母トワの書き残したものは、(1)手紙類、(2)日記類、(3)手記の3種に分けられる(名古屋時代)。
ずい分時間がかかったが、やっと母に関わる手紙類の“分類”が終わった。 まず、母が受取ったものに対する返事や出した手紙類は、とうぜん残っていないが、書いたものの出さなかった“手紙”はかなり残っている。 それは便箋であったり、ノートの上であったり、ともかく白地の紙があれば、ボールペンのほか万年筆でも書いていたようだ。
封書 | はがき | 現金書留 | 書簡郵便 | 計 | 健午より封書/葉書 | Sより | Yより | 計 | ||
昭和48年 | 1973 | 29 | 14 | 0 | 0 | 43 | -/- | -/- | -/- | |
昭和49年 | 1974 | 30 | 4 | 0 | 0 | 34 | -/- | -/- | -/- | |
昭和50年 | 1975 | 35 | 17 | 1 | 0 | 53 | -/- | -/- | -/- | |
昭和51年 | 1976 | 10 | 8 | 2 | 0 | 20 | -/- | -/- | -/- | |
昭和52年 | 1977 | 16 | 1 | 3 | 0 | 20 | -/- | -/- | -/- | |
昭和53年 | 1978 | 20 | 4 | 5 | 0 | 29 | -/- | -/- | -/- | |
昭和54年 | 1979 | 21 | 4 | 4 | 0 | 29 | -/- | -/- | -/- | |
昭和55年 | 1980 | 20 | 9 | 5 | 0 | 34 | -/- | -/1 | 1/- | 1/1 |
昭和56年 | 1981 | 20 | 5 | 4 | 0 | 29 | 1/1 | 3/- | 2/- | 6/1 |
昭和57年 | 1982 | 27 | 10 | 6 | 8 | 51 | 2/1 | 1/1 | 1/- | 4/2 |
昭和58年 | 1983 | 43 | 12 | 1 | 5 | 61 | 2/2 | 1/- | 1/1 | 4/3 |
昭和59年 | 1984 | 15 | 9 | 0 | 4 | 28 | -/8 | 2/- | 3/1 | 5/9 |
昭和60年 | 1985 | 8 | 9 | 0 | 0 | 17 | 1/2 | 2/- | 1/4 | 4/6 |
昭和61年 | 1986 | 5 | 13 | 0 | 1 | 19 | 7/6 | -/2 | -/4 | 7/12 |
昭和62年 | 1987 | 22 | 4 | 0 | 1 | 27 | 12/8 | 1/1 | 1/1 | 14/11 |
昭和63年 | 1988 | 9 | 7 | 0 | 0 | 16 | 4/6 | -/1 | -/- | 4/7 |
平成元年 | 1989 | 2 | 1 | 0 | 0 | 3 | 4/2 | -/3+1 | -/- | 4/6 |
平成2年 | 1990 | 4/6 | 1/1 | -/1 | 5/8 | |||||
平成3年 | 1991 | -/9 | -/2 | -/- | -/11 | |||||
平成4年 | 1992 | -/7 | -/- | -/1 | -/8 | |||||
平成5年 | 1993 | 2/- | -/- | -/- | 2/- | |||||
平成6年 | 1994 | 1/- | -/1 | 1/- | 1/- | |||||
332 | 131 | 31 | 19 | 513 | 40/58 | 11/13 | 10/13 | 61+84=145 |
昭和48年から平成元年までの17年間に、母から私たちあてに来た手紙類は、ざっと計算すると封書332、はがき131、現金書留31、書簡郵便19、計513通である。
それに対する母あては(年数が合わないが)封書61、はがき84の計145通であった。もちろん、失われたものは双方に若干あると思われる。
昭和48年は、2月に私たちの結婚した年であり、同50年には1月に長女が生れ、そのあとわが師梶山季之の急死(5月11日、香港)と“事件”が起こっている。
一段落したその秋、私は新会社「日刊現代」に勤めたが2年も続かなかった。以来、雑誌を中心に取材原稿を書いたり、校正の仕事をしたりと、
40歳の57年10月に出版団体に勤めるまで、フリーの身であった。この間、本名で2冊、筆名で1冊の本を上梓している。
とはいえ、生活が不安定ではないかと心配して母から何回も“差し入れ”があった。その後は、私の方から、モノや現金を送るという時代を迎えている。
この間、86年9月には長男が生れており、89年にはハガキを出している。なお、1988年と90〜92年の誕生日(11月3日)には前日、私以下4名連記の祝電を打っている。
通信は電話でも行われており、母から度々かかってきた。一方、私は78歳の母が(娘=私の姉が病気で入院し)一人住まいになった昭和58年1月後半から、
毎朝7時45分に電話を入れ、母が元気でいることを確認してから出勤するのを日課としていた。
地方出張の際、朝食を中断しても欠かさず行った。その時間になると、不思議に思い出すのだ。どこからかけても10円ですんだのは有り難かった。
後で聞くと、母はその時間には電話の前に座って待っていたという。
