸ってはいけない、 体に毒だなどというつもりはない。
 私はタバコをやらない。特別の考えがあってやらないわけでもないし、体をこわしてコリたからというのでもない。 だから「タバコはやらないんですか?」と聞かれたときは、「面倒くさいから」と答えることにしている。
 聞くのは、たいがい吸う人だ。「なるほど、面倒くさいからねえ」と納得する場合と、 「へえ、それは変わっている」とまるで珍種の人間を見るような顔をされる場合がある。

 そう、第一に面倒くさいのである。タバコばかりか、マッチあるいは、ライター(今でこそ使い捨ての百円ライターを、 学生も労働者も、わりあい紳士も女性も持っているが)を携行しなければならないし、灰皿もいる。 このセットをそろえるのが面倒であるし、ポケットにいれると、かさばって落ち着かないのである。
 他人のを見ていても、箱がつぶれていたり、折れまがったり、残り少なくなったくしゃくしゃの袋から、 さも愛しそうに取りだして吸うなんて、およそ惨めでしかない。
 人はどうしてそんなにタバコを吸いたがるのか、不思議でならない。心理学のほうでは、タバコを吸うのは口元が淋しいからだ、 赤ん坊のときに余りお母さんのお乳を吸わなかったからだという説もあるようだ。

 友達がやっているからオレもやる、大人のマネをしているうちに病みつきになった。 カッコいいから、退屈だから、反抗心から……などと、キミたち若者にかぎらないが、日本人は往々にして主体性がない。
 タバコを吸うのに主体性がいるのかって? それは要りますね。食後の一服はうまいとか、どの銘柄はどうだとか、 本当に分かって吸っているのだろうか。たいがいは、ちょっと火をとキッカケを作るために、 あるいは、話がとぎれたときに煙をはいてごまかしたりする小道具にすぎないのではないか。
 その程度の効用は、効用に入らない。ましてや、少しカッコいい人が、変わったのを吸っていると、 自分もそれに切り替えたり、最もポピュラーなもの(ハイライトから、今やマイルドセブンか)なら、 手持ちのがなくても、誰かが持っているだろう、などと……。

 「ちょっと一本くれ、あとで返すから」と言われて、嫌な顔をしたり、あいつはいつも返さないんだからと目クジラを立てては、 キミの品性が問われる。ここが問題なのだ。
 相手は自分のことをタナにあげて、"あいつ、タバコ一本ケチケチしやがって"と吹聴したり、"人物が小さい、 あれじゃ出世しないよ"などと陰口を叩かれたのでは、目も当てられない。
 つまらないことで気まずくなったり、たかが五円か十円で、他人に品性を問われては適わないが、 人間はこんな些細なことで、その本性が現れることが多いから気をつけなければいけない。
 タバコを持っていなければ、そんな煩わしさに巻き込まれることもないだろうから、精神衛生上もたいへんよいではないか。

 私はいままで一度もタバコをやらなかったわけではない。学生時代にはときどきふかしてみたことがある。 缶入りピースの蓋を開けたときの香りのよさ、ひところのショートホープのちょっとした味のよさも知っている。 しかし、それらが私を虜にするほどのものではなかった。
 タバコを吸わない効用は、タバコを巡る人間関係の煩わしさに無縁でいられることと、火事の原因の一つを作らないことだ。 なにしろ、火で不始末をしない。

 私の友人には、タバコを吸うのも吸わないのもいるが、吸わないグループには概して、ユニークな人が多い。 ムダ口を叩かないし、自分に自信を持っているのか、煙に巻いてゴマカそうなどと考えない。
 もちろん、私はその人たちが、なぜ吸わないのかを一度も聞いたことはない。
 ○火のないところに煙は立たぬ

その3「女の傘」について       1980(S55)1.29 橋本健午

 男にとって、ちょっと持ってみたいものに女の傘がある。
 母のや姉のであったり、クラスの女生徒のものであったり、彼女のであったり、飲み屋の女のであったり……。

 思春期というか色気づいてくると、いろんな悩みに身悶えた経験はキミにもあるだろう。
 小学生のころの、姉や妹の傘はなんとなく気恥ずかしい。中学生になって、同級生の嫉妬や羨望のまなざしを背に受けての相合い傘はいい気分。 相手が実の妹だったら、「お前、あんまりくっつくなよ、誤解されるから!」

