いまから8年ほどまえ、私は"出版倫理"関係の原稿を発表していたが、一方でコラムニストでも目指していたのだろうか。 それとも生来の"小言幸兵衛"が健在だけだったのか。こんな、メモらしきものが出てきた次第。(2007・11・20 橋本健午)
コラム カバンを横に置く男 99・10・7
電車内では資料を読んだり、中吊り広告を眺めたりしているが、それとなく乗客の動きを観察していることも多い。
つくづく、世の中いろいろな人がいるんだなあと思う。
昔の同僚に出会った若い女性は、しばらくおしゃべりした後、彼と別れるとき「じゃ、元気で」といった。
「お元気で」というほうが、情がこもっているのではないか。
ニットの帽子と野球帽を横ちょに被った若い男たちは、仲よく一冊の『少年ジャンプ』を読んでいる。
二人ともだらしなく足を組んでおり、靴先は一方の男のズボンにふれても、互いに大して気にしていないが、これが赤の他人だったら……。
いかにも"おばさん"風情の女性が、大きな荷物を座席に置き、二人分を占領するように、そのサラリーマン風の男は薄いバッグを傍に置いていた。
「それはまずいんじゃないの」というと、きまり悪そうにひざの上に載せた。夕方、ラッシュ時の始発電車内で。
コラム 電話をかけてこない編集者 99・10・8
セールスの電話にはいつも悩まされるが、仕事上の電話はいつまで待ってもかかってこない。
催促するのは気が引けるが、しなければ仕事がはかどらないのも事実。
単行本の原稿を依頼されて、ある程度まとまると渡していた。ときどき進捗状況をうかがうと、いくつも原稿を抱えているらしく、
まだ目を通していないということが多かった。
そんなことが重なると、「そろそろ(電話が)来るころだと思いました」というのが、彼の最初のあいさつとなった。
ふつう、ものを頼んだほうから連絡するのが礼儀ではないか。
別の社の編集者から、留守中に電話があり「明日、また架けます」という。聞いたことのない相手で、どんな用件か分からない。
そこで一日待ったが、何の音沙汰もない。そのつぎの日連絡すると、「わざわざお電話ありがとうございます」。
いつまで放っておく気だったのだろう。配慮というか、相手があっての仕事という認識が薄いのではないか。
コラム 「アンチ・バリアフリー」のすすめ 99・10・11
断っておくが、障害者のための"障碍"を取り除くことに反対という意味ではない。
日本語でいえば、ふつうの人に対して「垣根」とか「敷居」を、もっと高くするべきだという提言である。
具体的には、ハレンチの反対で、日本人はもっと"廉恥心"(当然、今のワープロでは出てこない言葉)を持たなければいけない、ということである。
"廉恥心"とは、恥ずかしく思う気持ち、他人の目を意識する感覚とでもいおうか。
とくに子育てには、まず、この精神が必要であるが、
"赤信号 みんなで渡れば 恐くない"は秀句であるが、これによって、日本人の"タガ"が外れてしまい、
なんでもオーケー、自分の好きにやってよい、という風潮を生み出したところに問題がある……。
《注:まだ、ワープロ健在の時代だった!》
コラム 「礼儀」…次の人のために 99・10・25
例えば、玄関での靴をそろえておく、風呂のお湯を適度に足しておいたり、温めておく。
これらの行為は、じつは人のためではなく、"自分にも返ってくる"ことである。
逆を考えてみよう。玄関で靴やサンダル、下駄が散らかっていたとしたら、すぐに履けなくてハラが立つことはないだろうか。
お風呂のお湯がぬるかったり、少なすぎたら、どう思うだろうか。反対に、適温だったり、ちょうど入り易い湯加減だと、幸せな気分にならないだろうか。
また、食卓では箸をそろえる。ご飯茶碗と味噌汁の椀を間違えずに置く。「いただきます」「ごちそうさま」をきちんという。
・・・・・《まだ、推敲をしていない。考えがまとまっていない》
追記:思えば、この年9月17日、テレビ朝日で「驚きももの木20世紀『梶山季之 無念の死』」が放映された。 私も少しばかり"出演"し、梶山の直木賞落選にまつわる話をした覚えがある。