それが途絶えたのは、母が過労から緊急入院した昭和62年1月20日で、その年4月末に退院、有料老人ホームに入った同年5月に、再び私は朝の電話を開始した。
また、母を訪問するのは、それ以前から時々行っていたが、この昭和58年7月に兄2人と協議し以後、母の面倒は私が見ることになった。
“条件”は母が今までどおりの住まいで自由に暮らす、というものである。
ちなみに、東京⇔名古屋(新幹線にタクシーやバス利用)は95年11月現在で138回(うち昭和58(1983)年7月〜同61(1986)年12月、32回)、
91歳で亡くなった翌96年9月まで(95・12〜96・08)は10回となっている。往復の運賃と施設と病院への手土産は、毎回かなりの出費となったが、
止めるわけにはいかない問題であった。
なお、このほか、母との通信はア「家族との書簡集(昭和33年〜昭和40年)」と、イ「父の手紙・母の手紙」にもある。
住まいは私だけでなく、父母も変わっている。
ア…家族あてのうち、母には
1、中学三年〜浪人生活(S33・01〜S36・04茨木→静岡県湖西町など14通、残り1通は父あて)
2、上京、早稲田受験・合格(S37・03・01〜S37・04・08東京→茨木のうち11通は“保護者”長兄夫婦へ、同所・母あては3通)
3、早稲田入学、田無学生寮に(S37・04・13〜S38・03・05東京→茨木へ32通、うち母あては5通、父母連名は3通)
4、S38年6月、盲腸の手術その後(S38・08・01〜S41・02・07東京→茨木ほかへ32通、うち母あては2通だが、ほとんど長兄+皆々様)
5、大学卒業、社会人(?)に(S41・04・02〜S41・09・02東京→茨木)、この項は変則で、はじめの2通は長兄+皆々様あて。
その後は新通し番号1〜31は受信のみ(身内以外2通、他に3通)、うち母からは12通(封書5:はがき7)
6、投函しなかった手紙(S41・09・03<未投函>エアメール用箋9枚
・・・・・昭和41年11月、作家梶山季之氏の助手となる。(S41・11・21〜S44・03・11東京→茨木、全10通。うち母あて7、父あて1、両親あて2)
イ…父母からのもの。96年3月と4月にそれぞれまとめたもの。
前者は昭和48年1月〜昭和51年4月、父の死の直前まで54通あり、後者は昭和61年1月〜平成元年6月までの16通である。
昭和48年1月といえば、末っ子の私が間もなく結婚するという時期であった。
なお、母からの分16通は、上記の各年に算入されるべきものである。
なお、母はこれらの方々に返事を出すだけでなく、多くの手紙を書き送っていることは、来信により推測できるが、
ノートや便箋に途中まで書き出しているものも、いくつかある。
下書きとも思えないから、実際には出されなかったのであろうが、とにかく、ヒマさえあれば、ペンを走らせていたようだ。
テレビはニュース以外ほとんど見なかったようだし、新聞は取ったり取らなかったり、また雑誌な時々女性向けの週刊誌などを買って読んでいたようである。
二人はいつまでも元気に心正しく子を大切
にくらしてほしい正しきはごかいもまねく
が自分の心にそむかぬ事はきれいである
ごかいする人の心はその人の心であり人の
心ではないのである
人の心をわが心の尺度で計ることは出来ない
人の心の尺度を計る事 自分の心である
事をよくしってほしい
ところで、母の自叙伝『わが半生の道 第一部』の「あとがきにかえて」で、私は次のように記した。
これは私の母が十五、六年前に書き記したものの一部である。母は今年八十一歳を迎えたが、当時の六十四、五も今から思えばずい分若いといえる。 どのような思いで、原稿を書いていたのか聞いたことはないが、全部で六百枚近くある。これは、その十分の一ぐらいであろうか。(中略)
私が母からこの原稿を預ったのは、もう十数年前になる。東京・杉並区内にいた時、母が上京して二ヵ月ほど滞在した。 帰ったあとに残された白い、昔の単純な小型トランクを開けてみると、古い手紙類と一緒に入っていた。 だから、預ったといっても、はっきりこれが原稿だ、私の人生記録だというような話はなかつた。読んでみたのも、数年前のことである。
これ以降の原稿には、大連時代のその後、昭和十五、十七年の出産、敗戦と混乱、そして二十二年の引揚げ後の苦労、 小浜(福井県、夫の故郷)―新所原(静岡県)―茨木(大阪府)―名古屋と、変転きわまりない生活が記されている。(後略) 昭和六十年十一月 調布・国領にて
文中「どのような思いで、原稿を書いていたのか聞いたことはない」と記した私だが、母の遺稿類を読んでいると、次のような文言が出てきた。
それは、昭和46年「5月末…外に出る用もなく、部屋の中で静かに、健午と約束をしたので、自分の歩いた道を少しずつ書きつづって残す事にした」とあり、
このことを私はまったく忘れていたのだった。
そして、白いトランクを持って上京して来たのは、その年の9月である。
母の記述、私の記憶に誤りがなければ、相当の速さと集中力で書いたものといえる。
いや、それ以前から筆を染めていた、というのが真相ではないだろうか。
ちなみに、このころは名古屋時代―(1)私の兄(母の長男)の家族と、(2)ついで長兄(母からすれば先妻の息子)の死後、 茨木から引っ越してきた姉(先妻の娘)との同居、(3)さらに娘の死で一人暮らし―のうち、(1)に該当する。