 高校時代、受験勉強ばかりで遊びやガ一ルフレンドに目もくれなかった。ある日、学校の帰り、とつぜん降ってきた雨、 傘の用意もしていない。駅から家まで走って帰ろうとすると、若い見知らぬ女性から、「よろしかったら、どうぞ」と声をかけられたときの、 胸の高鳴り。ちょっと大人っぽい彼女と連れ立って歩くなんて夢心地、たとえわずか五分でも、キミの人生をバラ色にする。
 家に帰っても暫くは呆然として、彼女の顔かたち、美しい声など一つ一つ思い出しては、ああ名前を聞いておけばよかった、 また会えるだろうか、とたちまち恋に陥り、空想を巡らし、挙句のはてに勉強が手につかず、キミは自?するか、自滅してしまう……、 なんてことはなかっただろうか。

 雨はいやなものだが、時としてロマンチックな気分にしてくれるし、思わぬ出会いを現出してもくれる。 また女性の魅力を表現するのに、"夜目遠目傘のうち"というように、傘はなかなか重要な小道具となる。

 もっとも、傘は凶器にもなるから気をつけないといけない。二年ほど前ロンドンで、ソ連情報機関の男がコーモリ傘で毒殺されたことがあった。
 中年男が駅のホームで電車待ちの時間を惜しんで、ゴルフのスイングのマネをするに及んでは、無粋でハタ迷惑である。

 大学生になると、行動半径がぐっと広がり、付き合う範囲も多種多様である。それだけカラフルな傘と出会うが、これが落とし穴だ。
 田舎から出てきてアパート住まいの学生の周りはいちめん誘惑の海だ。中には脇目もふらず学校と下宿を往復するだけの朴念仁もいるが、 たいがい、恋の二つや三つをし、女の家を泊まり歩いたり、同棲やら、アパートの未亡人にとっつかまって、ほうほうのテイで逃げ出したり……。
 知らぬは田舎の親ばかりで、たまに来る便りは"カネ送れ"の一点張り、四年聞はあっという間にすぎる。

 私はというと、雨はあまり好きではないし、傘を持つのはなお嫌いだ。女の傘は小さめにできていて、 決まったように派手な花柄模様、そんなのをさしてはとても天下の大道を歩く気にはならない。 とにかく、照れ臭いし、恥ずかしい。

 朝早く、小雨降る中を一人とぼとぼと女の傘をさして歩いているのは、いかにも〈ついさっきまでは……〉と、 他人はあからさまな想像力をかきたてるからいけない。花嫁の帽子が"さあ、やるぞ!"と公表しているのと同じで露骨すぎる。
 中には、女物の下駄に傘、それに女の小さな半天などを着込んで、おれはモテるんだぞ、おれに惚れてる女がいるんだぞと、 これみよがしの兄イもいる。サマになっていれば、それはそれでよいが……。

 しかし、"おれは売約済み"という赤いラベルをはって歩いているようなもので、他の女はなんだ、 つまらないと見向きもしないだろう。そういう生活に安住してしまうと、学生でもサラリーマンでも、 そのままずるずると行ってしまい、二十歳そこそこで、へんに所帯やつれした、生気のない男になってしまう。 そのうち、妊娠した、どうしてくれるのなんていわれて、一巻の終りになりかねない。

 キミは"遣らずの雨"という言葉を知っているか。キミがそろそろ彼女のアパートを出ようとすると、 帰ってほしくない彼女の気持ちを現すかのように、急にふりだす雨のことだ。
 彼女はほっとしたように、「女物の傘しかないの。やむまで待っているでしょ。」
 これはこれで、なかなか風情のあるものだが、キミなら、どうする?
 ○急いては事を為損じる ○慌てる乞食は貰いが少ない


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