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「ミニ自分史」(63)「書く書く詩か字か 新時代編」

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1996/2/3橋本健午

 二月三日、土曜日。節分と初午と暦にはある。
 二十三年前、私たちが結婚したときも、土曜日で節分と初午に、たしか立春が重なったと記憶するが、辞書にあたると、 節分は立春の前夜とある。また、この日は亡父、八五郎(号、梧郎)の誕生日でもあった。
 朝、さち子の前で、色紙にこう書いた。
『結婚二十三年/昭和四十八年二月三日/子供二人はともに三年生/仕事は二転、三転/これからも二人三脚で/平成八年二月三日』

 午後2時すぎ、幸恵と望と自転車4台を連ねて、深大寺に向かった。
 節分会の豆まきは、高尾山はじめ各地の寺社で行われると知ってはいたが、うかつにも近くの深大寺でもやるとは、思いも及ばなかった。
 実は十日前に訪ねて、年男には「八代将軍 吉宗」で好演した中村梅雀と、この初場所に敢闘賞を授賞した玉春日が来るという張り紙を発見したのだった。
 これまで、子供を中心に、その夜まめを家のうち外にまくという行事を繰り返してきたが、長女の時は幾つまでやっていたか忘れたし、近ごろは長男も熱が入っていない。

 ところで、その日、古い友人の松田君が、久しぶりに訪ねたいというので、つつじガ丘からバスに乗った。 平日の昼前は人影もまばら、三十数年ぶりという彼に劣らず、私も若き日の一人旅のごとく、しばし感傷的な気分にひたった。
 しかし、からりと晴れた青空に、空気は冷たく身に染みる。お参りもそそくさと、門前の秋葉屋という野草料理の店に入り、 すき間風で暖房のあまり利かない部屋で、熱燗を何本も倒しながら、野蒜のぬたやせり、ぜんまい、味噌でんがく、 てんぷらにした数種類の春の野草を堪能し、仕上げのざるそばもうまかった。
 仕事を辞めて、まだ一月も経たず、何となく慌ただしい中、少時ではあったが、のんびりと過ごせた。 これに勝るぜいたくはなく、まさに幸せというほかなかった。

 野川沿いに上流に向かう途中、水面が凍っているのが見える。氷は薄いようだが解ける気配がない。 近来にない今年の寒さを改めて感じさせる。
 急な坂道をそれぞれ自転車を押上げ、しばらく行くと、前景気をあおるためか、太鼓を連打する音が聞こえてくる。 土曜日のせいか子供づれも多く、境内には大勢の客がつめかけ、女性主体に替わった太鼓の演奏に聞き入っている。 彼女らが演じる舞台は、社殿に上る階段を半分ほど利用した特設のもので、その回りを所せましと老人から子供まで、 また外国人もまざり、この後の豆まきに期待して、いい位置を確保しようと取り巻いている。
 3時の定刻前に演奏は終り、大きな拍手を受けて、頭があいさつする。「4年前から続けているが、今日はお客さんが多い。 きっと玉春日さんが目当てだろう」などと、負け惜しみを言っていたが、昨年も来た人に聞くと、土曜日だからだとのこと。

 いよいよ、僧正以下のお坊さんたちに続いて、年男の片尾波親方、目玉の玉春日関や紹介されない若い力士、 三鷹にある前進座の役者数人、さらに氏子?代表の年配の男女が洋服の上に袴すがたでたくさん出てきて、 それぞれ派手に投げ、あるいは細やかに、遠くまで投げ、あるいは真下の人に手渡しで、取り巻く人々は大人も子供も区別なく嬌声をあげ、 われ先に手を出し、袋を広げ、下に落ちたのを素早く拾い上げ、と何とも賑やか。
 しかし、豆まきはわずか十分ほどで終り、後は山門の近くで大量に用意した豆を、並んでもらう人の列が続く。 こういう人たちを、善男善女というのだろう。

 私たち家族は、辛うじて手にした袋入りの豆3つばかりで満足し、参道の両側に並ぶ店を覗き、そば屋の品定めをしながら、 比較的のんびりした店に入りそばを食べて、4時半過ぎ、陽が落ちはじめ寒さが増してきたため、深大寺を後にした。
 長女の都合がつかないため、当初予定した新宿・末広亭で寄席を聞き、食事をしようという計画を先送りにして、 結婚記念日の行事を終了したのだった。


 前日で、それまでのすべてのことが終わった。

 私にとっては、新しい時代の幕開けの日となった。


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